2018.07.16

東京都港区 三田 高輪 白金 

来年 4月30日 現天皇は退位 上皇に 現皇太子は5月1日に天皇に
東宮御所の天皇は皇居に移られ 上皇は東宮御所に移られるが
準備の関係で 高輪にある 旧高松邸 高輪皇族邸に 改修工事が
始まったとのニュースで 見に行って来ました その他 港区で
気になった場所も見てきました 上皇に即位 200年ぶり 東宮御所は
仙洞御所に 京都の御所内にも 上皇用 仙洞御所が残っています

東京都港区 南部めぐり

201807131

① 薩摩藩上屋敷 現 NEC本社
② 江戸城 無血開城 西郷 勝 会談場所 現 三菱自動車
③ 40年ぶり 山の手線 新駅 品川駅~田町駅
④ 高輪大木戸跡 ⑤ 東海道 現 第一京浜 ⑥ 江戸日本橋方面
⑦ 横浜方面 ⑧ 慶應義塾大学三田キャンパス ⑨ 泉岳寺
⑩ 明治学院大学 息子の嫁 出身校 ⑪ 八芳園 息子夫婦結婚式場
  嫁さんの影響 ⑫ 大石良雄外16烈の碑 細川藩邸跡
⑬ 旧高松邸 上皇仮御所

品川駅 品川区と思いましたが 港区でした 近年 新幹線側に
リニア新幹線の駅の工事も始まり 品川駅と田町駅間に新駅 建設中

品川駅南側 目黒川河口に品川湊が 幕末 鳥羽伏見の戦いで敗れた
幕府軍 大阪城に逃げかえたのですが 将軍 慶喜 大阪城から
秘密裡に戦艦 開陽丸で江戸に 築地近く 浜離宮に上陸 その後
慶喜 上野 寛永寺で謹慎 

残された 新撰組 局長 近藤等は伏見で銃撃を受け怪我 沖田総司
は結核で 残りのメンバーで 同じく大阪湾より富士山丸で品川湊に
上陸後 近くの品川宿 釜屋に投宿 幕府より軍資金 武器をもらい
甲府城を乗っ取る為に 山梨に 近藤等はその後 流山で投降 斬首
土方歳三は 仙台まで北上し 榎本艦隊で函館 函館戦争に

榎本艦隊 宮古経由で函館に出発したのは 品川沖です

港区 元は大名屋敷が多数あり  勝海舟などは静岡に行くまで 赤坂
に住んでいました 幕末時 日米修好通商条約 締結で 横浜開港
長州攘夷派 高杉晋作などが 品川駅近く 御殿山のイギリス大使館 焼き討ち
事件が 又 東京タワー近く 赤羽橋付近で ヒュースケン殺害事件が
明治期になり 大名屋敷は 華族の屋敷に 戦後は
プリンス系ホテルが買収 品川駅前 高輪 芝公園にあります

日米修好通商条約で 下田にいたハリス 麻布十番 善福寺にアメリカ公使館
が設置 その関係か知りませんが 港区には 各国の大使館が多い

又 東京のキーステイション 放送局は 国営NHKは渋谷ですが
民放は全て 港区です テレビ東京 以前訪れた時 麻布でしたが
何時の間にか 同じ港区の六本木に移っていました

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201807133

地下鉄銀座線 三田駅 NEC本社ビル 薩摩上屋敷跡 広大 サッカー場
14面 主君 島津茂久の父 久光が幕政改革の為 700人で江戸に
帰路 薩摩屋敷より 薩摩に 屋敷の前は 東海道に途中 横浜 生麦で行列
の阻害した イギリス人 4人に切りかかり 1人死亡 生麦事件に 後日
英国に鹿児島を攻撃されています

久光 江戸に来るとき 1862年 京都 伏見 寺田屋で薩摩 過激勤王志士 
6人 久光の命により殺害 過激です

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江戸古地図 薩摩屋敷 薩摩蔵屋敷 東海道を挟んであります
蔵屋敷の後方 現在はJRの線路ですが 当時は東京湾
江戸城 日比谷公園付近まで海 現在は埋立地

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江戸城無血会談 西郷隆盛と勝海舟が江戸城受け渡しの為に会談 
薩摩蔵 1868年 庄内藩により 薩摩屋敷襲撃され 焼失
薩摩藩 西郷隆盛の命により 藩士 伊牟田尚平 益田休之助が
江戸市中で 放火 掠奪 暴行で幕府を挑発 幕府 庄内藩が
薩摩屋敷を襲撃 焼失させる 大政奉還後 西郷が幕府を挑発
させたのが真相 城兵は品川湊に逃げ船で避難
会談は 薩摩屋敷が焼失していたので 海岸の薩摩蔵で行われ
ました

西郷 勝会談の前に 慶喜の命を受けた 家臣 山岡鉄舟と益田休之助
が進軍してくる 西郷と勝の命を受けた 山岡 駿府城付近で会談前
の条件闘争を 薩摩藩 勝海舟の知り合い 益田休之助がいなければ
駿府にたどり着けなかったと思う

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地下鉄 泉岳寺駅 近く 第一京浜に高輪大木戸跡 1724年に建設
東海道に夜間は通行止めに

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品川駅~田町駅間に1971年西日暮里駅後 30番目の山の手線の新駅
が建設中 品川車両基地内に 地下鉄 泉岳寺駅近く 2020年に開通
予定 駅名 西日暮里であれば 北品川(京急にあった)地名からは
高輪駅だと思います

201807138

私学の雄 早稲田の双璧 慶應義塾大学三田キャンパスに
以前 故田中角栄宅見に行ったついでに 高田馬場の早稲田に 
慶応正門前 早稲田の学生と比べて学生 おしゃれに見えるのは
私だけでしょうか 正門隣に ラーメン二郎 三田本店が歳なので
大盛風 ラーメン食べた事はありません 好きな人は多い

甥は工学部出身 横浜 日吉キャンパスでした

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赤穂浪士 泉岳寺 四年前 本所 吉良屋敷から泉岳寺まで歩きました
18km 5時間 モー無理だな 三回目なので今回はパス 反対運動の
マンション建設されていました

泉岳寺 右側 東海大学付属高校 後方 上皇仮御所の隣 大石良雄
(内蔵助)外16人 忠烈の碑 討ち入り後 幕府は 47士 6?4藩のお預け
になり  大石内蔵助良雄外16人は細川藩に預けられ 切腹 位置的には
泉岳寺の裏あたりです 切腹後 泉岳寺に埋葬 カーナビでは見つけられ
ませんでした

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現在天皇陛下 退位後 現皇太子の住居 東宮御所に転居するのですが
リフォームの為に 一時的に 高輪の旧高松邸に転居 ニュースで工事が
始まったとの事 港区も坂が多い タモリが好きそうな 魚藍坂登り
右側 植物が多く 概要は良くわかりません 門の前には工事用の簡易
宿舎が建てられていました

帰りは 明治学院大学を回り 八芳園に その先が 目黒通り いわゆる
白金 シロガネーゼ 高級住宅街 地価が高いのか コンビニもない
無機質な住宅街で 転んでも住めない場所でした

来るときは 横浜新道 羽横線 首都高で来ましたが 帰りは 目黒通り 
第三京浜で自宅 高速料金 1/3でした

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2018.06.27

函館戦争 土方歳三 高田屋嘉兵衛 函館に

函館に 幕末 函館戦争跡見に行きました
以前 出張時 五稜郭 中島親子 土方歳三 最後の地
を見てきました 今回は 函館戦争の地 渡島半島 木古内 松前 
江差を周って来ました 函館市内 又 高田屋嘉兵衛を巡って
来ました 土方歳三 高田屋嘉兵衛も司馬遼太郎の作品にあり
燃えよ剣 菜の花の沖があります 今回 燃えよ剣の下巻
函館戦争のみ 再度 読みました

新撰組 鳥羽伏見の戦いで 新政府軍に敗れ 京都より幕府軍の
船で江戸に戻る 近藤等らは 幕府より大砲 銃 資金を受け
甲州 甲府城を確保の為に 勝沼方面に 官軍 東山道部隊と戦うが
負け 近藤 土方は千葉 流山に 地元の屋敷借り人員も集めるが
この付近も官軍に囲まれる 近藤は偽名を使い投降 近藤と見破られ
板橋で斬首される 板橋駅近くに 永倉新八が建立した碑があります
永倉 甲州から江戸に戻った時 新撰組を抜け その後結婚した
奥さんの実家 小樽に 昨年訪れました
奇遇です 永倉 代々 松前藩江戸で務めているので 北海道の
松前藩は 知らなかったと思います
新撰組 組長1~10番で明治期まで生き残ったのは
永倉新八 斎藤一 鈴木三樹三郎のみです 

流山で分かれた 土方は 幕府の歩兵頭 大鳥圭介と知り合い
宇都宮城を攻撃 城を確保 その後 会津経由で仙台に 城主
陸奥守慶邦に幕府の存続をとく 江戸城無血解放後 新政府軍は
幕府の船の引き渡しを求めるが 海軍副総裁 榎本武揚が家臣を
蝦夷地に移住させ 独立国を画策 1868年 明治元年8月19日 
旗艦 開陽丸 戦艦4隻と輸送船4隻 8隻で蝦夷地目指し 品川を
出港 8月26日 仙台に入港 元京都守護職 会津藩主 松平容保
の弟 桑名藩主 松平定敬 土方 大鳥などを乗船させ 10月9日 
宮古湾経由で蝦夷地 函館北 鷺ノ木に 10月21日に乗員 
3000人が上陸

函館戦争 木古内 松前 江差

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 1868年明治元年10月 いか飯で有名 近くの海岸 鷲ノ木海岸
  に旧幕府軍 品川より 榎本艦隊 3000人 上陸
 
 五稜郭 上陸軍 五稜郭奪還の為に 大鳥隊は七倉 土方は湯の川
  経由で五稜郭に 10月24日 五稜郭 接収

 湯の川温泉 空港近く

 1869年明治2年 4月 新政府軍 江差北部 乙部に1500名上陸
  函館までの進軍ルート3方向より進撃 江差から北斗方面の途中
  台場山付近 函館より駆け付けた 土方軍 塹壕を掘り待ち構える
  二俣口付近で 新政府軍と戦闘に しかし他のルート 松前 木古内
  のルート突破された為 土方軍は 五稜郭に後退 国道227号走り
  ましたが 古戦場の跡は見つけられませんでした

 木古内の戦い 鷲ノ木海岸に上陸後 五稜郭を落とし その後蝦夷地
  唯一の藩 松前藩 奪還の為に 土方を隊長とした 700名で松前に
  進軍 武器の違いにより 松前藩兵は江差方面に敗走
  その後 乙部に上陸した 新政府軍と旧幕府軍 大鳥圭介が木古内で激突
  新政府軍が勝利 戦場は函館 五稜郭に移る

  木古内でも古戦場の跡 発見出来ませんでした
  北海道新幹線 東京から新函館北斗駅まで開通しているのですが
  津軽海峡沿いに 線路あるはずですが ほとんど高架は見えません
  木古内で少し高架が見えるだけでほとんどトンネルで 木古内の先
  福島町で青函トンネルで 実感ありません 将来 札幌まで延長して
  東京ー札幌 5時間を目指すそうですが 飛行機の方が便利そう
  それより JR北海道の廃線問題の方が心配です

  木古内近く 北島三郎さん生家の看板多数見かけました

 松前城 松前藩 始祖は武田で 蠣崎氏の代 1599年 大阪城で
  徳川家康に拝掲し 蠣崎から松前に改名 松前慶広に 1604年
  家康より 蝦夷地交易の独占を安堵する黒印状を受ける
  1867年にクーデターにより 松前藩は勤王派に転じ 旧幕府軍の
  襲撃に備え 北部内陸に舘城を築城
  1867年10月 五稜郭を占領した土方歳三を隊長とした旧幕府軍に
  陸 海上より攻撃を受け落城 城兵は館城に避難

 松前藩 内陸に築城した 館城 国道277から内陸で探しましたが
  見つかりませんでした

 1869年 春 旧幕府軍がたてこもる五稜郭の北部に 新政府軍の
  攻撃に備えて 突貫工事で四陵郭を建設 近くには 権現台場も
  五稜郭も新政府軍の艦船からの艦砲攻撃で被弾

 江差 日米親和条約で開港した函館港まで 江差港が最大でした
  北前船の廻船問屋が多数ありました

 江差 北部 官軍上陸の地 1869年 明治2年4月9日未明 官軍上陸
  明治元年 品川 榎本艦隊出船後 蝦夷地上陸 翌年 青森に 甲鉄
  春日 朝陽 軍艦 8隻が集結 15000人の兵で乙部に上陸

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木古内の手前 サラキ岬に 咸臨丸 終焉の地の碑

オランダで製造された 軍艦 1860年 日米修好条約 批准書交換の為に
正史一行 小栗忠順 等 アメリカの軍艦で 別艦として 勝海舟 船長で
咸臨丸がサンフランシスコに 三浦半島 浦賀より 出港
咸臨丸 品川より蝦夷地に向かう 榎本艦隊に同行 銚子沖で暴風雨で漂流
下田港に漂着 その後 清水に 新政府軍に接収される 1871年 旧伊達藩の
家臣401名 北海道小樽に向かう途中 キサラ岬で遭難 大破で沈没

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松前城 北海道 唯一の和式城郭 天守閣と火災から残った本丸御門
11月5日 土方歳三が率いる 旧幕府軍 700人が松前城を攻撃 津軽海峡
より 軍艦が城を艦砲射撃 数時間で落城

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津軽海峡 海岸にある道の駅から松前城 凄く近い 艦砲射撃すれば
城は破壊される

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江差湾 鴎島にある 復元された 榎本艦隊 旗艦 開陽丸 大きい
実物大に復元? 幕末 鳥羽伏見の戦いで 幕府軍が敗れ 大阪城にいた
最後の将軍 慶喜 秘密裡に 大阪湾から江戸 浜離宮まで逃げ帰った船
松前城 攻撃にも参戦 その後 江差に進軍 11月15日 江差沖で 座礁
他の船の助けで座礁から離脱に失敗 機関長の中島三郎助が大砲を撃ち
離脱を試みたが 失敗 数日後 沈没 この後 函館での戦いになるのだが
旗艦失ったのは 戦局に大きく影響

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戦後 沈没場所 江差沖から 引き上げを開始 船内には引き上げられた
大砲 砲弾 船舶部品 3万3千点 防塩処理され 綺麗に保存されています

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甲板より

函館戦争 函館市内 高田屋嘉兵衛

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 五稜郭の北部に 新政府軍の攻撃に備えて 突貫工事で四陵郭を建設 
  近くには 権現台場も

 五稜郭 日米和親条約 締結で函館港が開港 江戸幕府は松前藩に代わり
  函館奉行を設置 1857年 陵堡式 城郭を建設開始 場内には函館奉行所
  を移転 1866年には工事終了 1868年 榎本武揚率いる 旧幕府軍
蝦夷地 に上陸 五稜郭を接収 

 五稜郭~八代ヶ岡陣屋~一本木関門跡 地図 
  五稜郭 中島親子 土方歳三 最後の地

 土方歳三 最後の地 一本木関門 1859年 5月11日 新政府軍 総攻撃
  の日に戦死
  一本木関門 五稜郭~函館山の一番狭い場所に関を設置

 函館市内 激戦地 地図
  前 称名寺 新撰組 駐屯地 現 函館元町ホテル

 弁天岬台跡地 開港時 函館警備の為の 六角形の台地 
新撰組などが守備

 称名寺 土方歳三 供養塔 日野の寺 過去帳に称名寺に供養塔があると
  書かれていたが 見つからなかったので新たに設置

 高龍寺 函館戦争時 旧幕府軍の野戦病院と使われる

 碧血碑 旧幕府軍 函館戦争で死亡した 土方歳三 中島三郎助 800名
  の慰霊碑 函館山 中腹に 結構疲れました

 高田屋嘉兵衛 地図

   高田屋嘉兵衛 屋敷跡 市電通り 函館山方面に銅像があります

司馬遼太郎さん 菜の花の沖 6巻 過去に読みましたが ストーリー
よく覚えていません

兵庫 淡路島生まれ 神戸で船乗りになり 北前船で商売 蝦夷地まで航路
を広げ 函館を拠点として商売 日本海沿岸の港 北前船で繁盛 庄内
酒田に行った時は 山形なのに京風文化の料亭ありました 北前船 蝦夷地
からの積み荷は 当時大量に捕れた ニシン これが カイコ 桑 綿花
の肥料になり繁盛しました 函館中心に商売していた 高田屋嘉兵衛
蝦夷地周辺 ロシアの進出で関係が悪化 そのよう時 国後島で 軍艦
ディアナ号 船長 ゴローニンが捕らえられる その様な時 高田屋嘉兵衛
は蝦夷地 北方ルートを開拓 択捉島で 高田屋嘉兵衛はロシアにだ捕
カムチャッカに連行され 高田屋嘉兵衛はロシア語を学び ゴローニン解放
に努力 函館でゴローニンは解放される  高田屋嘉兵衛もその後解放される
高田屋は子孫が商売するが その後は没落する

 高田屋嘉兵衛 資料館 目の前は赤レンガ倉庫群
   函館港 付近には 高田屋の造船所もあったようです

   黒船 ペリー 下田港だけでなく函館港も上陸していました

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路面電車 大町駅 近く 現 函館元町ホテル 明治12年の大火まで称名寺で
新撰組の屯所でした 京都でも 壬生の屯所が狭くなり 西本願寺に移りまし
た が フィクション 小説で 港近くで 旧幕府軍 最後の戦い前に土方歳三
手紙を書くシーンがあり 此処かな 手紙は 新撰組 江戸で隊員募集した時
入隊した 市村鉄之助 土方の小姓となり 手紙 佩刀 和泉守兼定 唯一
現存する 土方の写真 遺品は 市村により日野 土方歳三
の姉が嫁いだ 佐藤彦五郎 に届けられる 写真には 市村の歯形
が残っていました 遺品は 日野の土方歳三 資料館に展示されています

  元町 港町ではよくある地名ですね 横浜 神戸 函館

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   路面電車 終点 函館ドック駅 終点 弁天岬台場 新撰組最後の地
旧幕府軍 戦艦はほとんどはなくなり 一本木関門で5月11日土方が戦死
5月18日 旧幕府軍 降伏 閣僚で亡くなったのは土方のみ 榎本 大鳳
などは 新政府軍に登用されています

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    称名寺 元町より移転 土方歳三の供養碑 高田屋嘉兵衛の墓がある

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   高龍寺 函館総攻撃時 旧幕府軍の野戦病院として使われる

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    碧血碑 旧幕府軍 函館戦争で死亡した方を弔う為の碑

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    高田屋嘉兵衛 邸宅跡

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    高田屋嘉兵衛 資料館

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    函館港 赤レンガ倉庫群

先日 5月26日 歴史小説家 和歌山市出身 津本揚さん 享年89歳
亡くなりました お悔み申し上げます


 

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2018.06.10

観応の擾乱を見に鎌倉に

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① 長寿寺 足利尊氏の邸宅跡に尊氏 次男 基氏
   初代鎌倉公方により建立 鎌倉での尊氏の墓
   京都は菩提寺 等持院
② 浄妙寺 鎌倉五山 第五位 足利氏の氏寺 尊氏の父
   貞氏の墓がある 観応の擾乱の後 尊氏 弟 直義が謹慎
③ 直義の墓 伝えられてが不明 謹慎中に死亡 不明
④ 足利公方邸跡 碑 足利家 源頼朝とは北条政子の妹を妻に
   足利義康 この地に200年近く屋敷を構える 室町時代には
   鎌倉公方の御所に 足利尊氏 新田義貞共に 清和源氏が祖
   栃木 足利氏 鑁阿寺に行きましたが 住んだ感じはない
⑤ 鎌倉7口の一つ 朝比奈切り通し 
⑥ 鎌倉宮 護良親王 後醍醐天皇の皇子が祭神 明治2年 
   明治天皇の命により造営
  足利尊氏と対立 足利方に捕らえられ 鎌倉に送られ境内の
  土牢に閉じ込められが 1335年 中先代の乱 鎌倉幕府滅亡後
  北条高時の遺児 時行が 再興の為に 挙兵 鎌倉に攻め込む
  足利直義 鎌倉を逃げる時 土牢に閉じ込められた 護良親王
  を部下に命じて殺害させる この確執が尊氏との対立の原因か?
  護良親王の墓は 近くにあります
⑦ 鎌倉幕府 源 北条 大倉幕府跡 鶴岡八幡宮隣
⑧ 執権北条屋敷 現在は宝戒寺 裏側は 鎌倉幕府崩壊時
   家臣と北条高時が切腹した 東勝寺跡 高時腹切りやぐらが
   残っています 
⑨ 金沢街道 鶴岡八幡宮から朝比奈切通方面に 途中 岐れ路で
  左側は鎌倉宮 15代執権 北条定顕 金沢流北条家 地元が
  京急 金沢文庫駅付近 菩提寺は称名寺 金沢街道行けば
  金沢文庫に行けるのか?金沢文庫には日本最古の武家文庫が
  保存されています

NHK テレビ 歴史秘話 ヒストリアで観応の擾乱 武士の世を
つくった兄弟ゲンカを放送 兄弟は 足利尊氏 直義 兄弟
放送では 鎌倉 金沢街道沿い浄妙寺に 伝 足利直義の墓が
浄妙寺は二度ほど訪れましたが 兄弟の父親 貞氏の墓は
あるのは確認していましたが 観応の擾乱後 直義は浄妙寺で
謹慎 その後亡くなる 尊氏による暗殺と言われていますが

観応の擾乱 南北朝時代 1349年~1352年にわたり 室町幕府
足利政権の内乱 天皇の為に秩序なく入り乱れる

太平記 年表

年表では四部構成 1318年~1358年で 1 動乱の足音 
2 建武の新権 3 南北朝の動乱 4 観応の擾乱に分かれます

太平記では 多くの人が亡くなりました 楠木正成 新田貞義
北畠顕家 日野俊基 護良親王 後醍醐天皇

今までに 訪れた 太平記の場所

本当に太平記 ストーリーが複雑で 足利尊氏の頑張りが目立つ

福岡 多々良川の戦い 足利尊氏 菊池軍
後醍醐天皇 壱岐脱出 船上山
楠木正成 湊川の戦い
楠木正成 千早城
南朝 吉野 賀名生
北畠顕家 最後 大阪 阿倍野
京都足利尊氏邸跡 旗揚げ 篠村八幡宮 京都 亀山
京都 足利尊氏 天龍寺 等持院
京都 六波羅
新田義貞 福井
箱根 足柄 竹ノ下の戦い 
鎌倉 太平記
鎌倉 鎌倉公方と関東管領
新田義貞 鎌倉攻撃
金沢八景 称名寺
足利市 太田市 足利尊氏 新田義貞
福島 霊山 北畠顕家 

以上でラスト 太平記 今後見に行く予定はありません

太平記が好きで 全国 福岡 鳥取 神戸 堺 河内長野
吉野 京都を訪れましたが 観応の擾乱以前 鎌倉幕府滅亡
その後 後醍醐天皇と足利尊氏との争い

1336年 京都御所付近で室町幕府が出来る 此処で終わりかと
思うのですが その後の動乱 足利尊氏 直義 家臣 高師直
との争いが 1347年 楠木正成が湊川の戦いに行く時 京都
桜井で 同行していた息子 正行を郷に返す その後 河内
四条畷で高師直と戦い戦死

観応の擾乱 朝廷は 京 北朝 光明天皇 南朝
後村上天皇 吉野から賀生名に 南北朝に分裂 尊氏 義直
兄弟が対立 足利尊氏の落胤 直冬 直義の養子に 将軍 尊氏
嫡男 義詮の影響力低下を懸念して 師直は 義直の屋敷を取り囲む
やもえず 義直は謹慎 直義の謹慎のより 直冬が瀬戸内海 鞆の浦
九州で兵を募る 謹慎中の直義 京都を逃れ 大和に 北朝の義直
倒幕令が出ると 直義は南朝に降る 北朝をつくった 室町幕府
尊氏将軍の弟 直義 南朝に下る 晴天の霹靂 尊氏 師直は直冬
義直に挟まれる形で摂津打出浜戦いで直義軍に敗北 師直の出家で和議
摂津から京都に輸送中 兵庫県伊丹市せ高兄弟 一族 謀殺される

再び 足利兄弟は対立 直義は 南朝を訪れ 南朝 北朝交互に天皇
をです案を提示するが 受け入れられず決裂 尊氏は南朝の案を受いれ
朝廷と和解 直義軍は 北陸を経て兵を集める為に 鎌倉に 尊氏軍は
静岡 清水 薩堆山に陣取り 直義軍は 三嶋大社に陣取り対峙 直義軍
から 尊氏軍に寝返る兵士が多数 結局 義直が降伏義直は鎌倉 浄妙寺
で幽閉 その後死亡 享年46歳 尊氏はその後 1年鎌倉に留まり京都に
戻る 

室町幕府は三代 義満が絶頂期でその後の将軍は 権威がなくなる
13代将軍 義輝などは 家臣 松永久秀に殺害され 最後の将軍
15代 義昭など 織田信長により京都で将軍になるが あまりにもの
策略で 信長に見放され追放される

以前 空海が京都での修行場所として 東寺と神護寺ですが 神護寺おと
ずれた時 源頼朝 肖像画がありました 現在この画は足利直義では
ないかの事で教科書にも載っていないそうです
足利直義 ハンサムですね

足利尊氏 馬に乗った 肖像画 これも高師直ではないかと言われています

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鎌倉 浄妙寺 三度目です

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境内 足利尊氏 直義の父親 貞氏の墓

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貞氏の墓所よりさらに上に 伝えられる 足利直義の墓
義直はこの寺に幽閉され死亡しています

寺の方が 掘り返した所 大量の墓石が出てきたので墓と
しています

鎌倉は交通機関で行ったのは久しぶりです 以前 7-8年前
購入した 原付スクター売却 道が狭く 鎌倉はスクターが
便利ですね

今回はJR戸塚駅から鎌倉駅 帰りは 鎌倉から江ノ電で藤沢
小田急 相鉄で帰って来ました
江ノ電 平日でもラッシュアワーの様な混雑 地元の方は大変


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2018.06.03

みなとみらい 大さん橋 護衛艦いずも

今月 横浜開港祭に合わせて 大さん橋で 海上自衛隊 護衛艦いずもが
公開 大さん橋は客船専用と思いましたが 軍艦とは場違いな感じ
見学まで2時間待ちでした

1858年 日米修好通商条約により神奈川開港決定
四年前 日米和親条約では 下田 函館 開港

大さん橋の向こう側は 中国との監視で活躍が多い 海上保安庁の岩壁
前年 奄美諸島で海上保安庁船と銃撃戦により沈没した 北朝鮮工作船
が展示されています

北側には 米軍のノースドック 4月には横田基地にオスプレー配置で
輸送艦がノースドックの瑞穂埠頭に接岸 この場で5機組み立て横田に
飛んでいきました

20180631

大さん橋に接岸していた いずも 大きい 全長 248m 幅 38m
排水量は26,000トン ヘリコプターは最大14機搭載できるようです

ちなみに アメリカ軍 原子力空母 11隻所有 以前 横須賀が
母港のドナルド レーガン 遠くで見ましたが 規模はけた違い
全長 333m 幅 76.8m 排水量 101,429トン 戦闘機は90機
位搭載できるようです 先日 北朝鮮を威嚇で日本海 空母 3隻が
並んで並走 脅威になるでしょう

ウクライナで製造された 空母 中国が購入 遼寧と命名 構造は
甲板がすべり台のようで カタパルトないのかな 現在初国産で大連港
で2隻目製造中 シナ海が緊張状態なる

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2時間並んでやっと艦内 吹き抜けの艦内此処にヘリコプター14機搭載

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艦尾に 1機 ヘリコプターが搭載されていました
搭乗員の寝室 食堂は何処でしょうか 何階建てになっているのか?

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甲板にヘリコプターを移動用のエレベーター 巨大 200人以上
で甲板に上昇 空母などは 航空機 主翼が中折れで移動か?

20180635

甲板に 艦橋が右端に狭くあり 一面が甲板です
政府はロッキードF-35B ステルス STOVL 短距離着陸 垂直離陸を導入
を考えているようですが 憲法とのからみで出来るのか
F-35Bはいずもでは甲板から 離発着出来る

最近知りました F-35 A~CがありBがSTOVL B-1B B-2爆撃機とか
アメリカは凄い戦闘機を造る 北朝鮮には脅威に思う

F-35A 空軍仕様 通常離着陸
F-35B ハリア-Ⅱの後継機 STOVL 短距離着陸 垂直離陸 着陸時
    エキゾーストノズルを90度曲げ浮力をつけ バランスとりながら
ランディング
F-35C 海軍仕様 通常離着陸 空母用?

F-35B 短距離着陸 垂直離陸

みなとみらい 相変わらず人が多い 疲れる

20180636

ゴールデンウイークにみなとみらい ザよこはまパレード2018に
みなとみらいのベスト ショットは 今までは 大さん橋から赤レンガ
ごしの風景と思いましたが 今回 パレード見た 馬車道駅近く 万国橋
が私にとってベストでした

パレード お気に入り ヨコハマリトルメジャレッツ/ザ ヨコハマス
カウツドラム アンド ビューグルコー 恰好良い

デジカメで動画撮ったのですが 記録なし

YOUTUBEより ヨコハマリトルメジャレッツ/ザ ヨコハマス
カウツドラム アンド ビューグルコー

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2018.05.25

防府 山口 萩 歴史散歩

防府 山口 萩に行って来ました

毛利氏 毛利元就 守護大名 大内氏の傘下に入る 室町時代 京都
で内乱 応仁の乱 西軍に 山陰の山名氏 大内氏が参戦 大内義隆
に離反した家臣 陶晴賢に討ち取られるが 毛利元就 隆元 吉川元春
小早川隆景 三兄弟が厳島の戦いで奇襲により 陶晴賢を滅亡させる 
その後 出雲の尼子氏も滅ぼす 広島 島根 山口 領土とします

豊臣秀吉 死後 西軍と徳川家康 東軍の関ケ原の戦いになり
西軍 大将 毛利輝元 大阪城に陣取り 戦いには参加せず
小早川隆景 子供無く 秀吉の妻 甥 秀秋を養子にもらい
関ケ原では 最後に西軍を裏切り 東軍勝利の立役者になる
吉川広家などは東軍と通じ家康本陣 後方 南宮山に陣取るが
戦い終わるまで 動かず 家康とは 領土安堵の密約も 西軍の
敗戦後 毛利家は 112万石から 周防 長門の二国 吉川広家に
なる予定でしたが辞退し 毛利輝元 引退し 秀就が 萩に城を造り
広島城から萩城に移り 29万8千石に減封し 長州藩に

その時の恨みが 幕末 尊王攘夷 徳川幕府 滅亡の戦いに

2018051920

① 萩 1600年~1863年まで 防衛上 京都 江戸への交通上の
  理由から 山口に移る 山口藩庁 
② 山口 1863年~山口藩庁 大内館跡 
③ 防府 三田尻港 防府毛利邸

 下関 長府毛利邸 高杉晋作終焉地 騎兵隊発祥の地
  四国艦隊下関砲撃事件

 岩国 岩国城址 吉川家居城 錦帯橋 長州征討 芸州口

黒字 今回訪問 赤字 前回訪問

201805191

防府毛利邸 現毛利庭園 博物館 明治維新後 旧長州藩藩主毛利家
井上馨が発案で建設 中は毛利藩の博物館になっている 山口県には
防府だけでなく 下関近くに 長府毛利邸もあります

201805192

防府 瀬戸内海 三田尻港 幕末の小説には良く登場します
江戸時代 萩と長府 三田尻間にはほぼ直線で結ぶ全長53km
の萩往還の道路がありました 大阪 などの交通は此処から
船で行ったのでしょうか 近くには 旅籠 晩天楼があり
坂本龍馬 高杉晋作 木戸孝允 伊藤博文などが密談を

201805193

山口市に室町時代 守護職 大内氏館跡 現龍福寺 朝鮮との貿易
で財をなす 館は京都風 山口文化が生まれる キリスト教も許し
ザビエルも訪れています 大友義隆の時 陶隆房と対立 1551年
謀反により 義隆は自害 大内氏は衰退 滅亡

201805194

山口 瑠璃光寺 五重塔 1442年建立 山口市唯一の国宝 山口文化を
感じる 塔です

201805195

山口 香山園 毛利家墓所 瑠璃光寺の隣

萩より山口に藩庁移転後の毛利家の墓所 幕末 長州藩13代藩主
毛利敬親 夫人 子 元徳の墓がある

13代藩主時代 敬親 激動で 禁門の変  下関 4国艦隊による襲撃
藩内 保守派と討幕派との争い 第一次長州征伐では3家老切腹で和解 
その後二次征伐では 幕府と長州の全面戦争 王政復古による薩長と
幕府の鳥羽 伏見の戦い 

家臣の意見に対して異議を唱えることがなく、常に「うん、そうせい」
と返答していたため「そうせい侯」と呼ばれた 

吉田松陰 門下生を信頼していたのか

201805196

山口 香山園内 沈流亭 山口市道場門前 安部氏宅離れにあったが
1902年に此処に移築

蛤御門の変で薩摩と長州が対立 慶応3年 1867年 9月 薩摩藩士
西郷隆盛 大久保一蔵 小松帯刀 大山格之介 長州藩 木戸考充
伊藤俊輔 品川弥二郎が薩長連合の話し合いが行われた 沈流亭

201805197

山口県庁前 山口藩庁跡 1863年に 13代毛利敬親が 1600年から
藩庁を置いていた 萩より山口に 萩城の後ろ 日本海 防衛上
の理由? 本当は 萩より防府まで遠い 中間の交通上 山口に
移したのが本当の理由?

県庁の裏が 瑠璃光寺 毛利家墓所

201805198

萩に 20年位前 家族で 山口宇部空港からレンターカーで一般道で
秋吉台 萩に 当時は歴史に興味なく 何となく萩に行きました
今回 改めて 行くと 歴代総理大臣 8人輩出している関係か
ほぼ 高速道が出来ていて それも無料です 萩は遠くなかった

萩市街地図

東光寺 1600年に毛利藩 萩に移ってから 歴代藩主5人の墓
蛤御門の変後 幕府は第一次長州征伐を実施 藩主 毛利敬親
親子に謹慎を命じ 家老三人に切腹を命ずる 三人の墓もあります

201805199

東光寺の横に 吉田松陰の墓 周りには 久坂玄瑞(京都御所 
蛤御門の変で死亡) 玉木文之信 松陰 伯父 高杉晋作 吉田捻麿
久坂 高杉と共に松陰門下の三秀の一人 京都 池田屋事件
新撰組に襲われ 死亡
他 関係者の墓が多数あります

2018051910

墓の隣 吉田松陰誕生地 銅像が建てられています
此処から 萩の街が良く見えます

2018051911

玉木文之進旧宅 松陰の叔父 松下村塾 創立者 松陰幼い頃
松下村塾で厳しく教育を受ける 後に 乃木稀典も教育を受ける

松下村塾近く

2018051912

何時の間にか世界遺産になった 松下村塾

吉田松陰 9歳で藩校 明倫館の兵学師範に 11歳の時 藩主 敬親
に講義 

1854年 黒船 ペリーが日米和親条約の為に伊豆 下田に寄港
下田に 松陰と金子重之輔と二人で 黒船に小舟で行き 密航を頼む
が拒否され 下田奉行所に自首 一時は死罪の予定でしたが 
老中の助命で 長州 萩 戻され 野山獄 岩倉獄に投獄される

2018051913

吉田松陰 幽囚ノ旧宅 松下村塾の隣 大きな家です

1855年 出獄を許され 杉家 幽囚ノ旧宅に移る 1857年 伯父
玉木文之進が主宰していた 松下村塾を受け継ぎ 塾には 久坂玄瑞
高杉晋作 伊藤博文 山縣有朋 吉田捻麿 前原一誠 品川弥二郎 等が
入塾

1858年 幕府が日米通商条約を締結すると松陰は激怒 老中暗殺まで
言い出し再び 長州藩は 野山獄に投獄される
1859年 江戸に監送され 小伝馬町の牢獄に収監される その後斬首される
享年 30歳 松下村塾で塾生に教えたのは 1年あまりでした

2018051914

萩の街 中心部にある 藩校 明倫館 吉田松陰も幼い頃 兵法を
教えていました 出身者には 桂小五郎 高杉晋作 長井雅楽 乃木希典
がいます
水戸藩の弘道館 建物比べても大きい

2018051915

萩 武家屋敷 高杉晋作 誕生地 この付近は 昔の地図と変わら
いそうです

市内には 伊藤博文旧宅 久坂玄瑞誕生地 前原一誠旧宅 
山県有明誕生地 などがあります 時間なき為見れませんでした

2018051916

萩城近く 武家屋敷 上級武士屋敷でしょうか 高杉家とは家の大きさ
が違い 邸宅です

2018051917

萩城下 西側 半島 後ろは日本海 関ケ原の戦い後 周防 長門に減封
毛利輝元 広島城より移り 萩城 築城 1863年 毛利敬親が幕府に無許可
で 山口に移る

2018051918

東萩駅近く 岩倉獄 黒船 下田に来航時 密航目的で 吉田松陰と
金子重之輔が黒船に接近 密航を断られ 下田奉行に自首
二人は 萩に送り返され 金子は岩倉獄に この獄は士分以下の身分の者が
投獄される 途中病死 享年 25歳

吉田松陰生誕地に銅像ありました 松陰の横の人物 金子重之輔でした

2018051919

岩倉獄の道を挟んで前 野山獄 金子と同様に下田で密航 吉田松陰
士分以上の身分なので 野山獄に 此処で松陰は囚人を教化
その後 松下村塾の隣 幽囚ノ旧宅に移り 塾では身分に関係なく
藩士を教育 どの後の発言がもとで 再度 野山獄に その後
江戸 小伝馬町の牢獄に送られ 斬首

長州藩の狂気的な行動 革命は狂気と思う

萩は遠い 鉄道は 山口駅からは無く 山口線 SLで有名な路線
萩ではなく 津和野経由 島根の益田駅に 新山口駅よりバスが良い

帰りは 現役時 5-6回 出張で行った 萩 岩見空港に 萩からは
山陰線で益田経由で空港に 岩見は出雲空港の方が近い

東萩駅から山陰線で益田駅まで 1時間 但し2時間に1本
益田駅前 以前泊ったホテルそのまま 以前と変わりなし 空港は記憶
ありません 当時と比べて 羽田便 1~2便になっていました


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2018.05.14

下北沢 豪徳寺に

小田急の路線 30年の工事で 登戸~代々木上原まで
複々線が完成 新ダイヤで3月より運行開始

複々線完了の 小田急電鉄のCM 途中の下北沢駅で撮影
気になり 渋谷駅から井の頭線で下北沢駅に

201805141

駅前 演劇専用の劇場 本多劇場 以前 横浜駅前 ムービル
が出来た時 本多劇場があったが 何時の間にかなくなり
ました 私自身 演劇は見た事ありません

近くは オタク系の店が多く 中野駅の様です

201805142

近くに スズナリ劇場 夜になると演劇論などで飲み屋は
盛り上がるのでしょうか

201805143

複々線化 下北沢付近 用地賠償が難しくて地下に?
小田急の線路跡 線路は地下に二階建てで敷設
京王 井の頭線は高架で解りやすいのですが 小田急の地下駅
入口はわかりずらい

201805144

小田急線で豪徳寺駅に 付近は 中世 武蔵吉良氏の世田谷城が
ありましたが 秀吉による小田原征伐で廃城に その場所に
彦根藩 二代藩主 井伊直考が菩提寺として豪徳寺を整備
二代 直考~十四代 直憲までの墓があります 有名な直弼は
十三代目です

201805145

一三代 井伊直弼の墓 桜田門外の変で水戸藩 脱藩浪士により
暗殺されたのは有名です 唯一の薩摩藩士 有村次左衛門により
籠から引きずり出され 首を討ち取られました

以前 彦根城外 埋木舎 直弼 井伊直中の14男として生まれ
藩主などなれる事はなく 埋もれていたのですが運命により
井伊家 13代藩主に 大老になり 米国と通商条約を調印
その後 反対派に安政の大獄で弾圧 その後桜田門外の変で
失脚 凄い個性強さが目立つ

横浜に 桜木町近く 掃部山公園に 井伊直弼像が 通商条約
により横浜港が開港 ランドマークを見ています

帰りは 東急 世田谷線で三軒茶屋駅に 都営荒川線の様な
路面電車です

豪徳寺近くの宮の坂駅から 三つ目の駅 松陰神社前駅
以前訪れました 吉田松陰が祀られています
安政の大獄で 日本橋 伝馬町牢屋敷で斬首 その後
南千住 小塚原回向院に 墓より 高杉晋作ら長州藩士
が 長州藩の土地があった 松陰神社に改葬

井伊直弼と吉田松陰の墓が この様に近いとは奇遇です

帰りは 三軒茶屋から東急 田園都市線 溝の口駅経由
JR 南武線 武蔵小杉駅経由 JR 湘南新宿ライン 横浜駅に

201805146

30数年前 住んでいた 溝の口駅 南武線沿いの商店街
時々立ち飲み屋にお邪魔 昔と変わっていない 時間が止まっ
ている様です

当時通勤で 南武線で川崎駅に途中 武蔵小杉駅 高層マンション
が多数建ち 現在 人気住宅街ですが 通勤時はラッシュで大変な
様です 付近は変わってしまいました

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2018.04.29

横浜 家系ラーメン お気に入り 10家

三ヶ月前 久しぶりに 家系ラーメン 京浜急行 妙蓮寺駅近く
田上家に二度目でしたが 感激して家系ラーメン 二か月かけて
横浜市内 家系ラーメン お気に入り 10家改めて訪れました

家系歴史 1974年 根岸線 新杉田駅近くに 吉村実さんが
ラーメン屋を開店したのが吉村家が祖です

Photo

その後の系列 その後 吉村家より分裂した店舗 かなり系列
は変化しています

系列の画像 小さすぎてよく見えません
その後の系列 クリックしていただくと 大きな画像で確認できます

豚骨醤油 鶏油(チーユ)太麺 基本は酒井製麺でトッピングは海苔 
ほうれん草 チャーシューが基本形です

食べログ 横浜 家系ラーメン 得点順

Photo_2

1 寿々喜家 (スズキヤ) 保土ヶ谷区上星川   3.77

横浜では超有名店 寿々喜家 吉村家から本牧家 そこから寿々喜家に
何十回訪れています 店員の対応も良く 味にぶれがありません
此処で 家系ラーメンとご飯が合うのを知りました

Photo_3

2 田上家 南区通町  3.70

二度目です 先日食べた時 甘味を感じました 真面目に
作っている雰囲気を感じる味 田上家

吉村家 直系だった王道家 吉村さんに酒井製麺より自家
製麺に切り替え直談判したところ 破門されました
千葉の王道家で修行 王道家系列には入らず 横浜で開業
麺は 酒井製麺でした

Photo_4

3 杉田家 磯子区新杉田  3.63

杉田家 吉村家で修行 現在 直系です 店の前 産業道路
をはさんだ所に 吉村さんが開店した 旧吉村家が
朝5時より開店 店主 噂では高学歴T大学卒 何度か
訪れたのですが 見かけたのは一度きり 店員を指導して
朝早くからの味のブレがないマネージメント
出身地の千葉県には息子さんが 杉田屋 千葉店 出店
評価では千葉が高評価 千葉に行った時食べました 美味しかった

Photo_5

4 環二家 港南区上永谷  3.63

横浜中央 磯子~新横浜に環状2号線が 途中に 環2家が
此処はラーメン激戦区です
此処に 吉村家が 直系で環二家をオープン 一説では隣が本牧家
対抗するために オープンさせたのか 店長はTさんでした
何度か訪れましたが 緊張させる接客でした 味はさすがと思う
ラーメンでしたが

数年前 よくわかりませんが 環2家が川崎の企業に 吉村家が
売却 経営者変更後 食べに行きました 味は以前と変わらない味
元 従業員が残った Tさんが指導した不明 

Photo_6

5 ラーメン 末廣家 神奈川区六角橋  3.63

東急東横線 白楽駅 六角橋 末廣家 良く解らないのは 吉村家
直系と言っていますが 吉村家 ホームページにはのっていない
三回目 最初に行った時 チャーシューが美味しかった 今回も
チャーシュー麺 やはり多い でも美味しい 六角橋 ラーメン屋 激戦区
条件 近くに大学がある場合が多い 近くには 神奈川大学があります

Photo_7

6 吉村家 西区南幸  3.61

元祖家系ラーメン 吉村家に 新杉田より1999年に 横浜駅
一等地 岡野交差点に自社ビル建設
多分 前回訪れたのは記憶ありません 平日開店時訪れましたが
10人位の行列ブランドイメージが高い店 吉村家
カウンター内外に店員10人がいます 久しぶりですが意外と
美味しい 多いときは1500杯ぐらいでるようです

多分 吉村実さん いました いろいろ苦労があるのか

息子さんの店 以前 厚木に行った時 国道246沿いの 厚木家に
すぐにわかりました 顔がそっくり 美味しかった

Photo_8

7 とらきち家 神奈川区西神奈川  3.61

東横線 東白楽駅 白楽駅より横浜駅より とらきち家  吉村家より
離脱した 王道家のラーメン屋 三度目ですが 初めて食べて以来 
本当に美味しい田上家と同じ 麺は自家製麺 王道家系ですが 美味しい

隣が 本牧家からの系列の六角家 有名店ですが 閉店になっていました
六角家は行った事はありませんが 戸塚店はなんどか伺いました
本店が閉店とは厳しい世界です

Photo_9

8 横濱家系ラーメン 勝鬨家 中区長者町  3.60

横濱家系ラーメン 勝鬨家 横浜地下鉄 伊勢佐木長者町駅 近く
2016年にオープンした新しい店です 修行先不明の店 麺は大橋製麺
家系ラーメンとしては合格な味の店

Photo_10

9 ラーメン壱六家 磯子本店 磯子区森  3.57

吉村家 系列とは別グループです 食べた感じ 吉村家とは遜色
ありません うずらのゆで卵がついているのが 異色です
お客さん見ていると結構ファンな方が多いように思います

ラーメン壱六家 磯子本店

Photo_11

10 家系ラーメン王道 王道之印 磯子区上中里町  3.56

王道 王道之印 此処も王道系です 三回目で初めて 吉村系 環二家
で店長していた Tさん初めて見ました 環二家 売却 王道グループ
に入った噂聞きましたが 本当ですね 凄みがあります
横浜の王道系では とらきち家が好みです

家系ラーメン王道 王道之印


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2018.04.20

大阪 堺 仁徳天皇陵?に

先月 奈良に行きましたが 関西空港は満席で伊丹空港に
墓参りに行きたがったのですが 今月 再度 関西空港に
帰りは 伊丹空港より羽田に
伊丹までのルート JR阪和線で天王寺駅 又は 南海本線で
難波に そこからリムジンバスで伊丹空港に

日本最大の16代仁徳天皇陵 百舌鳥古墳群 JR阪和線 百舌鳥駅
にある事を最近知りました 何度も通過してのに

仁徳天皇陵(最近は不明なので 大仙陵古墳と言われていますが)
装飾されていた埴輪などから 5世紀だといわれています
なにせ 宮内庁管理なので調査はされていません

規模から 世界3大巨大陵墓の一つになっています
エジプトのピラミットは別にして 秦の始皇帝陵は見ました
世界遺産になる前は陵に登れたのですが 現在は登山禁止
始皇帝陵から少し離れた場所で近年 農夫が兵馬俑を発見
兵馬俑に行った時 この農夫がサインした書物を売ってい
ました(笑

201804205

秦の始皇帝陵

大仙陵古墳は堺市 同じく前方後円墳で 大阪府東 羽曳野市
に規模は半分ぐらい 日本二番目の誉田御廟山古墳があります

不思議だな 古墳時代の都 奈良飛鳥にありましたが
生駒山系に挟まれた 奈良 ヤマト政権が 周辺の豪族を
支配下に入れ 堺 泉北も影響化に 大阪府に古墳が建設された
た 大和川が関係しているのか

201804201

仁徳天皇陵? 今まで見た天皇陵から比べると巨大 山の様
南北 840M 東西 654M 周囲 2718M

201804202

前方 堀の部分

201804203

全体の規模 高い場所がないので見る事は出来ません
函館の五稜郭の様に タワーがあると実感できるのだが

百舌鳥駅から陵に沿って三国ヶ丘駅まで歩きました 1Km巨大です
後円の部分は確認できませんでした

この後 天王寺駅から地下鉄で 谷町四丁目 大阪城南側
灘波宮跡 大阪歴史博物館に行く予定でしたが 久しぶりに
歩いたので疲れました 今回はパスで 三国ヶ丘駅から
南海高野線で難波に

201804204

難波 一芳亭 本店に シューマイ 唐揚げが有名ですが 
豚天ぷら二人前とビール 久しぶりに食べましたが やはり
美味しい


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2018.04.08

山梨 桃源郷に

山梨で 2004年4月から2年間 ネットで探した農家の方
が 畑を貸してくれるサイト見つけて畑を楽しみました

横浜から月一度の畑生活ですが 2年間通うのですが
桜の季節頃 畑近くは 桃の花が咲き まさに桃源郷
でした 今回 夫婦で山梨に 当時は 圏央道もなく
当時は 自宅から 一般道で厚木経由 相模湖IC 中央高速で
2時間半 今回は海老名ICから圏央道で勝沼まで 2時間弱で
着きました 2014年 圏央道 八王子JCTで中央高速に繋がり
便利になりました

畑は 山梨後 自宅近く 横浜の畑で 2005年~2011年まで
野菜作りしました 結果的には コストパーフォマンス CPが
悪い 農地の賃料 肥料などの費用を考えると スーパー
の野菜にはCPはかないません それがもとで農作業諦め
ました 害虫駆除もオーガニックで 農薬は使わずにしました
が限度がありました 

201804061

意外と 桜情報はあるのですが 桃の花情報は少ない
桃を栽培している畑ですが 中央高速 一宮御坂IC 河口湖に
行く道 御坂みちの途中に 八代ふるさと公園に 週末には
笛吹市桃源郷春祭りが開催されるようです

付近は桃畑 写真ではよくわかりませんが 下側 甲府盆地
側に ピンク色の畑が良く見えます

写真下側 トンネルは山梨リニア実験線です 開通後 本線
になるようです 東側トンネルの先に 山梨県立リニア見学
センターで実際にデモ走行が見えます 時速 500Km/hは迫力
あります リニアの甲府駅は 写真左側に出来る予定

先日 奈良を訪れた時 JR奈良駅にリニアを奈良に誘致
名古屋までも開通していないのに大阪とは 笑いが
京都は通過しないようです

201804062

近くの桃の花 受粉後 桃が出来ます
借りていた畑 オーナーは農家の方で 自家栽培の桃を購入
10個位で5000円でした 意外と高価 規格外の桃はいただきま
したが

201804063

あと一つの 桃源郷 甲府盆地 北側 JR中央本線 春日居駅
付近 山梨笛吹川フルーツ公園 下の方に JR東山梨駅付近
2年間借りていた 畑 付近は 桃 サクランボ ぶどうの木が
あります

201804064

山梨笛吹川フルーツ公園の頂上にある ほったらかし温泉
トリップアドバイザーで" 関東 日帰り温泉 5位
山梨の畑から車で15分 夏の盆地での農作業後 汗びっしょりで
よく訪れました

本日は あっちの湯で 日ノ出の1時間前にオープン
風呂から 日ノ出の富士山が見えます

201804065

JR勝沼ぶどう郷駅よりからの ぶどうが丘 農家のオーナーと
春にフキノトウ狩りに 集合場所がこの駅 風景がすっかり気に
入ってしまいました 付近 勝沼は 桃がなく ぶどうのみです

山梨でないと買えない 初めて 一升瓶ワイン 購入


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2018.03.27

奈良 古代史 見に行く

古事記 710年 日本書紀720年に登場する 古代 大和朝廷 奈良に
最近 現代訳 古事記を読み始めましたが 神話が中心です
私の守備範囲は 平安後期~幕末です これ以上 私の頭脳
が受つけないのですが 神話 皇室の 古事記に興味 日本神話
天皇記 の奈良 行って来ました

奈良駅 東側 観光どころ 東大寺 興福寺 奈良公園は行かず
藤原京跡 平城京跡 橿原神宮を見に行きました

古事記読みましたがよくわからない とりあえず奈良に

2018032412

 平城京跡  JR奈良駅 ③ 東大寺 ④ 興福寺
⑤ 三輪山 大和 原始信仰 ご神体 ⑥ 大和郡山城 豊臣秀吉 弟 
秀長の城  橿原神宮  神武天皇陵  橿原考古学研究所付属
博物館 ⑩ 飛鳥 (飛鳥京跡 高松塚古墳 キトラ古墳 石舞台古墳)
⑪ 貴信山城址 (松永久秀 最後の城 織田信長に攻められ爆死)
 藤原京跡 ⑬ 斑鳩 (7世紀 聖徳太子 第33代 推古天皇が創設
法隆寺 ⑭ 唐招提寺 薬師寺 ⑮ 赤坂千早城 後醍醐天皇を奉じて
千早城で楠木正成で挙兵 鎌倉幕府滅亡に ⑯ 大和川 大阪湾に流れる
大阪 堺市 百舌鳥古墳群 日本最大の 第16代 仁徳天皇陵があり
大和朝廷から此処まで 大和川が流れているかな 不明?

赤丸数字 今回訪れた場所

古代日本年表

縄文時代ー弥生時代ー古墳時代ー飛鳥時代ー奈良時代 此処までは
奈良を中心とした時代
平安時代には都が平城京から京都 平安京に移る

平安京までの代表的な遷都 飛鳥京 643年ー難波京 644年ー近江宮 
667年ー藤原京 694年ー平城京 710年 745年ー長岡京 784年
ー平安京 794年 に遷都

中国の歴史書 三国志の中に 三世紀末 魏書に日本国の住民 場所
について 魏志倭人伝に書かれている 邪馬台国 卑弥呼の文書で
邪馬台国の場所 九州説と奈良 ヤマト王権説に分かれ現在でも真相
は不明です 350年頃 大和朝廷が国内を統一

大和朝廷の発祥は 桜井市 三輪山付近とか 橿原神宮の南 飛鳥などと
言われますが不明です 
  
日本書紀で 初代天皇 神武天皇 宮崎 日向より東征 瀬戸内海沿いに
大和を目指すが 大阪湾沿岸で戦いに 紀伊を回り大和に ここ時
先導したのが 八咫烏 大和の地 畝傍樫原宮で即位 紀元前660年
初代天皇に 127歳まで生きる 本当かな

201803241

近鉄橿原線で橿原神宮駅に 参道 昔 状況知らない時訪れました
綺麗に整備されていました

201803242

紀元前660年に橿原宮で初代天皇 神武天皇即位
本殿 京都御所 賢所より移築

201803243

橿原神宮近く畝傍山 麓に 神武天皇陵 明治になり築かれた
ものです 京都 伏見 明治天皇陵 東京 高尾 武蔵野陵
大正 昭和天皇陵とは 違う様に思います

201803244

神武天皇陵の横に橿原考古学研究所付属博物館 

縄文 弥生 古墳 飛鳥 奈良時代 発掘の資料が展示
祭日の翌日に訪れました 休館日でした残念

201803245

中国 都城を参考として日本で初めて本格的な都 飛鳥京より
藤原京に遷都694年~710年 41代 持統天皇 42代 文武天皇 
43代 元明天皇 三代の都 大きさは 南北4.8km 東西 5.2km 

藤原京 万葉集で読まれた 大和三山 正面に 耳成山 左側に
畝傍山 右側に 天香久山

朱雀門 朝堂院-役所 大極殿-国家の政治 儀式を行う
内裏-天皇の住まい が並んでいました

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旧JR奈良駅 現在の駅は高架にあります 旧駅は観光案内所に
なっています 

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奈良で宿泊後 早朝 平城京跡に 土日は巡回バスがあるのですが
平日は路線バスのみ 便が少ない 朱雀門近く 宮跡庭園に
長屋王邸宅跡 長屋王の変などは聞いたことがある
藤原氏と長屋王との対立で 729年 長屋王が殺害された事件
一族は滅亡  長屋王の変

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平城京跡に 2010年4月~11月で 遷都1300年記念で跡地が整備
されました せんとくんのキャラクターで有名になりましたが

710年 元明天皇が唐の長安をモデルに 藤原京より平城京に遷都
大きさは藤原京と同じ位の規模 朱雀大路 道幅は当時と同じ道幅
74M 正面が朱雀門です

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再現された 朱雀門

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朱雀門を抜けた 平城京 敷地内 近鉄奈良線が通過しています
はるか先に 再現された 大極殿 遠すぎていくのを辞めました

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朱雀門近く 再現された 遣唐使船 が展示されていました
船の大きさは 20-30M 1隻あたり150人が乗り 4隻で600人中国 唐に

空海 比叡山 天台宗 最澄も同じグループで中国に 冬に
東シナ海で 大陸に 2隻が行方不明 空海 最澄は別の船で 空海は
台湾の先の 中国大陸に漂流

平城京 784年 京都 長岡京遷都 794年には 京都 平安京に遷都
その後 幕末まで 都は京都に

今回 春休みシーズンで 帰りの飛行機 2時以降 羽田便満席
新幹線移動も覚悟で 12時の飛行機で帰って来ました
法隆寺等行けませんでした

過去に 奈良南側 後醍醐天皇の南朝見る為に 吉野山に
帰りは 桜井市の東 宇陀市に宿泊 車で自宅に帰る為に 名古屋時代
帰省の為によく通った 天理IC 無料の名阪国道に 途中 飛鳥に
高松塚古墳 時間が早い為に 入場できず 石舞台古墳 昔は自由に
入場で来たのだが フェンスが出来有料に キトラ古墳 工事中の為に
見れる状態ではありませんでした 唯一 天武 持統天皇陵が見れました
この付近は何故か 不思議な空間です

飛鳥時代

587年 蘇我氏が物部氏を滅ぼす
603年 冠位12階を定める
604年 17条憲法を定める
630年 遣唐使の派遣 894年まで10数回送られる
645年 中大兄皇子 藤原鎌足 蘇我入鹿を殺害 蘇我氏滅亡
   大化の改心
663年 韓国 白村江の戦いで日本軍大敗
672年 壬申の乱 大海人皇子が天武天皇に
701年 大宝律令が制定

再度 奈良 飛鳥に行きたい

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