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2018.05.25

防府 山口 萩 歴史散歩

防府 山口 萩に行って来ました

毛利氏 毛利元就 守護大名 大内氏の傘下に入る 室町時代 京都
で内乱 応仁の乱 西軍に 山陰の山名氏 大内氏が参戦 大内義隆
に離反した家臣 陶晴賢に討ち取られるが 毛利元就 隆元 吉川元春
小早川隆景 三兄弟が厳島の戦いで奇襲により 陶晴賢を滅亡させる 
その後 出雲の尼子氏も滅ぼす 広島 島根 山口 領土とします

豊臣秀吉 死後 西軍と徳川家康 東軍の関ケ原の戦いになり
西軍 大将 毛利輝元 大阪城に陣取り 戦いには参加せず
小早川隆景 子供無く 秀吉の妻 甥 秀秋を養子にもらい
関ケ原では 最後に西軍を裏切り 東軍勝利の立役者になる
吉川広家などは東軍と通じ家康本陣 後方 南宮山に陣取るが
戦い終わるまで 動かず 家康とは 領土安堵の密約も 西軍の
敗戦後 毛利家は 112万石から 周防 長門の二国 吉川広家に
なる予定でしたが辞退し 毛利輝元 引退し 秀就が 萩に城を造り
広島城から萩城に移り 29万8千石に減封し 長州藩に

その時の恨みが 幕末 尊王攘夷 徳川幕府 滅亡の戦いに

2018051920

① 萩 1600年~1863年まで 防衛上 京都 江戸への交通上の
  理由から 山口に移る 山口藩庁 
② 山口 1863年~山口藩庁 大内館跡 
③ 防府 三田尻港 防府毛利邸

 下関 長府毛利邸 高杉晋作終焉地 騎兵隊発祥の地
  四国艦隊下関砲撃事件

 岩国 岩国城址 吉川家居城 錦帯橋 長州征討 芸州口

黒字 今回訪問 赤字 前回訪問

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防府毛利邸 現毛利庭園 博物館 明治維新後 旧長州藩藩主毛利家
井上馨が発案で建設 中は毛利藩の博物館になっている 山口県には
防府だけでなく 下関近くに 長府毛利邸もあります

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防府 瀬戸内海 三田尻港 幕末の小説には良く登場します
江戸時代 萩と長府 三田尻間にはほぼ直線で結ぶ全長53km
の萩往還の道路がありました 大阪 などの交通は此処から
船で行ったのでしょうか 近くには 旅籠 晩天楼があり
坂本龍馬 高杉晋作 木戸孝允 伊藤博文などが密談を

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山口市に室町時代 守護職 大内氏館跡 現龍福寺 朝鮮との貿易
で財をなす 館は京都風 山口文化が生まれる キリスト教も許し
ザビエルも訪れています 大友義隆の時 陶隆房と対立 1551年
謀反により 義隆は自害 大内氏は衰退 滅亡

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山口 瑠璃光寺 五重塔 1442年建立 山口市唯一の国宝 山口文化を
感じる 塔です

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山口 香山園 毛利家墓所 瑠璃光寺の隣

萩より山口に藩庁移転後の毛利家の墓所 幕末 長州藩13代藩主
毛利敬親 夫人 子 元徳の墓がある

13代藩主時代 敬親 激動で 禁門の変  下関 4国艦隊による襲撃
藩内 保守派と討幕派との争い 第一次長州征伐では3家老切腹で和解 
その後二次征伐では 幕府と長州の全面戦争 王政復古による薩長と
幕府の鳥羽 伏見の戦い 

家臣の意見に対して異議を唱えることがなく、常に「うん、そうせい」
と返答していたため「そうせい侯」と呼ばれた 

吉田松陰 門下生を信頼していたのか

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山口 香山園内 沈流亭 山口市道場門前 安部氏宅離れにあったが
1902年に此処に移築

蛤御門の変で薩摩と長州が対立 慶応3年 1867年 9月 薩摩藩士
西郷隆盛 大久保一蔵 小松帯刀 大山格之介 長州藩 木戸考充
伊藤俊輔 品川弥二郎が薩長連合の話し合いが行われた 沈流亭

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山口県庁前 山口藩庁跡 1863年に 13代毛利敬親が 1600年から
藩庁を置いていた 萩より山口に 萩城の後ろ 日本海 防衛上
の理由? 本当は 萩より防府まで遠い 中間の交通上 山口に
移したのが本当の理由?

県庁の裏が 瑠璃光寺 毛利家墓所

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萩に 20年位前 家族で 山口宇部空港からレンターカーで一般道で
秋吉台 萩に 当時は歴史に興味なく 何となく萩に行きました
今回 改めて 行くと 歴代総理大臣 8人輩出している関係か
ほぼ 高速道が出来ていて それも無料です 萩は遠くなかった

萩市街地図

東光寺 1600年に毛利藩 萩に移ってから 歴代藩主5人の墓
蛤御門の変後 幕府は第一次長州征伐を実施 藩主 毛利敬親
親子に謹慎を命じ 家老三人に切腹を命ずる 三人の墓もあります

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東光寺の横に 吉田松陰の墓 周りには 久坂玄瑞(京都御所 
蛤御門の変で死亡) 玉木文之信 松陰 伯父 高杉晋作 吉田捻麿
久坂 高杉と共に松陰門下の三秀の一人 京都 池田屋事件
新撰組に襲われ 死亡
他 関係者の墓が多数あります

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墓の隣 吉田松陰誕生地 銅像が建てられています
此処から 萩の街が良く見えます

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玉木文之進旧宅 松陰の叔父 松下村塾 創立者 松陰幼い頃
松下村塾で厳しく教育を受ける 後に 乃木稀典も教育を受ける

松下村塾近く

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何時の間にか世界遺産になった 松下村塾

吉田松陰 9歳で藩校 明倫館の兵学師範に 11歳の時 藩主 敬親
に講義 

1854年 黒船 ペリーが日米和親条約の為に伊豆 下田に寄港
下田に 松陰と金子重之輔と二人で 黒船に小舟で行き 密航を頼む
が拒否され 下田奉行所に自首 一時は死罪の予定でしたが 
老中の助命で 長州 萩 戻され 野山獄 岩倉獄に投獄される

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吉田松陰 幽囚ノ旧宅 松下村塾の隣 大きな家です

1855年 出獄を許され 杉家 幽囚ノ旧宅に移る 1857年 伯父
玉木文之進が主宰していた 松下村塾を受け継ぎ 塾には 久坂玄瑞
高杉晋作 伊藤博文 山縣有朋 吉田捻麿 前原一誠 品川弥二郎 等が
入塾

1858年 幕府が日米通商条約を締結すると松陰は激怒 老中暗殺まで
言い出し再び 長州藩は 野山獄に投獄される
1859年 江戸に監送され 小伝馬町の牢獄に収監される その後斬首される
享年 30歳 松下村塾で塾生に教えたのは 1年あまりでした

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萩の街 中心部にある 藩校 明倫館 吉田松陰も幼い頃 兵法を
教えていました 出身者には 桂小五郎 高杉晋作 長井雅楽 乃木希典
がいます
水戸藩の弘道館 建物比べても大きい

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萩 武家屋敷 高杉晋作 誕生地 この付近は 昔の地図と変わら
いそうです

市内には 伊藤博文旧宅 久坂玄瑞誕生地 前原一誠旧宅 
山県有明誕生地 などがあります 時間なき為見れませんでした

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萩城近く 武家屋敷 上級武士屋敷でしょうか 高杉家とは家の大きさ
が違い 邸宅です

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萩城下 西側 半島 後ろは日本海 関ケ原の戦い後 周防 長門に減封
毛利輝元 広島城より移り 萩城 築城 1863年 毛利敬親が幕府に無許可
で 山口に移る

2018051918

東萩駅近く 岩倉獄 黒船 下田に来航時 密航目的で 吉田松陰と
金子重之輔が黒船に接近 密航を断られ 下田奉行に自首
二人は 萩に送り返され 金子は岩倉獄に この獄は士分以下の身分の者が
投獄される 途中病死 享年 25歳

吉田松陰生誕地に銅像ありました 松陰の横の人物 金子重之輔でした

2018051919

岩倉獄の道を挟んで前 野山獄 金子と同様に下田で密航 吉田松陰
士分以上の身分なので 野山獄に 此処で松陰は囚人を教化
その後 松下村塾の隣 幽囚ノ旧宅に移り 塾では身分に関係なく
藩士を教育 どの後の発言がもとで 再度 野山獄に その後
江戸 小伝馬町の牢獄に送られ 斬首

長州藩の狂気的な行動 革命は狂気と思う

萩は遠い 鉄道は 山口駅からは無く 山口線 SLで有名な路線
萩ではなく 津和野経由 島根の益田駅に 新山口駅よりバスが良い

帰りは 現役時 5-6回 出張で行った 萩 岩見空港に 萩からは
山陰線で益田経由で空港に 岩見は出雲空港の方が近い

東萩駅から山陰線で益田駅まで 1時間 但し2時間に1本
益田駅前 以前泊ったホテルそのまま 以前と変わりなし 空港は記憶
ありません 当時と比べて 羽田便 1~2便になっていました


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