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2017.09.22

明智光秀 本能寺の変 から 山崎の戦い

先月行く予定でしたが 京都の夏の暑さに負け
今月 明智光秀の本能寺の変 その後 豊臣秀吉が
備中高松城よりの 中国大返しで 京都 天王山での
山崎の戦いの場所 見に行きました

9月12日の朝日新聞 本能寺の変 何故 光秀が起こしたか
所説あり 決定的な手紙が発見? 三重大学の教授が 岐阜
美濃加茂市の資料より発見

1582年 天正10年6月2日に本能寺の変が起こるのですが
10日後に光秀から紀州 雑賀党 土橋重治 宛に送られた
手紙を発見 内容は 織田信長により京都より追放された
15代室町幕府 将軍 足利義昭の入京を承認した内容
足利幕府復権の承認した手紙 納得できる内容でした 
ますます 光秀の行動が気になります

201709211

① 亀山城 ② 愛宕神社 ③ 老ノ坂 ④ 山崎の戦い
⑤ 恵解山古墳(明智光秀 本陣) ⑥ 勝竜寺城
⑦ 岩清水八幡宮 ⑧ 洞ヶ峠 ⑨ 天王山 ⑩ 明智藪
⑪ 桂川 ⑭ 篠村八幡宮(足利尊氏 旗揚げの地)
⑮ 六波羅探訪 鎌倉幕府 京都での監視場所) 

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関ケ原の戦いの翌年1601年 徳川家康が築城 現在の二条城
1611年には 秀吉の跡取り 秀頼と家康の会談が行われましたが
三年後 大阪の陣が起こっています
1867年には最後の将軍 徳川慶喜が諸侯の大名を集め大政奉還
を発表が 二条城で行われました

本能寺の変~山崎の戦まで 明智光秀の足取り

天正10年5月17日

武田家に勝利後 安土城で徳川家康の接待役を途中解任されて
居城  坂本城に帰され、羽柴秀吉援護の出陣を命ぜられる

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亀山城祉 内堀 現在は敷地は宗教団体の土地になり 敷地内
は見学は自由ですが 宗教施設の建物があり 面影ありません

天正10年5月26日

亀山城に移り、出陣の準備を進める。

天正10年5月28・29日 愛宕神社に

愛宕百韻で有名な連歌会を催す 神社では信長討伐のおみくじ
凶が出たので 三回繰り返す 光秀の発句は 有名な

ときはいま天(あめ)が下(した)知る五月(さつき)かな 

この句を見てると 主人筋 美濃土岐氏の復興を読んでいる
様に思われるのですが 上記 の新発見に似ているのですが?

愛宕山は亀岡駅の北側 保津川の先 高尾の西側 麓から登山
2時間半ぐらいかかります 行くのを辞めました

201709214

天正10年6月1日の夕方

1万3,000人の手勢を率いて亀山城を出陣
現在の国道9号線 途中 老ノ峠 本能寺まで20km位
 
翌2日未明 桂川で 敵は本能寺にありと叫び兵士に知らせる

亀山城から備中高松城に行くには 国道9号 京都方面では
なく 丹波・篠山方面は西側に行くとおもうのですが 兵士は
気が付かなかったかな

201709212

① 本能寺 ② 妙覚寺 ③ 二条御所
⑤ 15代将軍義昭 二条城 ⑥ 13代将軍義輝 二条城
⑦ 徳川 二条城 ⑧ 御所 ⑨ 足利尊氏 邸宅
⑩ 現 本能寺 ⑪ 現 妙覚寺 ⑫ 秀吉 秀次 聚楽第

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13代将軍 足利義輝 二条城 松永久秀 三好三人衆に襲われ
討死 邸宅も燃える

御所 西側 平安女子学院に碑

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15代将軍 足利義昭 二条城 足利義輝 二条城の跡に
三好三人衆襲撃に備え 短期間に 織田信長が建設

その後 信長と義昭の関係は悪くなり 義昭は京都を追放
されています

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御所内にも 当時の石垣が残っています

2日早朝 本能寺に宿泊していた 織田信長を明智軍が襲撃
織田軍は60名ほど その後寺から火が出て本能寺は消滅
信長の遺体は明智軍は捜索したが発見されませんでした

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2日早朝 本能寺に宿泊していた 織田信長を明智軍が襲撃
織田軍は60名ほど その後寺から火が出て本能寺は消滅
信長の遺体は明智軍は捜索したが発見されませんでした

次に 明智軍 信長嫡男 信忠が滞在する 信長護衛でつれて
来た 信忠軍が駐留した 妙覚寺 1500名 東側には 二条新造
此処は 信長 正親町天皇の皇子の為に造営 信忠は皇子を御所
に避難させ 此処に立てこもりその後 自害

場所は烏丸通り 烏丸御池交差点 左側 京都国際マンガ
ミュージアムがある場所 二条新造と西側に妙覚寺が

秀吉の京都大改造で 妙覚寺は御所の北側に 本能寺は
寺町通に移転

天正10年(1582年)6月5日

この日、明智光秀はようやく織田信長の居城だった「安土城」に入ります。
信長の親族も 蒲生賢秀が 別の場所に避難させられていた
その後 明智軍退去後 安土城に来た 信長 次男 信雄が明智軍 残党を
あぶりだす為に火をつけたとか 真相は不明 安土城は炎上

天正10年(1582年)6月7日

政務を行ったのはこの頃を含めて3日だけなので、一般に光秀の天下は
「三日天下」と呼ばれています

この間、明智光秀は寺院への金銀の献上や、禁制(禁止事項)
と税金免除の告知、朝廷工作などを積極的に行っています。

この期間に明智光秀は朝廷から、最も権威のある最上位の官位
「正一位・征夷大将軍」に任ぜられたという説もあります。

天正10年(1582年)6月10日

あまりにも 羽柴秀吉の行動が早いので 光秀軍は慌てて布陣した
様に思う

光秀・秀吉、天王山へ

2日に本能寺の変 秀吉が備中高松城で 本能寺の変を知った
のは 6月3日~4日頃 軍師 黒田 官兵衛の提案で毛利軍と和議
城主 清水宗治 切腹 堤をきり 明智光秀と対決の為に 4日には
姫路城に 中国大返し 9日には姫路を出る 12日には山崎に布陣
山崎の戦い

山崎の地は 木津川 宇治川 桂川が合流 淀川に
西側は 天王山があり 川と山に挟まれた狭い地

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天王山 旗立松展望台から 山崎の戦いの場所

山崎の戦い 明智 秀吉 布陣

明智軍の 16000 人に対し、秀吉軍は 35000~40000 人

2017092111

明智軍 本陣を置いた 恵解山古墳 名神 大山崎Jctの北側

20170921101

秀吉が本陣を置いた 宝積寺 天王山登山道途中

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恵解山古墳の北  細川藤孝の城 細川 藤孝の嫡男 細川忠興と
明智光秀 三女 玉 ガラシャが結婚式をあげた城

本能寺の変起こした 秀光 一番頼りにしていた 細川藤孝
13代将軍 足利義輝 松永久秀と三好三人衆に攻められ 殺害
その後 義輝の兄弟 義昭は 三好三人衆に奈良 興国時に
幽閉されていたが 細川藤孝が助け出し その後 越前 朝倉景勝
に世話になる その頃 明智光秀は浪人後 朝倉景勝の家臣に 
細川藤孝と相談の上で 光秀は織田信長に紹介 そのような関係で
細川家と婚姻関係に 本能寺の変後 協力のてがみを書くが
突然 引退 協力を断る 光秀にとってはショックだと思う

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山崎の戦い敗戦後 勝竜寺城に逃げ籠城 その後 琵琶湖 坂本城
に逃げる途中 伏見の東 秀吉 死亡前 醍醐の花見で
有名な 醍醐寺近くで 落武者狩りにより討ち取られる 明智藪

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光秀のミスは さらに 久しぶりに聞いた言葉

洞ヶ峠を決め込む 洞ヶ峠は 戦いの場所 山崎の東 岩清水
八幡宮の南側 京都と大阪 枚方の国道1号線の峠

大和の筒井順慶 順慶が織田信長 傘下になる際 光秀が仲介を
当然賛同してもらえると思ったが 戦い時 洞ヶ峠まで出兵したが
様子見で この時の様子が 洞ヶ峠を決め込むとなった

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羽柴秀吉 山崎の戦い勝利後 清州会談 柴田勝家との 賤ケ岳の
戦いに勝利 天下人に昇り詰めて行きます

山崎城 天王山頂上 本丸跡 山崎の戦い後 秀吉 城を築き
大阪城が出来るまで此処に

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17烈士の墓 天王山 頂上近く

幕末 長州藩 京都から追放 長州藩による 禁門の変 主戦派に
参加 敗戦後 天王山に立てこもり 17名 真木和泉ら戦死

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烏丸通り 烏丸駅から 東側に 初代 室町幕府 将軍
足利尊氏 邸宅跡 此処が 最初の幕府 南北朝に別れ
尊氏 後醍醐天皇との闘い 関東には帰れず 京都に
幕府を創設したイメージ その後 三代将軍義満の頃は 
御所 北側 同志社大学 西側に花の御所 邸宅に

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篠村八幡宮 足利尊氏 旗揚げの地 京都縦貫自動車道 篠ICの北側
亀岡市内 最初は 北条軍に従い 後醍醐天皇に従う 反討幕軍に
討伐の為に 山陰道 伯耆に 途中 篠村八幡宮で 反北条軍が
2万人以上集まり 反転 討幕軍に参加 京都の鎌倉幕府 監視役所
以前は 平家の屋敷跡 六波羅探題を襲う 反北条の旗揚げになった
場所 関東では 新田義貞が 群馬 生品神社で 反北条の軍を
あげ 鎌倉幕府が崩壊 その後の後醍醐 新田 楠木 対 足利尊氏
の戦いは 続きます 詳しくは 太平記で

2017092119

洞ヶ峠途中 食べログ 京都ラーメンで高評価 麺屋 たけ井 R1号店
に ログでは 千葉 松戸 とみ田で修行したようで期待
していました とみ田同様濃厚なスープ 太麺 とみ田とは違う味
半分以上残しました

やはり つけ麺は関東が良い 大勝軒発祥の地ですから

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2017.09.15

市ヶ谷記念館に

今日本で 一番話題になってる 省庁 市ヶ谷防衛省に
今日も 早朝 二度目のJアラートがテレビに

防衛庁 後方広場にフェンスがあり迎撃ミサイルPAC3が
配置されています 説明者に聴いた所 教えてくれました

目的は 終戦後 昭和21年に始まった 極東国際軍事裁判
の場所が 移築され 防衛省庁に市ヶ谷記念館として
保存されています 見学は ネットで申し込みました

201709151

防衛省舎で 中心的棟 A棟 防衛大臣室もあります
前に 儀仗を行う 広場があります

防衛庁は六本木 現在の東京ミッドタウンにありました

最近まで テレビ朝日がある場所と思いましたが テレビ朝日
は六本木ヒルズの隣でした

裁判として使用された講堂は 米軍に接収され裁判所に
返還後は 市ヶ谷に移築 最初はA棟にありましたが
建物の建設時 西側に移築 市ヶ谷記念館に

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市ヶ谷記念館 六本木 檜町 防衛庁から平成12年に移築
講堂部分 車寄せ部分のみ
昭和45年に起こった 三島由紀夫 楯の会による事件
自衛隊員 マスコミに向けて 憲法改正の演説した
場所 その後 総監室に立てこもり 三島と会員 二人が
割腹自殺した部屋が 刀傷が残っていました
戦国 幕末時代のような事件です

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陸上自衛隊東部方面総監部の建物 中央部の建物が移築
されています 全体の建物 模型

201709154

ニュース映像で見た印象と比べて 意外と狭い場所です

配置は正面に 裁判官 左側に検察官 右側に 被告 弁護人

ドイツが降伏して 昭和20年11月20日より ニュルンベルク裁判
が行われ この裁判を参考として 昭和21年5月より 東京裁判が
始まる 平和に対する罪 人道に反する罪 戦争犯罪で裁かれました

あまり記憶はありませんが 裁判中 天皇陛下の戦争責任について
尋問 東條英機被告が 否定的な答弁だったのを覚えています

判決は A級戦犯 7名 死刑 その他は終身禁錮刑の判決

被告は 裁判中は東池袋 通称 巣鴨プリズムに収監され
現在は その場所にはサンシャインシティになり60階建ての
ビルも 隣接する東池袋中央公園には 東條英機らA級戦犯7人と
BC級戦犯54人が主に絞首刑によって処刑されており
絞首台があった場所 碑もあります

東池袋は 大勝軒 山岸一雄さんが生存中 初代の店に訪れ
ました あまりもの盛りの多さにギブアップ サンシャイン60も
ありました

息子の嫁が 生まれが 北池袋 東 南はあるのですが北も
ありか 先日 高田馬場にあった つけ麺 べんてんが閉店
成増で復活 東武東上線で 北池袋駅あるのだ
時々 息子夫婦と食事会があるのですが 成増 赤羽の話題に
なると 馬鹿にされます

巣鴨プリズムは無くなり オオムの死刑囚が収監されている
小菅に刑務所が移る

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被告の写真

201709156

市ヶ谷駅 外堀を挟んで 反対側に 法政大学 市ヶ谷キャンパス
が 10年以上前 娘の入学式 卒業式で武道館に 但し娘は学部で
高尾山の麓でした

大学にボアソナード タワーをはじめ 建物だらけ キャンパス
敷地狭い 隣は 靖国神社 神社からボアソナードが良く見えます
その先が 武道館なので歩いていける

201709157

ボアソナード タワー地下 フォレストガーデン 学食に
350円で醤油ラーメン わりとうまい

学食は二度目 幕末 彰義隊の戦いで 加賀藩の屋敷から
大砲で不忍池越えで寛永寺攻撃 加賀藩があったのが 赤門の
ある 東大 本郷キャンパス 安田講堂前地下で学食を食べました

法政の勝利 東大 まずかった


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2017.09.02

映画 関ケ原

201709031

6月に そごう横浜店で司馬遼太郎展見に行きました
その時 8月末に 原作 司馬遼太郎さんで関ケ原が
映画で公開されるので見に行ってきました

201709021

映画は最近1度も行っていません 前回は横浜駅 ムービルに
みなとみらいにも映画館に行った記憶があります
今回は 桜木町駅前 ランドマークタワーの遊歩道に手前に
ショピングセンタービル 6階 横浜ブルグ13に 13個の
ホールがあるのでしょうか 平日でも客が多い
関ケ原は客席に半分位うまっています

シニヤ割で 1100円で入場できました

ストーリーも司馬さんの 関ケ原に忠実で あらすじも無理のない
展開です
役所浩司さん 徳川家康役 上手いですね 石田三成役 岡田准一さん
律儀で融通が利かない 三成の個性良く出来ていました

豊臣秀吉 伏見城で死後 秀吉 恩顧 加藤清正 福島正則 朝鮮の役
で石田三成と確執が生じる
五大老の一人 上杉景勝が会津に戻り 戦争準備 上杉景勝 家臣
直江兼続が 徳川家康に挑戦状ともいえる 兼続状を家康に送る
家康は会津に徳川軍(東軍)を 大阪 伏見では 石田 西軍は東軍の
屋敷攻撃 徳川軍 栃木 小山で評定 会津征伐をやめ 東軍は
福島正則の城 清州城に集結 石田 西軍は 大垣城に集結
徳川軍 大阪に向け進軍 途中 石田三成の佐和山城があるので
西軍も進軍 途中 関ケ原で東西の決戦となる

関ケ原には二度行きました 現在でも決戦の場は畑で 
当時の布陣の場所が残っています 400年以上前と同じ

映画 合戦シーンは迫力あります 石田 笹尾山 家康 桃配山
吉川 毛利 南宮山 小早川 松尾山 など映画では関ケ原で
ロケしていませんが 風景がにています

西軍の裏切りにより 戦いは6時間で終了 負けた方は武者狩りにより
みじめ 宮本武蔵も敗者の一人 石田三成 安国寺恵瓊 小西行長は
北側 伊吹山方面ににげるのですが捕まり 斬首
宇喜多秀家は 鹿児島まで逃げるのですが 降参して 八丈島に40年以上
島流しで死亡 映画ではありませんでしたが 唯一 東軍方面に向かった
島津義弘 薩摩軍 中央突破をみたかったな

良くできた作品です 女性の忍者は余計だったな

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