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2018.10.13

奈良 信貴山城 多門山城

大阪城に その後大和路 奈良に 以前訪れた 以外の場所を訪れました

20180929c

 信貴山真言宗 総本山 朝護孫子寺 信貴山城址
 達磨寺 松永久秀の墓
 法隆寺 正岡子規 鏡池 句碑
 大和郡山城址
 筒井城址
 多聞山城址
 平城京跡

JR関西線 王寺駅から近鉄生駒線 信貴山下駅 又は近鉄信貴線 
信貴山口駅より 生駒の南端 大阪と奈良の県境 信貴山頂上 
朝護孫子寺の空鉢護放 近くに信貴山城祉 

城主は 戦国三梟雄(残忍で強い人)一人 松永久秀 他の二人は 
① 織田信長義理の父 斎藤道三 ② 関ケ原で西軍で頑張るが 
敗戦後 八丈島に50年島流し島で83歳で死亡 宇喜多秀家の父 
宇喜多直家 三人に共通しているのは 主家殺しです

信長が徳川家康に松永久秀を紹介した話 松永が実施した 3悪 
1 主家 三好氏を滅ぼした事 2 室町 13代将軍 義輝の殺害
3 奈良 東大寺 大仏 焼き打ち 凄い話です 信長に 二度目に
許された時 条件として 名器 古天明平蜘蛛を渡せば 
許すと言われたが 器をたたき割り 火薬で 信長が 日本最初の
安土城の天守閣の参考とした 天守閣とも 火薬で爆死

松永秀久 戦国の申し子 室町時代 将軍 足利義政の後継者問題でもめ
家臣 細川勝元と山名宗全が対立 東西に分かれ 1467年 応仁の乱が勃発
約10年 京都で戦乱が続く  地方の守護大名も含め戦国時代に 下剋上で
早川早雲(北条氏)美濃 斎藤道三などが現れる

1530年頃 将軍に仕える官僚 細川高国が 高国 家臣 三好元長に
攻められ自害 三好長慶 相次いで 身内亡くなる 1564年には長慶も
亡くなる 1565年 家督を嫡男 久通と三好三人衆と室町幕府 将軍 
足利義輝を襲い殺害

久秀の大和支配 大和と河内と結ぶ生駒山系の要地 1559年頃 以前の
城址を大改修して 貴信山上に貴信山城を築城

三好と松永久秀の関係は悪化 松永久秀は 15代将軍 足利義昭を奉じて 
織田信長 岐阜城より 上洛 松永久秀は 信長に従う

1957年 信長 金ヶ崎の退き口 信長軍 朝倉義景 攻撃の為に 
金ヶ崎城から一乗谷に 金ヶ崎城で 信長の妹 お市の方 嫁ぎ先 浅井長政
の裏切りを知り信長は京都に脱出を 浅井長政の城は 琵琶湖の東 
やもえず 琵琶湖西を通り京都に 途中 朽木まで来たとき 城主 
朽木元綱が甲冑姿なので 怪しんだ松永久秀が交渉に行き 無事通過 
京都に戻れた 松永 此の頃 信長と良い関係でしたが

信貴山城と同じころ 東大寺 興福寺近くに 多門山城を築城

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信貴山 朝護孫子寺 境内 貴信山 頂上 433M 空鉢護法堂 付近に 
信貴山城が朝護孫子寺 境内

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信貴山城祉 頂上付近 1577年 10月10日 松永久秀 二度目の信長に
反旗 1577年 信長の石山本願寺攻め出陣中だった 松永久秀 突然離脱 
信貴山城にたてこもります 織田軍に 信長 嫡男 信忠 秀吉
細川藤考 明智光秀 筒井順慶が攻撃 最後は松永久秀 
古天明平蜘蛛と共に爆死松永久秀 各地で信長 包囲網が出来 
この時 謀反も大丈夫だと思ったか

何故か 秀吉と柴田勝家 福井 賤ケ岳」の戦いで敗れ 北ノ庄の城に
戻り 勝家と再婚したお市の方の自害と似ています

頂上まで往復 2時間で行けると思いましたが 3時間以上かかりました
戦国時代 山城が多いのですが 兵站など大変だったと思います

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王寺駅 南側 達磨寺 松永久秀の墓 説明では 信貴山城で自害後
筒井氏が 亡骸を此処に葬ったと書かれていました
生前は 筒井順慶と敵対関係だったが 信貴山城 攻撃には
筒井順慶も参戦していました

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近鉄橿原線 近鉄郡山駅近く 大和郡山城 筒井順慶 興福寺に属しながら 
宿敵 越智氏を滅ぼし 筒井城に 近鉄橿原線 近鉄郡山駅から橿原より 
一つ目に筒井城址が駅付近を捜しましたが見つかりませんでした

筒井城の戦い 筒井順慶と松永久秀との三度の筒井城の戦いで 
松永久秀が勝利 この時大仏も消滅しています 筒井順慶は 
筒井城の改修を諦め 近くの大和郡山城を改修 筒井順慶 
織田信長の援助で 1580年 大和守護になるこの時 信長に
話を通したのが明智光秀で 本能寺の変後 光秀は その後の 
秀吉との山崎の戦いで見方になってくれると期待したが 
山崎近くまで出てきたが 大阪と京都の境 洞ヶ峠で様子見 
洞ヶ峠を決め込むの語源となる 筒井は 1584年 死亡 
大和郡山城は秀吉の命令で筒井家は伊賀上野城に転封

次に大和郡山城 城主は豊臣秀長 大和 紀伊 和泉国 110万石
の城主として 大和郡山城 秀長は秀吉とは異父兄弟で若い頃より 
使え豊臣政権では大納言として政務 軍事的に重要な人材秀吉同様 
跡取りに恵まれず 秀吉より先に大和郡山城で死亡 51歳 彼が
永く生きていれば関ケ原も起こらず 秀吉の豊臣政権が続いてい
たかもしれません 

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世界遺産 法隆寺 JR関西線 法隆寺駅 正面 南大門 修学旅行生が
多くいます 地理的にも大和川を通じて奈良 大和と 大阪 河内を結ぶ 
交通の要所聖徳太子 法隆寺近くに 斑鳩宮を建設し 飛鳥より605年に
移り住む 法隆寺もその頃造営 日本最古の木造建築です 昔 夢殿など
見た記憶あり今回は時間的な制約で 見学は止めました

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正岡子規が明治28年 東京から松山に帰省途中 船中で吐血 神戸の
病院で三ヶ月入院 再び 東京に戻る途中10月に 奈良法隆寺に 有名な句 
柿食えば鐘が鳴る成り法隆寺 句碑は 読んだ場所境内 鏡池にあります
梵鐘は北側にありました
但し 法隆寺上空 伊丹空港に着陸コースになっています 結構うるさい
生駒山 大阪城 右側 豊中IC 森友学園 上空を通過 伊丹空港に 
現地で句を読むと 享年34歳 鶯谷駅近く子規庵で 苦しみながら
亡くなった正岡子規の無念さが感じられます

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近鉄奈良駅の北側 多門山城 南東に東大寺 南に興福寺が 
現在は若草中学が建っています 松永久秀が信貴山城 改修の頃 
1560年 築城開始 1561年には松永久秀 入城 1564年に完成 
三好長慶死後 三好三人衆と松永の関係 は悪化 又 筒井順慶と
三人衆は連立 奪われた筒井城を奪還 1567年多門山城
に対自 三人衆は 東大寺に布陣 東大寺大仏殿の戦いで 東大寺 
大仏 消滅 松永久秀 その後 三人衆 筒井連合軍は 信貴山城も
落城させる

大仏の焼き討ちは二度目です 1180年 源氏が勢いを盛り返し
東大寺 興福寺の寺院勢力と平清盛 息子 平重衡が奈良 南部で
起こった戦いで大仏が消滅しています

窮地の久秀 再び信貴山城を取り返す 信長に従属 筒井順慶も
明智光秀の仲介により従属 松永久秀は15代将軍 足利義昭の
信長包囲網に乗るが 武田信玄の死亡により 計画失敗 信長より
多門山城の明け渡しを命令される

奈良の要所に 二つの城を築城した 松永久秀は最後は自滅し
たが 戦国の申し子

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多門山城の横から 若草山 東大寺大仏殿が良く見えます

時間なく 今回も 唐招提寺 薬師寺行けませんでしたが 次回に
飛鳥にも再度訪れて見たい 知ってくると面白い奈良 


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