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2016.09.26

今までの 飛行機 受験 9

現役時 一等航空整備士 国家試験に合格した 飛行機一覧

B737200

入社後 三年目 新規で受験した BOEING 737-200
一時 737はリタイアしましたが 退職前にBOENG 737 NG
導入 -700 -800を取得 出向先では -400 -500を整備

B727200

B737受験後 次に B727を受験 入社時は727-100でしたが
胴体延長型 -200を導入 エンジンが後方上部に三発
整備性はいまいち 但し エンジンの試運転時 エンジンが後方
なので 静かでした チャーターフライトで 中国 マニラに

B747sr_3

B737がミニミニ ジャンボに対して ジャンボ 500人以上
の乗客が乗れます B747-SR SRはショート レンジ 国内線
様に造られました 但し LR ロング レンジと同じ
主翼なので 燃料の搭載量もほぼ同じなので 国際線も使用
可能です 二度 名古屋からハワイ ホノルルに出張で行きました

一番お気に入りの飛行機です

B767

B767200

B767-200 -300 -300が胴体延長型機です
傑作機です 国内では未だに多数使用されています

B767-300の改造機 窓を無くし サイドにドアーを付けた
B767-BCもありました

出向中 台湾に二度 出張

B777300_3

B7772001

B7772002

B767 受験後にB777を受験 当時最新鋭機です
今までの飛行機と別物です フライト コントロールの動翼は
ケーブルでしたが ケーブルではなく フライバイ ワイヤー
で電気信号で動きます 又 パソコンと同じで LANでシステム
に接続 ほとんどがソフトによりコントロール

今までとは 違い 受験苦労しました

B747400_3

B747-SRに次に開発された 客室 二階部分が延長されたジャンボ
B747-SRのライセンスがあれば 違いの講習のみで ライセンスが
もらえると思いましたが JALが反対で 新たに受験が必要に
ただし B747-SRに搭乗していた 航空機関士がなくなり 乗員のみ
の二人乗務の設計 

基本的な設計は B777の考え方の基礎です 但し システムは
B747-SRそのものです 先に B747-400受験後 B777受験すれば
楽だったな

A320

A320-200 今までと違い ボーイングではなく エアーバス製造

201809261

今までの一等航空整備士技能証明書と航空無線通信士
無線従事者免許書

退職後 飛行機に対して興味なくなりました

後 3日でnifty ホームページ廃止です
移行作業 これで最後にします


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2016.09.25

水彩画もどき 8

過去 ホームページにアップした 水彩画もどき

Photoshop Elements 水彩画ソフト タブレットで作成

Ichou

銀杏の葉っぱ

Imo

さつまいも 畑で収穫

Izumiku

横浜 泉区古道のタイトル画

Kabocha

南瓜

Kamakura

鎌倉大仏

Minoguchi

美濃口家 長屋門

Nesukafe

ネスカフェ

Tennounomori

天王森泉館

Yari

槍ヶ岳


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2016.09.21

真田 上田城 7

真田 

天下分け目の戦い時 真田家は 長男 信之は 徳川側に 次男 幸村は
徳川に憎しで 上田城で 中仙道を関が原に向かう 徳川二代目将軍 
秀忠を上田城で ゲリラ戦にで戦い 秀忠 関が原の戦う時間に間に
合わない事態に

それ以前にも 家康 一時は 家康に従属するが 上杉に幸村を人質として
送りそれに恐れた 家康 真田討伐 上田城攻撃するが 敗退

武田滅亡 信長 本能寺の変で無くなった後 沼田ー上田間は 北条 
上杉 徳川の最前線 晶幸 上田城築城決意 その城で二度まで徳川撃退

この時期 どちらに着くのが 当たり前の時期 長男 信之は徳川に 
晶幸 幸村は 豊臣に 関が原後 多分 本多忠勝を通じて 家康に
お願いして 切腹は免れたが 九度山に謹慎無念 晶幸は 病死 
その後 幸村は 大阪城の申し出に 尊敬する秀吉のその後の為に
大阪城に入場 冬の陣では 真田丸を 一番弱い部分に 築き 
徳川軍を大いに悩ます

夏の陣では 家康の本陣まで攻め 三方が原の敗北と同じ様な 
家康を経験さすが結局は 死亡 九度山で生まれた 息子 大助も
大阪城で 死亡

真田家は その後 長男 信之 同じ長野 松代藩に移封されるが
残った

それにつけ 武田勝頼 織田 徳川軍に 攻められた時 晶幸の
申し出に従い吾妻渓谷の岩櫃城に避難していたら 天目山での自害無く
武田滅亡は なかったな。

上田城見た感じ いかにも 戦国の平城 晶幸が取り組んだ 
城の状況が良く解ります
城作りに使用した 石材は 後ろの山 太郎山より シュラで運んだ
そうです

上田城

Sanada1

西 南櫓 石垣だけではなく土塁も 昌幸が 築城

Sanada2

本丸西側 堀と土塁 素彫り

Sanada3

真田井戸 城外脱出用? 抜け穴

Sanada6

東虎口櫓門

Sanada7

真田石 信之が松代に移封時 持って行こうとしたが動かせなかった


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後北条 五代の最後 6

後北条 五代の最後

北条(後北条)の祖 北条早雲の氏素性は定かでない 伊勢出身とも
 言われるが。 今川家に使え 関東からの守りの為 箱根の西に城
 を築き 二代目 氏綱と共に 大森氏の小田原の城を打ち破り
 小田原に城を構える。

 氏綱が 北条家と名乗り 基礎を築く 鎌倉時代の北条家と区別す
る為  後北条家と呼ばれる。

 三代目 氏康は 扇谷上杉を滅ぼし 山内上杉を越後に追いやる
 四代目 氏政は 武田信玄と戦い 上杉謙信の小田原攻めを撃退

 五代目 氏直は 家督を譲られ 多分自信があったと思う

 秀吉は 薩摩攻めで九州を平定し 天下統一には 後 北条しか
 的は無く 秀吉は上洛の命令を出すが。
 氏政 氏直 親子は 上洛を引き伸ばし 小田原城を要塞化する。

 ついに 秀吉は 小田原攻めを決意 京都を出る 兵は15万人とも
 秀吉も自信満々で 側室 淀姫まで呼ぶ余裕 戦場に側室を呼ぶ
 なんて常識では 考えられないのだが 又小田原には市場 歓楽街
 までできる、余裕

 秀吉軍は 関八州の城をことごとく攻め 落とし 残るは 伊豆の
韮山城 と 小田原城のみ 

 秀吉軍が 石垣山に一夜城を建設(実際は80日位かかったみたい)
 小田原城は篭城作戦で 膠着状態

 ここで家康が和睦を勧め 韮山城主 北条氏規が 氏直を説得
 ここに 小田原城 開城する。

 秀吉は その後 氏政 氏照るに切腹を命じ 氏直は 高野山送り
 氏直はその後死亡 享年31歳

 此処に 後北条家 5代で滅亡

 秀吉は この時 家康に関東に領地変えも申し渡す その後の
小田原城は 家康家臣 大久保忠世が 城主となる 
その後改易されるが。

 秀吉は天下統一後 二度の朝鮮攻めの途中で死亡
 関が原 大阪城 夏 冬の陣後 家康が徳川幕府を作る

石垣山 一夜城

Houjou1

二の丸の跡地 結構広い

Houjou2

本丸 跡地 秀吉がいたのかな?

Houjou3

西曲輪跡地 展望台 相模湾 小田原城が一望

Houjou4

井戸曲輪跡 淀姫の化粧井戸とも呼ばれている

Houjou5

小田原城

Houjou6

天守閣より 石垣山 手前の山

Houjou7

北条 氏政 氏照 墓所

右側の 墓が氏政 中央の右側が氏政婦人
左側が 氏政の弟 八王子城主 氏照の墓

手前の岩が 自害岩だそうです


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2016.09.18

京都 壬生 新選組 5

京都 壬生 新撰組

 前回の 日野の新撰組を見に行ってから 次は是非 京都 壬生にとの
 思いから 壬生に行ってきました。

 策士 清河八郎により 浪士組に参加した 近藤等の天然理心流 
試衛館メンバー 江戸より 浪士組のメンバー 芹沢鴨のメンバーに 
加わる。
 大変な江戸から 京都に 京都に着けば 今度は 清河八郎は態度を一変
 将軍 上洛の護衛の為に 幕府が 清河八郎の意見を採り上げ 浪士組を
組織  したのに 京都に着くなり 清河八郎が 今後は 天皇の意見を
採り上げ 攘夷の為に 江戸に戻ろうと言い出す、本当に無茶苦茶です。

 250人の浪士組 京都に残ったのは 近藤 芹沢他 20数名 残りは再び
江戸に 戻ってします。

 京都に残ったグループは 壬生八木邸 前田邸で 新撰組旗揚げ
 芹沢鴨 近藤等が 最初の局長に 二つのグループ
 その後 反目 確かに 芹沢鴨 やりたい放題 大砲もって 商家に脅し
 金を借りる 少々酒乱気味 そこで 芹沢グループの切り崩しに 
 
 局中法度を定め これに違反した 芹沢グループ 新見錦を切腹に
 その後 芹沢鴨も暗殺 事実上 近藤等局長 土方歳三参謀の組織に

 これからの話 八木家 当主 八木為三朗老人壬生はなし
 が 昭和3年にしゃべった話を 子母澤 寛さんが 小説に
 に 生々しく 書かれています、この話が 新撰組の話の 
 土台になっていると思います。

 1862年壬生から1867年近藤等 伏見で狙撃されるまで5年間
 事件が一杯 結局は 鳥羽伏見の戦いに敗れ 近藤等は 流山で
 投降 斬首 京都 四条河原に晒され 土方歳三は 会津 函館と
 転戦し 函館で死亡。

 この 京都での 5年間 徳川幕府を守る為 最後の武士と述べる人
 がいいまですが 何故か寂しい 歴史の流れに 逆らえなかった
 集団との思い。

Sinnsenngumi1

旧前田低

将軍上洛の警備の為に組織された浪士組 
後に新撰組 八木邸 手狭になり 隊士の場所に
路を挟んでありました。

この場所は 山南敬助の切腹 古高俊太郎 拷問場所
自白により 池田屋事件に

Sinnsenngumi2

新徳寺

清河八郎に率いられた 230人が江戸より京都に
此処本堂で 清河八郎が 上洛目的が 将軍警備では
無く 天皇の兵として 攘夷をすると演説 これを機会
に 多くは江戸に戻り 反対した 近藤等 芹沢鴨らが
残留して 新撰組になる

Sinnsenngum3

八木邸

壬生の新撰組 屯所 隊員は 旧前田邸で生活

Sinnsenngumi4

八木邸内 芹沢鴨 暗殺 離れ屋敷

内部撮影禁止でした

島原 角屋で 新撰組の宴会の後帰宅して
芹沢鴨は 酩酊状態のあと 睡眠後
部屋は障子の向こうが新撰組局長 芹沢鴨が愛人 お梅と供に
寝ていて 又 平山五郎 島田芸者 吉栄 平間重助
三人がいる所に4-5人の 多分 近藤派の
沖田総司 原田左之助 山南敬助 土方歳三?
説明してくれた人は 覆面していて 人物は不明といっていました

芹沢鴨 平山五郎 お梅が暗殺されました

別の部屋 芹沢鴨 殺害現場の 鴨居には 刀キズが
ありました 多分 土方歳三がつけたのだと言っていました

壬生寺

Sinnsenngumi5

壬生寺 山門

隊員が訓練場所 沖田総司が子供と遊んだ場所

Sinnsenngum6

壬生寺境内 芹沢鴨 平山五郎の墓

八木邸で暗殺された 芹沢鴨 平山五郎 連名の墓

Sinnsenngumi7

島原 角屋

揚屋(料亭) 壬生より歩いて30分

文久3年9月18日 会津公からの 手当で
新撰組 総上げして へべれけの 芹沢鴨 カゴで
帰宅後 謎の集団により 八木邸で暗殺される

立派な建物 但し後ろに 山陰本線の高架 景観台なし

Sinnsenngumi8

西本願寺

手狭になった壬生屯所より 慶応元年 此処西本願寺に
移転 蛤御門の変に敗れた 長州藩をかくまった等の理由で
威嚇の意味で 屯所を西本願寺に移転
大砲を撃ったり 寺側に攻撃する。

手前の道路 堀川通りはさんで 油小路があり 
京都駅近く 本光寺で長倉新八 新撰組に暗殺
した 伊藤甲子太郎の死体を 油小路の辻に運び
囮にして それを引き取りに来た 伊藤一派
籐堂平助ら7人が死体を運ぼうとしている所に
新撰組が 原田 長倉等が 籐堂平助 服部武雄 毛内有之助
3人を暗殺する事件現場がある

Sinnsenngumi9

池田屋跡 碑

新撰組と言えば 池田屋襲撃が有名ですが 東海道終点
三条大橋近く パチンコ屋の前に碑がありました

取り締まりで 不審な商人 古高俊太郎を捕らえ
壬生屯所 旧前川邸 土蔵で拷問 土方が必要以上の拷問
で 勤皇の志士の 武装蜂起を自供 武器も発見

放棄前 志士が集会しているとの情報 場所不明
新撰組 近藤等 土方歳三の二派に分け 祇園会所より
捜索 長州藩定宿 池田屋で 近藤等組が発見

土方グループ 会津藩の到着待たず 長州
吉田稔麿を含め 7人殺害 負傷4人 捕縛23人
新撰組 負傷2人 その後1人死亡
籐堂平助は重傷を負う 幕府より功労金が支給される


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日野 新選組 4

日野 新撰組

 多摩 日野は 新撰組発祥の地域であると供に 鳥羽伏見の敗戦後 
江戸に戻り 甲陽鎮憮隊を組織して 甲州街道を甲府に行く途中 
近藤 土方が 久しぶりに故郷 日野に 大歓迎を受け 又 
地元隊員を募集し 甲府に行くが 勝沼の手前で 官軍に大敗
 近藤勇は その後流山で投降 斬首 土方歳三は 会津 仙台
函館と転戦し 函館で死亡  その意味では 発祥と最後の土地
 
 多摩地区は昔から 剣道が盛んな地域で 近藤勇 土方歳三  
井上源三郎 沖田総司 等が 天然理心流三代目 近藤周助に学んだ 
佐藤彦三郎が 屋敷内に道場を開き 此処で 剣の修行 
天然理心流の四代目になった 近藤勇が 江戸試衛館で清河八郎
 の呼びかけで 浪士組の募集に応じ 京都に その後は舞台は 
壬生に移ります

 初めて 日野を訪れ 日野駅は 同じ中央線の吉祥寺の都会を
イメージしていたのですが 武蔵野の面影が残り 落ち着いた場所 
井上源三郎の生家は 駅に近く 土方歳三の生家は石田 
モノレール万願寺駅近く 今回は 行けませんでしたが 近藤勇の
生家は 西武多摩線の多摩駅 龍源寺に墓もあるそうです。

 この様なのどかな地区に 幕末を代表する剣豪が出た事が不思議です。

Sinsen1

高幡不動尊 土方歳三像

Sinsen2

佐藤道場跡

Sinsen3

宝泉寺 井上源三郎墓

Sinsen4

石田寺 土方歳三墓 本当に埋葬されているのは 函館 五稜郭?

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生麦事件 3

幕末 生麦事件前後の 年表

1853  ペリー 浦賀に来航
1858  井伊直弼、大老に就任。日米通商条約に調印
  安政の大獄。徳川家茂は14代将軍に
1860  勝海舟等が 幕府の遣米使節団派遣
  桜田門外の変、井伊直弼が暗殺
1862  将軍家茂と皇女和宮の婚儀を挙行 公武合体策
  寺田屋事件、薩摩激派が暗殺される
  生麦事件、イギリス人が殺される
1863  イギリス艦隊が鹿児島を砲撃する 薩英戦争
1864  4国艦隊が下関を攻撃する
  禁門の変、長州藩と薩摩・会津藩の争い
  第一次長州征伐、長州藩は幕府に降伏
1866  薩長同盟が成立
  第二次長州征伐
1867  坂本龍馬 船中八策 作成
  大政奉還

幕末、1853年の ペリーが黒船で日本に開港を迫った時から
幕府の混乱が始まる。

 坂本竜馬 高杉晋作 西郷隆盛 勝海舟等の人物が登場し
  幕末に。

 この様な時代 天皇は 外国人が気に入らなくって 攘夷うずまく時代

 お家騒動の 薩摩 斉彬の後 いたみ分けの 茂久藩主の御家人 久光が
 三田の薩摩屋敷から一行700人が帰省 の途中 生麦村付近で イギリス人 
四人が 横浜から 川崎大師に行く途中 大名行列に遭遇 イギリス人は 
日本の風習など解らず パニック状態、この状態に 供頭 奈良原喜左衛門が
リチャードソンに切りつける 後 マーシャル クラークも切られる 
唯一 ボロデール婦人はパニック状態になるが無傷  マーシャル クラークは 
アメリカ領事館に逃げ込み 婦人は横浜に逃げ帰る リチャードソンは 
傷の程度が深く 碑があるところまで逃げるが 海江田武次
 (桜が門外の変で薩摩藩より参加した 有村次左衛門 井伊直弼の首級を
上げた 兄 にとどめをさされる。

 行列は 最初の予定では 神奈川宿の予定であったが、横浜の外国人の
居留地に近いため、予定を変更して、さらに移動して 保土ヶ谷宿に 
来襲に備える

  次の日は 小田原まで、逃げるように現場を離れる。
 家老 小松帯刀は 首謀者を 不明にして 幕府に届ける。

 これにより、幕府は イギリスより 賠償金を要求され、10万ポンド
  支払う。

 イギリスはさらに 薩摩に 犯人の引渡し及び 久光の首を要求
 薩摩は完全に無視。

 怒ったイギリスは、船団を組み 鹿児島にて 薩英戦争が勃発

 結局 薩摩は 問題を棚上げして、和解 賠償金も 幕府から借り 和解 

 この頃の 幕府は当事者能力無く 幕末になるのも 解る

 生麦事件は、幕府崩壊の 一つのきっかけになったと思われる。

生麦事件付近

Nama1

生麦事件碑

Nama2

左が第一京浜 右の道が 旧東海道 生麦村に

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2016.09.16

佐賀 名護屋城址 2

文禄 慶長の役 秀吉の侵略戦争 前戦基地

文禄の役 1592-1593年 講和決裂で 慶長の役 1597-1598年 
秀吉死去まで


1590年 秀吉 後北条氏 小田原城を攻め 滅ぼし 日本統一
 信長にもあった 明の侵略 対馬藩 宗氏と通じて 李氏朝鮮に服従
を求める  結局 1592年  16万人が 朝鮮に渡る 先人は 加藤清正
小西行長等々 あっけなく漢城 ソウル征服 さらに 朝鮮国王した遷都
平城も 王朝はさらに北に避難 最初は調子良かった 秀吉軍 その後
 民衆の抵抗 食料等は現地調達の為 民衆の抵抗で食料不足 又寒気 
又朝鮮水軍 李舜臣  率いる 戦いに被害甚大 ついに明軍が応援で
責められ 小西行長 石田三成等が うその内容  で講和 秀吉は 
相手が降伏したと思い 講和を許す

 秀吉は一度も 朝鮮には渡らず 此処 名護屋城に その間 母親が
死んだ時は 一次大阪に 大陸征服の為の前線基地 名護屋城を中心に 
多くの戦国大名が回りに陣地を作る。

 この役で 加藤清正 福島正則 等々と 石田三成との確執が深まり
その後の 関が原の戦いに

 1595年 朝鮮使節の文章の内容に激怒した 秀吉 再度戦いに 
それが 慶長の役  前回ほどの勢いも無い 蔚山城では 加藤清正 
何十倍の明軍に囲まれるが 撃破
 
 秀吉の死亡により 秘密りに逃げる様に 秀吉軍 撤兵

 秀吉の思想 民を滅ぼし 天皇を迎えて 王国を作る この時代
スケールが大きすぎる 常識的に考えて 初め上陸した 軍団 
まともな地図も無く 兵站も十分でなく 秀吉の願い を叶える為に
秀吉の影響は凄いとも思い 但し この戦い 日本に戦いがなくなり
 秀吉が 各大名が 勢いをそぐ為の戦略との 考えも

 死去の前に 家康等に念書を出させ 涙ながらに 秀頼 豊臣家の
安泰を頼んだのは哀れ!

 時世の句

 露と落ち 露と消えにし 我身かな 難波の事も夢のまた夢

 名護屋博物館 現在 秀吉と文禄 慶長の役 特別企画展をしてい
ました。
 貴重な品々 朝鮮特使が持参し 激怒した文書 時世の句 など
興味深々

名護屋城 大名陣跡

名護屋 城址

Nagoya1

名護屋城博物館

Nagoya2

博物館より城址

Nagoya3

大手口

Nagoya4

本丸跡

Nagoya5

本丸より 玄界灘 対馬 壱岐が良く見えます 又
眼下には 各大名の陣地がありました

Nagoya6

唐津城 城主 寺沢志摩守宏高は 名護屋城の解体資材で築城

Nagoya7

ソウル(漢城) 昌徳宮 離宮 文禄の役で全焼

Nagoya8

景福宮 王朝王宮 同じく 文禄の役で全焼


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京都の坂本龍馬  1

15年前より niftyでホームページ作成
niftyよりのMAILで 2016年9月29日午後3時で
サーバーが廃止 niftyで作成時 容量が足りなくなり
infoseekの無料サーバーに振り分け infoseekも無料サーバー
無くなり リンク切れにより画面が出ず 修正に苦労しました

今回 nifty ホームページ無くします ページ作成 ファイル
転送の方法も忘れました

残したい ページ niftyのブログ ココログに移転しようと
思います ココログ ファイル残り 1.78GB残っています

まずは 歴史から 

坂本龍馬の京都

司馬遼太郎さんの 龍馬が行くを読んでから すっかり龍馬ファンです。

 土佐郷士 龍馬 土佐藩を脱藩後 足跡は 薩摩 長崎 長州 京都
と多岐にありますが  龍馬最期の地 京都に足跡を訪ねて。

 伏見 寺田屋は 大阪より船で淀川を昇り 京都にアクセスするには
交通の要所  薩摩藩の指定の宿となっていました。その縁で龍馬も
京都に行く時は定宿としていました。

 寺田屋では 大きな事件 二つもあります。

 1) 文久2年(1862) 4月23日に 薩摩藩士10名が 薩摩藩により
襲撃され死亡 島津久光公が 上京時 この時期に合わせて 
急進薩摩藩士が寺田で会合    これに激怒した、久光公の命令で
会合していた寺田屋を襲撃して 何人かは殺害され 又 薩摩に連れ
戻される船の中でも殺害されています。
 この 過激な集会を辞めさせる為に 西郷隆盛が 久光公と途中
待ち合わせ場所より 上京し これが基で 二回目の島流しにあって
います。
 この時 襲撃に参加した 薩摩藩士 奈良原喜左衛門が 確か 
江戸より帰路で生麦事件を起こしています。

 2) 慶応2年(1866) 1月23日 これが 龍馬が襲撃された事件
  百数十人の伏見奉行配下に急襲されるが、おりょうさんの機転で
   龍馬はピストルを撃ちなんとか、逃げ延び 伏見薩摩屋敷に避難
  これが基で おりょうさんと結婚 この時 龍馬 指を切断する
キズを負うキズの静養と避難の意味で 西郷の進めで 二人 
霧島に新婚旅行。

  龍馬の最後はあっけなく 近江屋に 偶々 訪ねて来た 中岡慎太郎と
  先の三条大橋乱闘事件で新選組に捕らえられた元土佐勤王党の宮川
  助五郎の  身柄処置ついて相談中に 突然訪ねて来た 何者かにより 
  暗殺されました。
  中岡慎太郎もその後 亡くなりました。
  龍馬 33歳の誕生日の日に

  もう少しで 大政奉還がある前に 日本最初の会社 亀山社中を作り 
薩長同盟を  成功し 船中八策でこれからの日本の形を提案 龍馬は
新政府には入らずそんな 龍馬が 大好きです。

  維新と友に 青春を駆け抜けた 龍馬!

伏見 寺田屋

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伏見 寺田屋

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龍馬 襲撃された時 龍馬が発射した弾丸の後  梅の間 床の間の横の柱

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階段の下右側が風呂場で おりょうさんが入って裸で 階段を駆け上がり 
龍馬に知らせ襲撃の難を逃れる

霊山護国神社

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霊山神社 墓地 蛤御門の変で死亡した 長州藩士 久坂玄瑞 来島又兵衛の墓
高杉晋作? 確か 長州で病死したはずだが

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龍馬の墓の前から 京都市内が一望できます

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坂本龍馬 中岡慎太郎遭難死した 近江屋があった場所
京都では 酢屋を定宿にしていましたが
襲撃の可能性がある為に近江屋に移り襲撃される
四条河原町の交差点から100M位の所

Ryou7

霊山神社 墓地

左が 坂本龍馬 右が 中岡慎太郎の墓

龍馬の妻(龍子)さんの墓

Ryou8

龍馬の妻 龍子 おりょうさんの墓
横須賀の信楽寺にありました。
龍馬死後 長州 土佐に住みましたが
その後 横須賀で再婚して 此処に
墓には 贈正四位阪本龍馬之妻龍子と書いています

移行作業大変 29日まで 作業続けます

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2016.09.08

三浦半島 三浦一族 三崎城 新井城

三浦氏 鎌倉幕府草創に尽す 源頼朝 伊豆で挙兵時 頼朝
に応じ 駆け付けるが 石橋山で敗れる 三浦に帰る途中
畠山重忠に攻められ 衣笠城で義明が討死 その後頼朝勝利後
義済は本領を安堵 頼朝死後 北条の陰謀渦巻く 比企能員 
梶原景時 畠山重忠 三浦氏一族の和田義盛が失脚 北条執権の
後ろ盾に 1331年 三浦氏 北条高時が楠木正成の討伐軍に参加
するが その後反旗を足利尊氏に味方 南北朝混乱時 三浦高継
関東に下向 死後 高通が相模三浦に移る

室町幕府内 足利尊氏と弟 直義が対立 直義敗北後 尊氏と
和睦  その後 扇谷上杉氏の家臣に 駿河 伊豆 相模に
勢力を伸ばした 北条早雲 1495年には 小田原城主 大森氏
が 早雲に小田原城を奪われる 早雲 上杉と和睦 三浦半島
の影響を遠ざける 北条軍 住吉城を攻めた後 三崎城 新井城
を攻める

室町時代まで生き延びるが 北条 早川早雲に滅ぼされた 
三浦氏の居城 三浦半島先端 新井城 支城 三崎城を見入って
来ました

201609079

201609071

三崎城 三浦市役所にありました 城山全般に三崎城
新井城落城時 三崎城も落城 その後 城ケ島に渡り抵抗

近くの植物 違和感が まるで 伊豆大島の植物の様
相模湾はさんだ場所 だからかな

201609072

三崎城の裏手 三崎港 前方の山が三崎城 水軍の拠点地

201609073

油壷マリンパークの裏 一族最後の城主 三浦道寸の墓
和田の乱 宝治合戦を含め 三浦氏 450年後 同じ北条早雲
に攻められ 1516年三年のろう城後 落城

201609074

新井城址の敷地 現在 東大臨海実験所になっているが 周回道路
の途中 空堀跡が見える

新井城 半島の先端で 三面が海に囲まれ まるで 島原の乱の
原城のようです

201609075

マリンパーク裏側 荒井浜から 正面が 新井城址
此処は海水浴場です 正面に富士山も見え 混雑もなく穴場です

201609076

油壷湾 ヨットの係留場所 海の水がきれいです

付近には 東大油壷地殻変動観測所の看板が 大正時代
関東大震災の震源地の一つが城ケ島付近

201609077

油壷から15分位 葉山方面に 三浦一族 和田義盛の碑
和田義盛の居留地 墓は江ノ電 和田塚にあるそうです

途中 京浜急行 終点 三崎口駅 ここから 油壷まで2.1kmの
延伸計画がありましたが 人口減少 地価の低下により計画は白紙に

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半島先端 松輪付近 富士山が見え 丘陵に畑が 大根 すいか
キャベツに産地です

先日 義理の姉の納骨 鎌倉の墓に埋葬終わりました
兄の健康が心配 甥 姪は気にはしているようですが 残念!


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