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2015.10.23

京都 石清水八幡宮 東山南部に

201510212

まず最初に 京阪電車 八幡市駅に 此処より男山ケーブルで
頂上に 石清水八幡宮に 源氏と八幡宮信仰は強く 此処で
源頼家が元服 その後 頼家は八幡太郎と呼ばれる
源平合戦後 鎌倉幕府を開き 頼朝は鶴岡八幡宮を創建

今年 国宝に指定するように 文科省に答申
今まで 国宝に指定されていなかったのが不思議です

201510213

男山頂上展望台からは 京都方面が 3方は山で 南側のみ平地
その方向に男山があり 下側には木津川 桂川 宇治川が合流
遠くには 比叡山も見れます

八幡市は エジソンが白熱電灯 発明時 付近の竹を使用
してフィラメントを作成 記念碑が又 日本飛行機のパイオニア
二宮忠八が創建した 飛行神社がありました
以前の仕事の縁でお参りに

2015102114

展望台左側には 天下分け目の戦いで有名な 1582年6月13日
山崎の戦いの場所 本能寺の変は 6月2日なので 11日後

天王山 本能寺の変で信長を倒した 明智光秀
と 中国攻めの最中 備中高松城より大返した 羽柴秀吉の
山崎の戦いの場所です
敗戦した 光秀は勝竜寺城に その後琵琶湖近くの 坂本城
に逃げ帰る途中 伏見付近で 土民に殺される

秀吉は 天王山に城を築き 大阪城が完成するまで 留まる

201510211

① 建仁寺 ② 西大谷本廟 ③ 方広寺 ④ 豊国神社
⑤ 耳塚 ⑥ 豊国廟 ⑦ 三十三間堂 ⑧ 智積院
⑨ 六波羅蜜寺

201510214

再び 京阪電車に乗り 京都 祇園四条駅に 南座に出ました

此処から 東山 南側に まずは建仁寺に 勅使門
平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものと
いわれている 敷地が広大で見る事は出来ませんでした

201510215

六波羅蜜寺 空也上人が此処に西光寺を創建 その後 中信が
六波羅蜜寺と改名 付近は鴨川東岸 5条から7条は 六波羅と
呼ばれる

寺には平清盛座像があり 見ごたえあります

201510216

寺内の 六波羅の碑 平安後期 平清盛の父 忠盛がこの付近に
軍勢を留め その後 清盛の時代になると 平家一門の邸宅が
5200邸近く立ち並ぶ 保元 平治の乱後 平家の時代に
清盛死後 源氏は 義仲軍が京都に乱入 平家一族は六波羅の
邸宅を焼き 西側に逃げる

京都は 源頼朝軍 義経が義仲を攻め 滅亡させる

鎌倉幕府が出来るが 1221年 京都で 後鳥羽上皇が鎌倉幕府
に討伐の兵を挙げる 承久の乱 北条政子の演説で 上皇挙兵
板東武士が京都に攻め上がり 滅ぼす 後鳥羽上皇は壱岐に
流される 後醍醐天皇の様に京都には帰れず 現地で死亡

鎌倉幕府 朝廷監視の為に 北条執権は 六波羅に北と南に
探訪 京都守護職を置く

1333年 元弘の乱時 新田義貞が鎌倉を攻め 足利尊氏
佐々木道誉などが 京都 六波羅を攻め 鎌倉幕府は消滅
する 平家の栄華 鎌倉幕府の監視場所があった場所

201510217


方広寺に行く途中 西大谷本廟に 母の三回忌 法事後
分骨しました お参りに

坂上田村麻呂が関係した 清水寺 全て歩きなので パス
観光客が凄い数です

201510218

此処からは 豊臣秀吉に関した場所
方広寺 大阪冬の陣の原因になった 鐘
元々は此処に 秀吉 木造で東大寺より大きな大仏建立 その後
地震で倒壊 秀吉死後 家康の勧めで供養になるので 秀頼は再び
大仏建立 開眼供養時 梵鐘の銘文に家康が異議を唱え それが原因で
大阪の陣に 実際見ると大きい 70tonあるそうです
大仏は放置されたが その後又地震で崩壊

現在の方広寺小さい 隣が豊国神社

201510219

豊国神社 豊国廟 秀吉の死後 徳川家康により破壊
明治になり 明治天皇により再建された 勝者の原理か

門は伏見城から移築された 西本願寺の門も
伏見城は 現在 明治天皇陵になり 場所も不明です

2015102115

豊国神社前の耳塚 朝鮮出兵時 首ではなく
二万人の耳 鼻を埋めた塚です

秀吉 老害で最後は 朝鮮 明に攻めこみ
此れがもとで 秀吉家臣 石田光成と加藤清正
福島正則が対立 関ケ原の戦いも変わっていたかも

2015102110

智積院 真言宗智山派総本山 秀吉死後 秀吉が最初の嫡男
鶴丸の菩提を伴う為に建立した祥雲寺 家康の命により寄進
された

2015102111

阿弥陀ヶ峰山頂 豊国廟 階段 直登 約500段
女子大を過ぎた 駐車場の先にありました 徳川により
破壊されたので閑散としています 現在は整備されていますが

2015102112

豊国廟 1598年8月18日 伏見城で享年62歳で死亡
死に先だて 5月15日 5大老5奉行に起請文の提出を求め 7月4日には
家康に秀頼の御家人になるように要請

秀吉 辞世の句が好きです

露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

名古屋 中村区の百姓の子?で生まれ天下人となった秀吉の
人生観が表れている 

死後みじめだったのは 武田信玄 秦の始皇帝

秀吉の死は秘密にされ この時は 二度目の慶長の役の最中で
朝鮮よりの引き上げの為に秘密にする必要があった

1599年4月13日に伏見城より阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬
4月19日には 皇室より 正一位が贈られ 神になる
その為に 特に葬儀は行われませんでした

同じ神になった 家康は久能山東照宮 日光東照宮に祭られ
それと比べ寂しい死後でした

疲れの為に 平清盛が寄進した三十三間堂はいけません
でした 紅葉にはまだ早いですが 来月になると観光客で
混むのでしょうね

気になっていた 東山南側に


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