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2011.04.26

源頼朝 伊豆から房総への戦い

昨日 保養を兼ねて 夫婦で湯河原に泊りがけで
行って来ました 良い機会なので 源頼朝の
伊豆での足跡を訪ねて来ました

湯河原で泊まった伊藤屋旅館も 歴史的場所 2.26事件が東京
以外で発生 湯河原に泊まっていた元内大臣 牧野伸顕伯爵
襲撃された所 伯爵は川を挟んだ別館 光風荘に泊まっていた
のですが それを見張る夫婦が泊まっていた場所が 今回泊まった
本館 二つ先の部屋でした 光風荘は良く見えます 光風荘は
襲撃により消失しましたが 復元されていました。
創業90年の老舗旅館で 食事も美味しく温泉も良かった。

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まずは 頼朝 父 義朝が平清盛との平治の乱 京都で破れ 義朝は
逃亡中 尾張にて殺害され 頼朝も逃亡中に捕らえられ 最初は
死罪であったが 清盛の継母 池禅尼の情けにより 伊豆に流刑
中伊豆 韮山 蛭ヶ小島に 1160年14歳で その間 伊東祐親の
娘 八重姫と頼朝は子供を授かるが 伊東祐親が平家を恐れ殺される
その間 同じく流刑されている 僧侶 文覚上人などと交わり
叔父 源行家が 後白河天皇の第三皇子 以仁王 平家討伐の勅旨
が 頼朝に届く 頼朝は 北条家 政子と恋仲になるが 頼朝監視役
山木兼隆が政子との結婚を希望 1180年 政子の弟 北条義時と供に
ほう起  頼朝は蛭ヶ小島に残り 作戦成功時は炎を揚げる約束
蛭ヶ小島から山木兼隆の屋敷 江川屋敷の近くなのでそんなに距離
ありませんでした 偶々 山木兼隆の家来 三島神社の祭りにいって
おり 襲撃は成功 山木兼隆は討ち取られました。

その後 頼朝軍は相模を目指して進軍 相模に 

蛭ヶ小島は現在公園になっています 頼朝 政子の像が 但し
この場所が江戸時代の学者が推測しただけに 真偽は定かでは
ありません。

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頼朝の夫人 政子の実家 北条氏邸跡に 蛭ヶ小島から国道134号線を
挟んで 守山の麓にあります 但し現在 現在 発掘調査なので
立ち入る事はできません 結構敷地は広い 近くには政子 産湯の井戸
がありました 蛭ヶ小島から車で約10分 歩いても1時間あれば行けると
思います 頼朝 政子 頻繁にデート出来たと思います

一地方の豪族 北条時政 政子の父 源氏と結びついたのが成功 その後の 
鎌倉幕府の執権としての地位 16代まで続く

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頼朝 韮山でほう起 成功後 相模に向け出軍 西湘バイパス 石橋ICから
少し熱海側に行った所で 石橋山の戦いに 平家軍は大庭景親率いる
3000人 源頼朝軍 300人 激突 多勢に無勢で 源軍 敗退 大人数で
逃げると目立つので分かれ逃げる事に 頼朝は従軍した 土肥実平の領地が 
湯河原 それを頼って逃げる 

石橋山の戦いの場所には 東海道線のトンネルの上に碑が 農道しか
無く周りは みかん山 900年以上前に 戦いがあったなど感じない
のどかさ

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頼朝 少人数で湯河原 山中に敗退 その後の大庭軍の捜索 執拗で
やっと しとどの窟に逃げ込む その後 大庭軍がしとどの窟に到着
この時 大庭軍 梶原景時は窟に頼朝がいる事を知るが 進言せず
梶原景時は その後頼朝に許され 鎌倉幕府 要職に 源平合戦では
義経軍の軍監で 頼朝には義経の働きを悪く報告 それが頼朝の怒りを
買い 義経 追討に しかし その後 幕府内でも批判を受け 梶原親子
自害に

しとどの窟 湯河原から 椿ラインで結構山の上にあり バス停から急な下り
谷の下にありました 窟は関東大震災で崩落 前から見ると中は丸見えですが
崩壊前は 洞窟だったのでしょうか

頼朝 その後 真鶴半島に逃げ そこから東京湾を船で 房総に

その後 盛り返し 伊豆に流刑20年 頼朝 紆余曲折で鎌倉幕府を創る

文句言わず私の趣味に付き合ってくれた 奥さんに感謝


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