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2018.10.28

坂の上の雲 東京都千代田区 神保町

東京都千代田区 神保町 御茶ノ水界隈 坂の上の雲 正岡子規
秋山真之 夏目漱石 南方熊楠が学んだ 東京大学発祥の地 東京大学
予備門 共立学校 跡に 神保町を見て回りました   

正岡子規 秋山真之 年表 地図は

1 子規 明治16年 17歳 松山中学を中退し上京 当時の上京はまだ
  東海道線が 横浜 桜木町-東京 新橋 間しか開通していなく
松山ー神戸 神戸ー横浜は船旅でした

上京後 松山のお殿様 久松家にお世話になります ② 久松邸跡 
日本橋二丁目1番 隅田川近く ← 地図参照

各地の廃藩置県は明治4年に実施 家名が松平から久松に変更

秋山真之は子規に遅れる事 明治16年 松山中学 中退し子規と同じく
共立学校入学の為に上京 苦学しながら 兄 秋山好古 すでに
陸軍士官学校に入学 場所は 市ヶ谷 防衛省あたりか 下宿先は
市ヶ谷駅 陸軍士官学校近く旧旗本 佐久間正節の屋敷の離れに住み
真之も上京後 此処に同居 御茶ノ水の共立学校に入学 大学予備門
の予備校に入学

飯田橋 九段 麹町 地図 秋山好古下宿先 ⑧ 

2 神保町 錦町 小川町 地図 
 
  子規 16歳で 真之 その後 16歳で神田 高橋是清が校長 ③共立学園
  で英語を学ぶ 翌年 子規 真之 神保町の⑯東京大学予備門に入学
此のころ ⑫  子規 真之 飯田橋駅近く錦町で 同居で下宿
真之 19歳で海軍兵学校入学の為予備門を退学 当時は学校は中央区築地
でしたが 2年後 学校は 築地から広島 呉 江田島に 実家に近く喜ん
でいました 子規 23歳で東京帝国 大学哲学科に入学その後 国文科に
転科25歳で大学を中退 ⑥ 小川町 日本新聞社の記者に就職 日清戦争
の大連 金州に従軍記者として訪れる 就職後 松山より 母 妹 律 
その頃 律は結婚後 離縁していました 山の手線 鶯谷駅 近くの22番
子規庵で生活

正岡子規 東京地図

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御茶ノ水駅 近く 淡路公園内 開成学園発祥の地 碑 開成高校の前進 
子規 真之が大学予備門に入学する為の予備校 共立学園があった場所 
御茶ノ水駅から神田川渡った場所に湯島聖堂 幕府直轄学校 
昌兵坂学問所があったからか共立学校 英語が必須で 過去に録画した 
NHKドラマ 坂の上の雲を観ると高橋是清の指導 子規は英語の試験で
苦労していました

明治時代 当時 東大に入学するのは 複雑 一高 帝大はその後です

共立学校 その後開成学園になり 場所は日暮里に移り 開成中 高校 東大
合格数 37年連続首位 神奈川にも 逗子開成高校があります

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神保町交差点から白山通り皇居方面 東大発祥の地 東京大学予備門があった
場所 現在 学士会館のビルにその後 東大は本郷 駒場に移動

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近く 一ツ橋交差点付近 徳川幕府 御三卿 一橋家があった場所
でしょうか 最後の将軍 徳川慶喜は 御三家 水戸藩 徳川斉彬の
7男として生まれ 一橋家に養子に入り 時代が慶喜を将軍に
付近には 東京外国語学校(現 東京外大 府中市) 高等商業学校 
(現 一橋大学 国立市)がありました

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学士会館 白山通り挟み 共立女子学園 正岡子規 享年36歳で根岸 
子規庵で死去 結核でしたが菌が脊髄に入り鎮痛剤なしには生活でき
なかった 壮絶な最後 坂の上の雲 子規を香川照之さんが演じて
いました

子規の妹 律は子規が死後 共立女子職業学校(現 共立女子学園)に入学
卒業後 和裁の教員となる

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御茶ノ水駅前 ニコライ堂付近 駿河台の碑 駿河台は本郷 湯島と
地続きで 神田山と呼ばれた 江戸幕府を開いた 徳川家康 神田山を
切り崩し日比谷入り江 (現 日比谷公園 新橋)を埋め立てた

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神保町交差点付近に戻って来ました キムラヤの看板 会社に入り
新宿 明治神宮付近で 新入社員教育で三ヶ月生活 田舎者でしたので
同室の人に聞き 新宿から神保町まで その頃は 靖国通りには路面電車
が走っており 神保町 キムラヤに 中古のオープンリールのレコーダー
買った記憶が 現在 新橋店などは サラリーマン向けのセレクトショップ
になっています 懐かしい

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白山通り 水道橋駅まで行く途中 左側に 登山用品店 さかいやスポーツ
店舗マップ 入社 40年以上前 大阪に住んでいました 当時はネット通販
も無く 山岳誌 山と渓谷 岳人の広告で さかいやを知り 東京に来て
購入していました 当時はウエアー館のみで店オリジナルの製品が多く
見ていても楽しかった 現在は 専門店化して オリジナルも無くなり
寂しい 神保町 古書店が多い 近くに大学が沢山あり その関係ですか
出版社も多く 山と渓谷社 集英社 小学館などが本社を置いています
山岳誌 岳人は中日新聞社が刊行していましたが 何時の間にか経営が
大阪のモンベルになっていました

40年以上前 岳人のエベレスト街道のトレッキング特集 それをもとに
三週間かけて 5000M級のカラパタールの丘に行きました
最近 BSでエベレスト街道のトレッキング特集していました アマダブラン
プモリ クンブ氷河 エベレストは同じですが 途中の道は変わっていました
ツアーなどない時代 良く行けたなとの印象

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白山通り さかいや近く 天ぷら屋 いもや さかいやに来た時は訪れ
ていました 定食が650円 東京の良心を感じる店 今年 3月 30年以上
開いていたのが 閉店に 最近 近くに いもやがあるのを知り
行って来ました

いもや 開店10分前到着 すでに15人並んでいます 天ぷら定食 650円
注文 以前の店と変わりありません 記憶では味噌汁 しじみだった記憶
豆腐でした 満足 神保町 カレーも良いが 天ぷらも美味しい

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2018.10.13

奈良 信貴山城 多門山城

大阪城に その後大和路 奈良に 以前訪れた 以外の場所を訪れました

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 信貴山真言宗 総本山 朝護孫子寺 信貴山城址
 達磨寺 松永久秀の墓
 法隆寺 正岡子規 鏡池 句碑
 大和郡山城址
 筒井城址
 多聞山城址
 平城京跡

JR関西線 王寺駅から近鉄生駒線 信貴山下駅 又は近鉄信貴線 
信貴山口駅より 生駒の南端 大阪と奈良の県境 信貴山頂上 
朝護孫子寺の空鉢護放 近くに信貴山城祉 

城主は 戦国三梟雄(残忍で強い人)一人 松永久秀 他の二人は 
① 織田信長義理の父 斎藤道三 ② 関ケ原で西軍で頑張るが 
敗戦後 八丈島に50年島流し島で83歳で死亡 宇喜多秀家の父 
宇喜多直家 三人に共通しているのは 主家殺しです

信長が徳川家康に松永久秀を紹介した話 松永が実施した 3悪 
1 主家 三好氏を滅ぼした事 2 室町 13代将軍 義輝の殺害
3 奈良 東大寺 大仏 焼き打ち 凄い話です 信長に 二度目に
許された時 条件として 名器 古天明平蜘蛛を渡せば 
許すと言われたが 器をたたき割り 火薬で 信長が 日本最初の
安土城の天守閣の参考とした 天守閣とも 火薬で爆死

松永秀久 戦国の申し子 室町時代 将軍 足利義政の後継者問題でもめ
家臣 細川勝元と山名宗全が対立 東西に分かれ 1467年 応仁の乱が勃発
約10年 京都で戦乱が続く  地方の守護大名も含め戦国時代に 下剋上で
早川早雲(北条氏)美濃 斎藤道三などが現れる

1530年頃 将軍に仕える官僚 細川高国が 高国 家臣 三好元長に
攻められ自害 三好長慶 相次いで 身内亡くなる 1564年には長慶も
亡くなる 1565年 家督を嫡男 久通と三好三人衆と室町幕府 将軍 
足利義輝を襲い殺害

久秀の大和支配 大和と河内と結ぶ生駒山系の要地 1559年頃 以前の
城址を大改修して 貴信山上に貴信山城を築城

三好と松永久秀の関係は悪化 松永久秀は 15代将軍 足利義昭を奉じて 
織田信長 岐阜城より 上洛 松永久秀は 信長に従う

1957年 信長 金ヶ崎の退き口 信長軍 朝倉義景 攻撃の為に 
金ヶ崎城から一乗谷に 金ヶ崎城で 信長の妹 お市の方 嫁ぎ先 浅井長政
の裏切りを知り信長は京都に脱出を 浅井長政の城は 琵琶湖の東 
やもえず 琵琶湖西を通り京都に 途中 朽木まで来たとき 城主 
朽木元綱が甲冑姿なので 怪しんだ松永久秀が交渉に行き 無事通過 
京都に戻れた 松永 此の頃 信長と良い関係でしたが

信貴山城と同じころ 東大寺 興福寺近くに 多門山城を築城

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信貴山 朝護孫子寺 境内 貴信山 頂上 433M 空鉢護法堂 付近に 
信貴山城が朝護孫子寺 境内

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信貴山城祉 頂上付近 1577年 10月10日 松永久秀 二度目の信長に
反旗 1577年 信長の石山本願寺攻め出陣中だった 松永久秀 突然離脱 
信貴山城にたてこもります 織田軍に 信長 嫡男 信忠 秀吉
細川藤考 明智光秀 筒井順慶が攻撃 最後は松永久秀 
古天明平蜘蛛と共に爆死松永久秀 各地で信長 包囲網が出来 
この時 謀反も大丈夫だと思ったか

何故か 秀吉と柴田勝家 福井 賤ケ岳」の戦いで敗れ 北ノ庄の城に
戻り 勝家と再婚したお市の方の自害と似ています

頂上まで往復 2時間で行けると思いましたが 3時間以上かかりました
戦国時代 山城が多いのですが 兵站など大変だったと思います

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王寺駅 南側 達磨寺 松永久秀の墓 説明では 信貴山城で自害後
筒井氏が 亡骸を此処に葬ったと書かれていました
生前は 筒井順慶と敵対関係だったが 信貴山城 攻撃には
筒井順慶も参戦していました

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近鉄橿原線 近鉄郡山駅近く 大和郡山城 筒井順慶 興福寺に属しながら 
宿敵 越智氏を滅ぼし 筒井城に 近鉄橿原線 近鉄郡山駅から橿原より 
一つ目に筒井城址が駅付近を捜しましたが見つかりませんでした

筒井城の戦い 筒井順慶と松永久秀との三度の筒井城の戦いで 
松永久秀が勝利 この時大仏も消滅しています 筒井順慶は 
筒井城の改修を諦め 近くの大和郡山城を改修 筒井順慶 
織田信長の援助で 1580年 大和守護になるこの時 信長に
話を通したのが明智光秀で 本能寺の変後 光秀は その後の 
秀吉との山崎の戦いで見方になってくれると期待したが 
山崎近くまで出てきたが 大阪と京都の境 洞ヶ峠で様子見 
洞ヶ峠を決め込むの語源となる 筒井は 1584年 死亡 
大和郡山城は秀吉の命令で筒井家は伊賀上野城に転封

次に大和郡山城 城主は豊臣秀長 大和 紀伊 和泉国 110万石
の城主として 大和郡山城 秀長は秀吉とは異父兄弟で若い頃より 
使え豊臣政権では大納言として政務 軍事的に重要な人材秀吉同様 
跡取りに恵まれず 秀吉より先に大和郡山城で死亡 51歳 彼が
永く生きていれば関ケ原も起こらず 秀吉の豊臣政権が続いてい
たかもしれません 

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世界遺産 法隆寺 JR関西線 法隆寺駅 正面 南大門 修学旅行生が
多くいます 地理的にも大和川を通じて奈良 大和と 大阪 河内を結ぶ 
交通の要所聖徳太子 法隆寺近くに 斑鳩宮を建設し 飛鳥より605年に
移り住む 法隆寺もその頃造営 日本最古の木造建築です 昔 夢殿など
見た記憶あり今回は時間的な制約で 見学は止めました

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正岡子規が明治28年 東京から松山に帰省途中 船中で吐血 神戸の
病院で三ヶ月入院 再び 東京に戻る途中10月に 奈良法隆寺に 有名な句 
柿食えば鐘が鳴る成り法隆寺 句碑は 読んだ場所境内 鏡池にあります
梵鐘は北側にありました
但し 法隆寺上空 伊丹空港に着陸コースになっています 結構うるさい
生駒山 大阪城 右側 豊中IC 森友学園 上空を通過 伊丹空港に 
現地で句を読むと 享年34歳 鶯谷駅近く子規庵で 苦しみながら
亡くなった正岡子規の無念さが感じられます

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近鉄奈良駅の北側 多門山城 南東に東大寺 南に興福寺が 
現在は若草中学が建っています 松永久秀が信貴山城 改修の頃 
1560年 築城開始 1561年には松永久秀 入城 1564年に完成 
三好長慶死後 三好三人衆と松永の関係 は悪化 又 筒井順慶と
三人衆は連立 奪われた筒井城を奪還 1567年多門山城
に対自 三人衆は 東大寺に布陣 東大寺大仏殿の戦いで 東大寺 
大仏 消滅 松永久秀 その後 三人衆 筒井連合軍は 信貴山城も
落城させる

大仏の焼き討ちは二度目です 1180年 源氏が勢いを盛り返し
東大寺 興福寺の寺院勢力と平清盛 息子 平重衡が奈良 南部で
起こった戦いで大仏が消滅しています

窮地の久秀 再び信貴山城を取り返す 信長に従属 筒井順慶も
明智光秀の仲介により従属 松永久秀は15代将軍 足利義昭の
信長包囲網に乗るが 武田信玄の死亡により 計画失敗 信長より
多門山城の明け渡しを命令される

奈良の要所に 二つの城を築城した 松永久秀は最後は自滅し
たが 戦国の申し子

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多門山城の横から 若草山 東大寺大仏殿が良く見えます

時間なく 今回も 唐招提寺 薬師寺行けませんでしたが 次回に
飛鳥にも再度訪れて見たい 知ってくると面白い奈良 


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2018.10.05

大阪城周辺を

大阪城の次 最近奈良に訪れるている機会が多く 今まで行って
いない場所を訪れ 次回に奈良を書きます

大阪城周辺

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 秀吉 大阪城築城前は 浄土信宗の寺院 石山本願寺がありました
 大阪城 秀吉が建設 秀吉死後 関ケ原後 大阪城冬の陣で和睦成立
   条件で外堀を埋め建て 徳川軍は 関係なく内堀も埋め立て裸城に
   夏の陣で敗れ 大阪城は炎上 徳川は城のあった場所を埋め立て
   新しく城を築城 秀吉の城の遺構は埋め立てられています
 大阪歴史博物館
 難波宮 大極殿跡 645年~655年 飛鳥京より
 越中井 細川屋敷 ガラシャ死亡場所

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大阪歴史博物館 立派な建物 上部より 大阪城公園 難波宮公園が
良く見えます 難波宮跡から出土した陶器等が展示されています

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大阪城の南側 難波宮大極殿跡 発掘により建物の柱の跡でしょうか
前期難波宮 645年 考徳天皇が 飛鳥京より遷都 655年には 考徳天皇
の死亡により 再び飛鳥京に戻りました

後期難波宮 726年 聖武天皇が再び 平城京の副都として 難波宮を造営
その後 紫香楽京に遷都 744年には桓武天皇により長岡京の遷都
建物は長岡京に移築

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日本 主な遷都

 藤原京 奈良県樫原市 694年~710年
 平城京 奈良県奈良市 710年~784年

  以前訪れた 藤原京 平城京

 難波京 大阪市 645年~655年 661年~667年
 長岡京 京都府長岡京市 向日市 784年~794年
 平安京 京都市 794年~1860年 途中 南北朝時代あり
 皇居 東京都千代田区 1860年~

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大阪歴史博物館 10階より 大阪城公園 大阪城が良く見えます
正面の入口 大手門 多門櫓 奈良で松永久秀が築城した 多門山城
そこで建設された 多門櫓 その後戦国時代 築城で多門櫓が創られる
事が多くなった 彦根城にもありました 現存天守

城郭は 徳川時代に築かれたもの 秀吉の城郭は地下にあります

大阪城 南側には 大阪城夏の陣で城が炎上 秀頼の正室 徳川二代将軍
秀忠の娘 千姫を徳川に返し 秀頼 淀殿が逃げ込んだ櫓その後自害した
場所に 碑が

そういえば 幕末 鳥羽伏見の戦いで 負け 最後の将軍 慶喜が逃げ込んだ
城も大阪城 その後 部下を置き去りにして 大阪湾にそこから江戸に
逃げ帰りました

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石山本願寺模型 大阪歴史博物館にて

豊臣秀吉 大阪城が完成するのは 1583年 それ以前 大阪城の場所に
浄土真宗本願寺(一向宗)11代門首 顕如と織田信長との戦いが此処で
10年近く戦う

紀州雑賀党 毛利 村上水軍が参加 講和の後 本願寺は紀州に
信長の 一向宗の攻撃 柴田勝家 前田利家による越前一向一揆の虐殺
三重 長島でも虐殺 信長 比叡山での虐殺も有名ですが

信長 安土城の次に 石山本願寺の跡地に城を築城を考えていたが 本能寺
の変にて 夢はかなわず 信長の部下 秀吉が築城

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越中井 細川屋敷の台所にあった井戸の場所 
大阪城の南 豊臣秀吉の恩顧の大名屋敷があり 細川越中守忠興 正室
細川ガラシヤ 明智光秀 三女 玉 信長死後 改宗 キリシタンに

秀吉は伏見城で1598年 死亡 伏見城には 徳川家康が入り 大阪城には 
秀頼 淀殿が 五大老の一人 上杉景勝が帰国後 家康に謀反の疑いかけられ
直江兼続が徳川批判の直江状を送られ 激高した家康 上杉征伐 会津若松に
東軍 反石田の武将が参戦 小山まで来た所 西軍 大阪城下 東軍側の屋敷
を襲い 人質に その様な中 細川屋敷で事件が 細川忠興は東軍側に 上杉
征伐に参戦 ガラシヤ キリスタンの為に 自殺出来ず 家臣が殺害
父親が 光秀なので複雑です

細川忠興の父 藤考 明智光秀 本能寺の変起こす時 最も頼ったのが 藤考
光秀と藤考 室町幕府 最後の将軍 15代将軍 義昭 二人が織田信長に紹介
信長も上洛出来た 光秀は藤考に協力求めると藤考は家督を忠興に譲り協力を
拒否 田舎に戻ってしまう 本能寺の変後 1582年 秀吉と光秀が山崎で戦いに
光秀が負け 山崎の南側 勝竜寺城 此処は 細川ガラシアと細川忠興が結婚
式を挙げた城 光秀は滋賀 坂本城に逃げ帰る途中 伏見近くの竹やぶで
武者狩りにあい 殺害される

1582年 山崎の戦い 

加藤清正などは 熊本に帰る時 正室を密かに連れて帰る 又 偶然 西軍に
参加した 薩摩 島津義弘など 敗戦後 敵中突破して 大阪城で人質になった
正室を助け出し 海路 鹿児島に帰っています

東軍はその後 小山裁定で西に引き返す 福島正則の城 愛知 清州城に
岐阜城を攻め 中山道 赤坂宿に 家康 遅れて到着 西軍 大垣城と対自
関ケ原に西軍 東軍の 天下分け目の 関ケ原の戦いに

1600年 関ケ原の戦い見に行く

越中井 近くに カトリック玉造教会 高山右近とガラシャの銅像が

以前 天王寺駅から大阪城まで歩いて 真田丸など見ましたが 教会は
あるのは知っていましたが 大阪は平らな場所とのイメージでしたが
上町台地結構アップダウン が厳しく 寄れませんでした
地下鉄 谷町線で駅 四つ もー歩けないな

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先月 27日 関西空港に 第一ターミナルに 21日全面オープン
電車も通常どうり 運行されていました 空港からはリムジンバスで
連絡橋 片面が通行止め 一般の乗用車通行禁止 空港よりパイロンで
中央 仕切られ 渋滞はありませんでした

台風21号で被害をうけた道路は本当に取り外されていました 
台風24号は無事でした 25号も大丈夫そうです

大阪城で文書長くなったので 奈良編は次回に

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