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2017.05.18

札幌 味噌ラーメン ジンギスカン

先日 ラーメン博物館で すみれラーメン 試食
川崎にもあったのが いつの間にか無くなっていました

昭和39年に女店主 札幌市豊平区中の島で創業した 純連
その後 長男が 澄川に 純連を 以前は 高田馬場 恵比寿
東京に出店 閉店 現在 店舗は札幌 2店と仙台のみ

すみれは三男の方が 開店 札幌4店舗 新横浜 福岡に店舗が

201705188

札幌 地下鉄南北線 澄川駅 さっぽろ純連 札幌店に
13時頃うかがいましたが 7人位の行列 但し回転が良いので15分
で 着席 もちろん デフォー 味噌ラーメン注文

201705187

明らかに ラー博のすみれ 味噌ラーメンとは違います
スープの表面に 油の膜があり 冬には温まるだろうとの印象
スープに癖もなく 美味しくいただきました
やはり 関東になく 北海道限定が良い (仙台はあるが)

以前 調子にのって都内に店舗 生キャラメル 現在 新千歳空港
でも見かけませんが

201705189

久しぶりに 札幌でジンギスカン 基本的には 夜がメイン
ラーメンの後 すすきのに だるまもあるのだが 夕方から
昼間開店している店 北海道産サフォークにそそられ 
いただきますに 今までは ラム ニュージーランド
オーストラリア産 ラム サフォークは初めてです

まずは ジンギスカン 各種部位が入ってます 違い解らない
羊のレバーまであります ホルモンではないのでパス

2017051810

次に 4切れで 1800円のロース 薄切り 満足感無し
やはり 何時も食べていた 新千歳空港の松尾ジンギスカン
正解でした

午前6時25分 羽田空港発札幌行 横浜より日帰 小樽 札幌 疲れました

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小樽 永倉新八

ラーメン ジンギスカン食べに 北海道に
ついでに 今までに訪れた事がない 小樽に

新撰組 2番隊 隊長 永倉新八の終焉の地 小樽に

新千歳空港からエアーポート急行で 小樽まで75分で到着

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定番の小樽運河 小樽駅からなだらかな下り坂 雰囲気が
函館ほど険しくない坂 新婚旅行で行った サンフランシスコ
に街の雰囲気と合わせて似ています

駅前 三角市場でビール飲んだので バスで運河に

201705181

永倉新八 松前藩江戸屋敷 家臣 長倉勘次の次男として生まれる
江戸っ子です 神道無念流に入門 その後脱藩 天然理心流 近藤等
の道場 試衛館の食客 新撰組結成は 清河八郎で書きましたが
幕府が募集した 浪士隊に試衛館が参加 その後京都に残ったのが
新撰組に 掟は厳しく 1-10隊長で残ったには2番隊長 永倉新八
3番隊長 斎藤一 9番隊長 鈴木三樹三郎?のみ
他の隊長は戦死 切腹 病死により亡くなっています

9番隊長 鈴木三樹三郎の兄 伊藤甲子太郎 新撰組に入るが
近藤は佐幕 伊藤は尊王思想 意見の違いにより 分裂 新撰組は
伊藤を殺害 死体を 油小路の辻に置き 伊藤のグループが来るのを
待ち 遺体を回収に来た 高台寺派 藤堂平助ら3人が殺害される 事件
新撰組では 永倉新八も参加しており 鈴木三樹三郎にとっては
兄のかたき 明治期になり 江戸 橋の上で永倉新八と鈴木三樹三郎が
はちあわせ 鈴木三樹三郎が手出しできなかった 話が

京都 池田屋では 近藤等 沖田総司と討ち入る その時 左手の
親指欠損しましたが 無事でした 

1868年 鳥羽 伏見の戦いで 幕府軍 新撰組は敗れ 江戸に戻る
幕府から武器 資金をうけ 近藤等 土方歳三 等で甲府城
を奪還に行くが大敗 此処で 永倉新八 近藤等とは袂を分ける
近藤等は 刑死 土方歳三は仙台経由で函館 戦死

新撰組 バイブル本 子母澤 寛さん 新撰組始末記 新撰組が
壬生に住んでいたときの 家を貸していた 八木家 前川家の人々
にインタビューして書かれているので 迫力あります  

明治4年 杉村きねの養子になり北海道 松前に 明治6年には小樽に
その後 東京に住むが 再度 小樽に住む
北海道では 樺戸集治監に四年勤務
そのほか 小樽から北海道大学の剣道部で指導していました

大正4年 小樽で病死 享年77歳 

写真は 大正2年 長男経営の料亭で撮影

201705183

市役所から国道に出る道 右側 マンションが建ってる場所
当時 衛生組合の事務所があり 此処に住んでいました
此処で亡くなり 葬儀も実施
墓は 市役所後方 共同墓地にあります それと東京にも
又 永倉新八が建立した 近藤等の碑が JR板橋駅前にあります

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衛生組合の住居見取り図

小樽駅 手前 南小樽駅より歩き 量徳寺 永倉の菩提寺
寺には 永倉の資料館あり 写真は自由にとっていいとの事
但し 住居 墓等の情報は 親族の意向か教えていないそう
です

201705185

住居近くに唯一あった看板

大正2年 5月22日 新撰組 永倉新八を訪ね 自称 近藤等の娘
山田音羽 (芸名 綱枝大夫)対面の地

近藤等 娘知りませんでした

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市役所より港方向に行った 神社 水天宮 永倉が良く通った
神社 高台にあり 小樽港が良く見えます 孫に剣道の稽古を
した場所

永倉新八 ひ孫 杉村悦郎さんブログ

小樽 永倉新八の足跡あまりありませんでした

同じ 新撰組 函館 土方歳三の足音は多数ありました


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2017.05.10

ヒュースケン 清河八郎 傳通院

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アメリカ大使館員 ハリス 秘書兼通訳 ヒュースケン襲撃場所
清河八郎 暗殺場所を見に 麻布 古川に架かる 中ノ橋 一ノ橋に

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大江戸線 赤羽橋駅に 東京タワーが目の前に 以前 息子の婚約者
の両親と初顔合わせで 東京タワーの下 東京 芝 とうふ屋うかい
に 凄く緊張した記憶が

東京タワー左側に 飯倉公園が

201705092

飯倉公園 幕末に赤羽接遇所(外国人旅宿)ありました 公園には
碑もありませんでした
旅館は 1859年8月に普請 1861年1月14日ヒュースケンは接遇所から 
麻布 善福寺アメリカ大使館が設置に帰る途中 薩摩藩士に 
中ノ橋で襲撃される 

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古川 赤羽橋の次の橋 中ノ橋 攘夷派 浪士組に襲われ ヒュースケン
が死亡 享年28歳 墓は アメリカ大使館が設置されていた 善福寺は
土葬が出来ないので 近くの光林寺に埋葬 伊豆下田で秘書兼通訳と
して採用され その後江戸に移動

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初代アメリカ大使館が設置された 善福寺 後ろには奇妙な高層マンション
が 麻布十番商店街を南に下った場所にあります

初代大使 タウンゼント ハリス 最初は伊豆下田 玉泉寺に領事館
構える 

幕末 幕府は日米和親条約に次いで ハリス 下田から麻布に移り
日米通商条約を締結 条約締結中心人物 大老 井伊直弼が水戸藩士に
暗殺された1860年3月 桜田門外の変が条約締結が原因の一つ
タウンゼント ハリス 生涯独身でタフネゴシエーターとの印象

幕末の外国人襲撃・殺害事件は港区で攘夷の事件が頻発
長州藩 高杉晋作一派により 品川 御殿山の英国公使館を放火
しています

偶発的ですが 横浜 生麦で薩摩藩士による事件が発生しています

その最たる攘夷事件 下関戦争 考明天皇の強い要望で 将軍家茂
1863年6月25日をもって攘夷を実行 長州藩は下関海峡を通過する
外国船に砲撃 その後 イギリス オランダ フランス アメリカに
より 下関 砲台を攻撃 壊滅的被害を受ける 四国の損害賠償は
長州は攘夷の実行しただけと 賠償は幕府が支払う

この様な関係で 現在 港区に各国の大使館が多いのかな

201705095

中ノ橋より麻布十番側に 一ノ橋 1863年4月13日 浪士隊 佐々木只三郎
6名で 一ノ橋で清河八郎が暗殺されました
 
佐々木只三郎は四年後 京都河原町 近江屋で 坂本龍馬 中岡慎太郎が
暗殺された 首謀者とされています

4月13日風邪気味の清河八郎は一ノ橋 松平山城守藩邸に友人金子与三郎
を訪ねました 飲んだ後 一ノ橋を渡った所で 呼び止められる
浪士隊により暗殺される 清河八郎 千葉周作 玄武館で免許皆伝の使い手
でしたが討たれました 享年34歳

同志 石坂周造が駆け付け 放置されていた 清河の遺体から首を討ち取り
又 同志500人の連判状を持ち帰る

首は山岡鉄太郎の家で砂糖漬けされ その後小石川傳通院に埋葬されました

私的には 清河八郎は策士とのイメージがあります

1863年 将軍 徳川家茂 上洛の警備の為に 浪士隊を創る事を 幕臣
松平主税之介に提案 採用 浪士隊234名が 江戸から京都 壬生に中山道
で行く この時 浪士隊にはその後 新撰組になる 近藤等 土方歳三
芹沢鴨が参加 京都 壬生 新徳寺で 清河八郎は突然 尊王の建白書
提出 演説では浪士隊全員の前で 目的は 再び江戸に戻り 尊王攘夷を
実行すると 驚いた幕府は浪士隊 200名を江戸に呼び戻す
その後 新撰組になるメンバーは京都に残る

怒った幕府は 江戸に戻った 清河の暗殺を浪士隊に命ずる

清河 山形 庄内地方出身 出羽山近くだと思います 良く鶴岡には
出張で行きました 

清河八郎 庄内藩士ではありませんが 倒幕の引き金になった
東京都港区芝 薩摩上屋敷焼き討ちを実施したのが 庄内藩でした

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東京ドーム近く 傳通院 徳川家康の母 於大の方 菩提寺
又 浪士隊結成の地で 清河八郎夫婦の墓があります

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傳通院 墓地

於大の方の墓 巨大です 後 境内には 大阪夏の陣で 大阪城より
助け出された 豊臣秀頼 正室 二代将軍 徳川秀忠長女 千姫の墓
三代将軍 徳川家光 正室 孝子の墓 先日 日光輪王寺 家光墓
見ましたが 夫婦で別々です 
増上寺で将軍墓を見ましたが 14代将軍 家茂と皇女和宮はそれぞれ
同じ場所に墓がありました

201705098

清河八郎 妻 お連の墓 お連さん 山形県鶴岡で生まれ
10歳で養女に出され 17歳で遊郭に 庄内 湯田川温泉 この時の客 
八郎が見そめる

江戸に移り住むが 町人無礼斬りで捕まり投獄その後 病死

真ん中が 清河八郎の墓 左側が妻 お連の墓


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