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2014.09.13

太平記 その3 太田 足利市に

今年 6月末 東京 神奈川の圏央道が開通
東名 中央 関越高速につながりました
第三京浜 環八 練馬ICより早く行けそうなので
又 熊谷 館林 酷暑のイメージ 少し涼しくなったので
群馬 太田市 栃木 足利市に夫婦で行って来ました

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東武伊勢崎線 世良田駅近く 新田荘歴史資料館に
新田義貞の像 この場所は 祖 源義家の孫 新田義重の
新田荘の跡地 8代目が義貞です

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近くに 世良田 東照宮が この建物は 徳川家康 死後
二代将軍 秀忠が日光に建てた 初代の東照宮 その後
三代将軍 家光が大改修 東照宮を此処に移築
現在の東照宮と比べると 質素です

何故此処に 東照宮があるかと 家康が将軍になる時
源氏の血筋が必要で 新田の一族である事で将軍に
少し疑わしいです 真実は解りませんが

201409123

現在は 照明寺 反町館跡 新田義貞が成人後住居して
居た場所 周りが堀で囲まれています

新田義貞 足利尊氏とは親戚関係 但し 官位のある足利尊氏
鎌倉幕府でも新田氏は足利氏より低く見られていたので 幕府に対して
不満をもっていた

201409124

生品神社 新田義貞 1333年5月8日 後醍醐天皇から討幕の綸旨
を受け 150人で挙兵 鎌倉に向かう 鎌倉幕府が崩壊する

後醍醐天皇と足利尊氏と確執が深まり 新田義貞 楠木正成
陸奥に下向していた 北畠顕家により 足利尊氏が破れ
九州に逃げる その後 尊氏の勢力が再挙して京都に
途中 神戸 湊川の戦いで楠木正成が自決 新田義貞は北陸に逃亡
金ヶ崎城に 越前 藤島で戦死

足利尊氏と新田義貞の官位の差 西上した北畠顕家との
連携が上手くいかず 鎌倉 足利軍攻撃が上手く行かず
箱根での敗戦の原因と思います

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足利市 JR足利駅近く 鑁阿寺 足利氏の屋敷跡
新田荘から 10数キロしか離れていません 足利尊氏は義貞と同じく
起源は清和源氏 八幡太郎 義家の孫の義康が祖 8代目が尊氏

鎌倉幕府 御家人 足利貞氏の子 尊氏の最初の名前が高氏
多分 北条高時から一字もらったと思います その後改名し尊氏に
此処 足利 鑁阿寺に住んだか不明です

後醍醐天皇と対立 北朝 光明天皇を立て 南北朝に
その後 京都で 室町幕府を創り 征夷大将軍に

新田義貞が鎌倉北条幕府に攻め込む前 鎌倉を脱出した
足利尊氏 嫡男 義詮を指し向かせ 合流 討幕軍は足利ペースに
叉 京都で破れ 九州に落ち延び 再び京都に攻め込む
政治力の上手さがあります

歴史上 二つの皇室が存在する南北朝 歴史的には
反逆者のイメージ

南北朝は 60年後 合体 明治時代に 南朝が正統と
認められる

201409126

鑁阿寺 真言宗の寺ですが 周りに掘が お城の様です

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隣は 日本最古の学校 足利学校


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