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2017.05.18

小樽 永倉新八

ラーメン ジンギスカン食べに 北海道に
ついでに 今までに訪れた事がない 小樽に

新撰組 2番隊 隊長 永倉新八の終焉の地 小樽に

新千歳空港からエアーポート急行で 小樽まで75分で到着

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定番の小樽運河 小樽駅からなだらかな下り坂 雰囲気が
函館ほど険しくない坂 新婚旅行で行った サンフランシスコ
に街の雰囲気と合わせて似ています

駅前 三角市場でビール飲んだので バスで運河に

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永倉新八 松前藩江戸屋敷 家臣 長倉勘次の次男として生まれる
江戸っ子です 神道無念流に入門 その後脱藩 天然理心流 近藤等
の道場 試衛館の食客 新撰組結成は 清河八郎で書きましたが
幕府が募集した 浪士隊に試衛館が参加 その後京都に残ったのが
新撰組に 掟は厳しく 1-10隊長で残ったには2番隊長 永倉新八
3番隊長 斎藤一 9番隊長 鈴木三樹三郎?のみ
他の隊長は戦死 切腹 病死により亡くなっています

9番隊長 鈴木三樹三郎の兄 伊藤甲子太郎 新撰組に入るが
近藤は佐幕 伊藤は尊王思想 意見の違いにより 分裂 新撰組は
伊藤を殺害 死体を 油小路の辻に置き 伊藤のグループが来るのを
待ち 遺体を回収に来た 高台寺派 藤堂平助ら3人が殺害される 事件
新撰組では 永倉新八も参加しており 鈴木三樹三郎にとっては
兄のかたき 明治期になり 江戸 橋の上で永倉新八と鈴木三樹三郎が
はちあわせ 鈴木三樹三郎が手出しできなかった 話が

京都 池田屋では 近藤等 沖田総司と討ち入る その時 左手の
親指欠損しましたが 無事でした 

1868年 鳥羽 伏見の戦いで 幕府軍 新撰組は敗れ 江戸に戻る
幕府から武器 資金をうけ 近藤等 土方歳三 等で甲府城
を奪還に行くが大敗 此処で 永倉新八 近藤等とは袂を分ける
近藤等は 刑死 土方歳三は仙台経由で函館 戦死

新撰組 バイブル本 子母澤 寛さん 新撰組始末記 新撰組が
壬生に住んでいたときの 家を貸していた 八木家 前川家の人々
にインタビューして書かれているので 迫力あります  

明治4年 杉村きねの養子になり北海道 松前に 明治6年には小樽に
その後 東京に住むが 再度 小樽に住む
北海道では 樺戸集治監に四年勤務
そのほか 小樽から北海道大学の剣道部で指導していました

大正4年 小樽で病死 享年77歳 

写真は 大正2年 長男経営の料亭で撮影

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市役所から国道に出る道 右側 マンションが建ってる場所
当時 衛生組合の事務所があり 此処に住んでいました
此処で亡くなり 葬儀も実施
墓は 市役所後方 共同墓地にあります それと東京にも
又 永倉新八が建立した 近藤等の碑が JR板橋駅前にあります

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衛生組合の住居見取り図

小樽駅 手前 南小樽駅より歩き 量徳寺 永倉の菩提寺
寺には 永倉の資料館あり 写真は自由にとっていいとの事
但し 住居 墓等の情報は 親族の意向か教えていないそう
です

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住居近くに唯一あった看板

大正2年 5月22日 新撰組 永倉新八を訪ね 自称 近藤等の娘
山田音羽 (芸名 綱枝大夫)対面の地

近藤等 娘知りませんでした

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市役所より港方向に行った 神社 水天宮 永倉が良く通った
神社 高台にあり 小樽港が良く見えます 孫に剣道の稽古を
した場所

永倉新八 ひ孫 杉村悦郎さんブログ

小樽 永倉新八の足跡あまりありませんでした

同じ 新撰組 函館 土方歳三の足音は多数ありました


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