« 2015年4月 | トップページ | 2015年6月 »

2015.05.31

二ヶ月ぶりに畑応援

201505311

二ヶ月ぶりに農業応援隊に 初めての畑 葱畑に雑草がいっぱい
です、普通の雑草と違い 樹木ぽい 聞きましたが忘れました
抜きずらい

201505312

二時間半 7人で除草終了 横浜市と藤沢の境です
目の前に 相鉄いずみ野線と横浜地下鉄の高架がこの先地下に
入り 湘南台駅に

久しぶりの農作業 楽しみました 土を触ると落ち着きます

今週末 息子の結婚式です 昨年10月入籍後ですが
いまさらとの思いもありますが 期待してハワイでの結婚
と思いましたが 残念 家族3人でハワイ行って来ました

多分 結婚式場は奥さんの大学の隣 東京 白金 先日 
衣装合わせ訪れました ここは 結婚する前 お袋の叔父さん
が住んでおり二度ほど訪れました 
いかにもリッチピープルが住民の様な雰囲気

新郎の親挨拶もあり がんばります

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015.05.27

その後の 小栗上野介忠順 高崎 権田村に

先月 小栗上野介忠順の足跡を見に横須賀に
今回は 幕末 鳥羽伏見の戦いに幕府軍が敗れ
最後の将軍 徳川慶喜 大阪湾より海陽艦で江戸 品川に逃げ帰る
江戸城の評議で 小栗忠順は徹底抗戦を表明 慶喜の怒りにふれ
慶応4年 1868年1月15日 全ての役職を罷免される
1月28日幕府に 上野国群馬郡権田村に土着願いを届ける 翌日許可
2月28日江戸を出 桶川 深谷 高崎に泊まり
3月1日夕方に 権田村に到着 仮住まいを東善寺に

東善寺のホームページ 小栗忠順 情報満載です

201505251a

権田村 現 群馬県高崎市倉渕町権田は 榛名山の麓 高崎から草津街道
で20km位の場所にあります

① 東善寺 小栗上野介忠順の墓 仮住まいの場所
② 観音山小栗邸跡 ③ 鳥川 忠順 家臣3人 斬首の場所 碑
④ 高崎城址

201505251

東善寺 資料館の小栗上野介忠順と娘 国子の写真
国子は 忠順の斬首前に 母 くに子 婦人 道子と家臣と共に
新潟経由で福島に逃避 国子は福島で生まれる その後養子をもらい
小栗家を継ぐ

201505252

東善寺

201505253

裏山に 小栗上野介忠順と家臣3人の墓 慶応4年4月6日朝
家臣3人と共に 水沼 鳥川河原にて斬首される 胴体は此処に
埋葬 首は 養子又一の首と共に 館林に送られ 東征軍総裁
岩倉具視の首実検を受けた後 法輪寺に埋葬されるが 一周忌
に掘り起し 此処に胴体と共に埋葬

別に東京 雑司ヶ谷墓地にも墓があります

201505254

岩窟観世音 神社 東善寺から車で2-3分 この神社の山頂上に
観音山小栗邸が造成されました

201505255

観音山小栗邸跡 平地になった場所もあるのですが不明
宅地 用水路 畑を造成 住宅3棟を建設予定でしたが
1棟は完成するが 小栗 斬首の後 東山軍に取り壊される
その後 前橋市に都丸家となり再移築されている

201505256

小栗忠順 権田村到着後 早々 暴徒に襲われる事件はあったのですが
その後平穏で 観音山の住宅建設を進めるが
4月1日 高崎 安中 吉井 3藩の使者が東山道総督府の代理として
東善寺を訪れ 忠順に面会 陣屋 砲台を築き 謀反の疑いをかけら
れる 申し開きの為に 忠順の養子 嫡子 又一忠道が家臣と共に
高崎に この後 忠順の母 妊娠中の妻 家臣を伴い 福島に避難
東山道軍より 朝廷に対して大逆の疑いで捕縛される

翌6日朝 忠順 家臣 荒川祐蔵 渡辺多三郎 大井磯十郎と共に
鳥川の水沼河原で斬首される 忠順 享年42歳

碑には 偉人小栗上野介罪なくして此所に斬られると書いています

翌7日 高崎城に申し開きに行った 養子 又一忠道以下家臣 3人
取り調べもなく斬首される

何故 官軍?は 小栗忠順を早急に抹殺しなければなかったか
不思議です

201505257

高崎城址 駅の近くにありました
築城したのは 小田原征伐後に 井伊直政が築城 彦根城が
最初と思っていました

201505258

高崎に行く時 私的には二大ドライブイン 渋川 永井食堂でもつ煮定食
9時開店と同時に行きましたが 先客6人位 人気があります
居酒屋の煮込みと同じレベルでした 土産で1kg購入

西は 同じホルモンですが 亀八食堂 味噌焼きうどんの方が
好みかな


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015.05.19

鎌倉 寿福寺 他

最近 清和源氏中興の祖 八幡太郎 源義家を読み
疑問が 流刑地 頼朝 伊豆 韮山で兵をあげ 石橋山で敗退 房総半島
安房に逃げるが 上 下総で兵を募り 鎌倉に入り幕府を創る
何故 鎌倉か 京都 平治の乱で敗れた 頼朝の父 義朝は 上京前
鎌倉が本拠地 義朝の館を見に行って来ました

河内源氏 頼義ー義家ー義忠ー為義ー義朝ー頼朝

201505183

鎌倉駅西口から北鎌倉方面に歩いた寿福寺に 此処に義朝の館が
地の利もあり 頼朝は此処に幕府を創るつもりでしたが
すでに源氏の家人 三浦氏の御家人 岡崎義美が義朝のお堂が建てられ
おり 場所も手狭な為に 頼朝は 鶴岡八幡宮近くに 大倉御所を
創る 場所は 横浜国大付属小中学校付近

201505185

境内の墓場には 頼朝 正妻 北条政子の墓 鶴岡八幡宮の階段で
暗殺された三代将軍 実朝の墓も隣にあります

201505184

寿福寺の後方は源氏山です 源義家の父は 源頼義は扇谷に住居があり
義家も鎌倉で生まれています
義家 後三年の役で奥州に向かう時 源氏山に白旗を掲げ勝利を祈願
清和源氏一族がこのあたりに住んでいたのでしょうか

鎌倉では 平安時代の様子があまりわからず 夏ごろ 東北に源頼義 義家の
前九年の役 奥州藤原氏誕生の原因になった 後三年の役又 源頼朝 鎌倉幕府
による 奥州藤原氏の滅亡 見に行く予定です

平泉は世界遺産になったが 鎌倉はダメ あまりにも資料 史跡が
ないのだろうか?


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015.05.09

大阪城 冬 夏の陣 歩く

真田幸村 大阪夏の陣で 400年前 1615年5月7日に死亡
当日は 大阪雨の予定 8日に天王寺から大阪城公園
まで歩いて来ました

過去に 真田幸村の城 信州上田城に 過去二度徳川軍を
打ち破っています 

真田幸村と大阪の陣 年表

201505091b

四国八十八か所 最後に高野山に行く途中 九度山 真田庵に
幸村 1614年 10月9日 此処から大阪城に入城 大阪冬の陣に参戦

201505091a

天王寺駅より大阪城公園まで 約9Km

① 天王寺公園 茶臼山 ② 一心寺 ③ 安居神社
④ 三光神社 ⑤ 大阪城公園 

201505092

天王寺公園内 茶臼山古墳

201505093

茶臼山の碑 大阪城 冬の陣の時は 徳川家康の本陣
夏の陣の時は 真田幸村が本陣に 天王寺の戦いの舞台に

201505094

道を隔てて 一心寺 冬の陣で実際 家康が陣が置かれた寺
又 本多忠勝の次男 忠朝 冬の陣で不手際を家康になじられ
夏の陣で汚名挽回の為 毛利勝永軍と激闘したが 5月7日 戦死
享年34歳 墓があります

201505095

安居神社 真田幸村最後の地 家康を最後まで追い詰めるが 越前松平 
西尾仁左衛門に討ち取られる 休んでいた さなだ松(二代目) 
討死 享年49歳

明くる日 8日 秀頼 淀君は自害 大阪城は落城

201505096

途中 上町台地 坂が多く 魅力的な処 東京の谷根千の様な
雰囲気 但し 疲れの為に 平坦な松屋町筋を歩く
NHK ブラタモリで上町台地特集してくれないでしょうか?
過去に 京都 御土居 秀吉が建築した 洛中 洛外を分ける
土塁 興味深かった

ちなみに 今日は 鎌倉が放送予定

201505097

松屋町筋 片側は 寺が多数 いくつ有るのだろう
この様な 石碑が 新撰組 大阪での宿舎 京都では壬生 西本願寺
などは有名ですが 大阪でも金策に絡んだ事件を起こしています

201505098

三光神社 冬の陣で幸村が善戦した 真田丸のあった場所です
大阪城まで 結構距離があります 神社 社殿下には 大阪城
本丸までの抜け穴が よくわかりません

大阪城は 冬の陣の和議条件で 内外堀は全て埋められ 裸城に
その後 夏の陣が

201505099

大阪城公園 JR環状線 森ノ宮駅に 広すぎて 天守閣見えません
以前 訪れた 大阪城

歩いてみて 大阪都構想の住民市民の投票が 17日 応援 反対の宣伝カーが
多数見ました 橋下市長 最後の決断 どうなるか?


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015.05.01

ネパール地震

2015年4月25日11時56分にネパールの首都カトマンズ北西77km付近にM7.8
の地震が発生 カトマンズは地震による災害多数 300Km以上離れた
エベレストベースキャンプでも 地震によるなだれが発生

毎日死者数が増え 現在6000人以上が死亡 救援隊が各国より
来ていますが 救出が困難な状況

過去にカトマンズ エベレストベースキャンプ近くを訪れ
ました

田部井 淳子さんが 女性日本人として始めてエベレスト登頂時
1975年 偶々 エベレストを見たくて ツアーなど無いときに
同僚二人で40年前 エベレストトレッキングに 二週間ぐらいで
途中止まった家 女の子がいとこに似ていて モンゴロイドなのでしょうか
毛糸の帽子をあげた記憶が

40年前の記憶 当時は ベトナム戦争時 
パンナム世界一周線で ニューデリー空港に 真夜中にかかわらず
空港内は人がいっぱい カトマンズ空港から市内に途中の風景
壮絶な貧しい風景 カルチャーショクでした

ベースキャンプ5300mが見える カラパタールの丘 5500m
シェルパと登頂 下にエベレスト登頂女性隊のキャンプが見えました
現在は トレッキングを含め 1000人位訪れるのには驚きました

当時は 王国もあましたが 現在は崩壊 宮殿近くのゲストハウスに泊まりました
市内は 今回の地震で 世界遺産のほぼ壊滅 当時はヒッピーが多く 現地の子供を
西洋人を多数手なずけていつ 風景見かけました よくないと思います

観光しか資源がない ネパール 復旧は前途は厳しいと
思います 東北も同じですが

何故か気になる ネパールです

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年4月 | トップページ | 2015年6月 »