« 神宮外苑 神田 淡路町 | トップページ | 三か月半ぶりに BS 聴視可能に »

2016.12.08

下関 門司 小倉 博多に

2016120514

① 白石正一郎旧宅 騎兵隊発祥の地 ② 高杉晋作 終焉の地
③ 本陣 伊藤邸跡 ④ 日清講和記念館 春帆楼
⑤ 赤間神社 安徳天皇阿弥陀寺陵 ⑦ 壇ノ浦古戦場碑
⑧ 壇ノ浦砲台跡 ⑨ 関門トンネル人道 
⑩ 門司 旧大連航路上屋

201612051

高杉晋作終焉の地 下関駅から北に自転車で10分位の場所
新地 庄屋林算九郎宅で肺結核で療養中 27歳と八か月で死亡

坂本龍馬と並ぶ位 幕末の英雄 山口県萩に生まれる 武家屋敷
晋作の実家見ましたが 立派な家でした
その後 吉田松陰の松下村塾で学ぶ 藩命でアヘン戦争後の上海
に渡航 イギリス統治下 上海での植民地の実態を見 影響を受ける
尊王攘夷運動では 品川御殿山の英国公使館の焼き討ちを行う
朝廷から要請されていた 攘夷の実行 長州藩 関門海峡で外国船
の砲撃を実施 その後 三国の連合艦隊により 馬関海峡の砲台
徹底的に破壊される それにより 農民を含んだ 兵隊組織
騎兵隊を組織 第二次長州征伐では 騎兵隊による 小倉城を略奪
周防大島海戦では 海兵隊の坂本龍馬と幕府軍と戦う
この勝利が 徳川幕府の権威低下に 鳥羽伏見の戦いの勝利に

高杉晋作 豪放らいらくで 辞世の歌は
 
おもしろきこともなき世をおもしろく

201612052


下関駅近く 海鮮問屋 白石正一郎旧宅 長州藩の尊王攘夷派を
資金面で支援 晋作 葬儀では白石正一郎が祭主

此処で騎兵隊が結成された

201612053

本陣 伊藤邸跡 伊藤家は鎌倉時代から続く 下関屈指の名家
参勤交代の九州諸大名の本陣 坂本龍馬を支援
京都 四条で 坂本龍馬 中岡慎太郎暗殺された時 龍馬 妻
お龍さんは 此処に預けられていました

201612054

日清講和記念館 春帆楼
日本は朝鮮半島の権益を巡って清国(中国)と対立1894年
に開戦 日本軍が平壌、黄海で勝利し、遼東半島を制圧した
戦況を受け、清国は講和を求める 日本全権弁理大臣は伊藤博文
と陸奥宗光、清国講和全権大臣李鴻章を主軸とする両国代表十一名
が臨みました。講和会議は、当時の春帆楼の二階大広間を会場に
繰り返し開かれ、4月17日、日清講和条約(下関条約)が締結
されました。 

その時獲得した 遼東半島 ロシア フランス ドイツによる
三国干渉により ロシアに返還 これがその後の日露戦争に
つながる

春帆楼 伊藤博文により ふぐ料理 公認された店だそうです
予約のみ食事できるみたいです
建物 近代的だな

ふぐ 近くの 唐戸市場で ふぐちり用 とらふぐ購入
息子夫婦に送りました 高いな

201612055

赤間神社 安徳天皇阿弥陀寺陵

保元の乱 平治の乱で 源氏を滅ぼし 平清盛は絶対な権力者に
清盛 嫡男 重盛 病死 清盛死後 源頼朝 従弟 木曾義仲が
京都に攻め込む 平家一門 居住地 六波羅を焼き 以前遷都した
神戸 福原方面に避難 義仲の京都での治安の悪さに天皇が義仲
討伐の令を出す 頼朝軍 範頼 義経が宇治川の戦い後 摂津
一の谷で平家に勝利 その後 平家は高松 屋島での戦いにも
負け 最後の戦いの場 1185年 壇ノ浦の戦いで 二位殿 清盛
妻と共に 入水した 8歳 安徳天皇 又 安徳天皇の母 清盛
娘 建礼門院はその後助けられました

三種の神器は 草薙の剣は回収できず水没してしまいました

神社には 安徳天皇の陵と壇ノ浦で死亡した 平家一門の墓が
有盛 清経 資盛 教經 經盛 和盛 教盛 祭られていました

201612056

壇ノ浦古戦場址 関門橋があるところが最も狭く 700M位です
潮の流れが良く見えます

源氏 830隻 平家 500隻 1185年4月25日 戦闘
午前中は平家有利でしたが 午後潮の流れが変わり 義経 源氏
の勝利 銅像は平家 大将 知盛 安徳天皇 入水後 後を追って
入水

201612057

壇ノ浦砲台跡 古戦場場址の隣にありました

孝明天皇の要請 攘夷を受け 将軍 家茂は1863年 6月25日を
攘夷実行を約束 長州藩は馬関海峡で アメリカ フランス
イギリス オランダに海峡を通過する 艦船に砲撃を加える
蛤御門の変と言い 無通告で砲撃を加えるのは 長州藩の過激
な行動です

1864年7月には 4国連合艦隊17隻で 砲台を攻撃 全て破損させ
砲台は持ち去られました

講和には とりあえず 長州藩代表で高杉晋作が交渉 (笑)

薩摩藩 生麦事件後 イギリスが鹿児島攻撃 長州藩 下関での
事件 全ての損害賠償は 幕府が支払

201612058

関門橋には 関門トンネル人道が レンタサイクルも使用出来ます
20円払い トンネルに800M 自転車押して15分 対岸 門司に

201612059

門司港駅 中心に 歴史的建物が多数保存されています
港近くに 旧大連航路上屋 戦前の 大連航路の国際線ターミナル
飛行機の無い時代 船舶で海外に 日本海 敦賀 小樽は 
ウラジオストック経由で シベリア鉄道で ヨーロッパに
横浜港はアメリカ 南米航路に 門司は大連に 此処からは
中国内陸 満州鉄道でロシアに

大連に行った時 大連港でターミナル見ましたが その後 なくなった
噂が 終戦間際 ソ連の参戦 満州にいた方 帰国は大変だったと思い
ます

建物 保存状況が良かった

再び下関に 関門連絡船で 下関 唐戸市場に 5分 自転車も船に
載せられました

下関駅近くに 釜山に行く 関釜フェリーが停泊していました

2016120510

翌日 朝一番で小倉城に 開城前 団体が 韓国人か中国人か不明
言葉を聞いていると 中国人?

関ケ原の戦いで功労のあった 丹後国宮津城主 細川忠興が豊後 国東
の城主になり 毛利氏の居城であった小倉の地に 1607年から7年かけ
築城 肥後の城主 加藤清正の子 加藤忠広が改易になり 細川忠興は
肥後に移る その後 小笠原忠真が入封 幕末 第二次長州征伐時
長州藩 高杉晋作の騎兵隊 大村益次郎により 占拠されました
最後は 幕府側は小倉城に放火し 逃亡

2016120512

博多に戻り 多々良浜古戦場に バスセンターから JRバスで
多々良に 但し 1時間に一本 30分待ち タクシーで15分
福岡市東区田の津 流通センターに 多々良浜古戦場碑

足利尊氏 鎌倉幕府 北条氏滅亡させた後 1333年 北条高時の遺児
北条時行と残党が蜂起 鎌倉に留まっていた 尊氏の弟 直義が攻めら
れる 尊氏 関東に出兵 これに敵対する 新田義貞 弟 脇屋義助が
箱根 足柄峠で激突 箱根 竹ノ下の戦い 新田軍敗れ 京都に撤退
追ってきた 足利軍 奥州より下向した 北畠顕家が加わり 新田義貞
楠木正成と戦い 足利尊氏 大敗 九州に逃れる

尊氏 肥後国守護に迎えられが 宮方に味方した 菊池 阿蘇と敵対
足利軍 宮方 九州勢と戦ったのが 多々良浜の戦い
菊池軍 20000人 足利軍 2000人であったが 足利軍勝利
勝利した 足利尊氏 摂津 湊川で楠木正成 新田義貞を破り
室町幕府を創るが 南北朝に それにしても 尊氏 気力半端でない

2016120513

多々良川 菊池軍と足利軍が川を挟んで たいじ 左上が 足利軍本陣
詳細 不明 太平記は面白い

2016120511

博多駅 因幡うどん 博多一番街店

博多豚骨ラーメンより 博多うどんがお気に入り うどん発祥の地
かぎりなく柔らかい麺 甘めの醤油 ゴボウの天ぷら 博多葱
讃岐うどんも美味しいが 博多うどん これも有りです

|

« 神宮外苑 神田 淡路町 | トップページ | 三か月半ぶりに BS 聴視可能に »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/47003/64598479

この記事へのトラックバック一覧です: 下関 門司 小倉 博多に:

« 神宮外苑 神田 淡路町 | トップページ | 三か月半ぶりに BS 聴視可能に »