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2019.02.21

愛宕山 三田 ホルモン まさる

大老 井伊直弼が桜田門で殺害される 徳川藩政では考えられない
事件 時代は明治に代わる事件 実行犯が 桜田門外で実行する時
集合場所が江戸城近く 愛宕山に

三田に 薩摩屋敷近く 慶応仲通り ホルモン まさるに
品川駅近くに 食肉市場があり 期待大

品川~江戸城 地図

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 中央卸売市場食肉市場 品川駅港南口
 品川宿  慶應大学 三田校  慶応仲通り モルモンまさる
 浜離宮庭園 幕末京都 鳥羽伏見の戦いで 薩摩 長州軍に敗れた
  最後の将軍 徳川慶喜 会津藩主 松平容保 桑名藩主 松平定敬
兄弟 大阪城を脱出 大阪湾より開陽丸で 江戸に戻る 上陸した
場所 徳川慶喜 上野 寛永寺に入り 謹慎 松平容保 会津で官軍
と戊辰戦争 松平定敬は会津 経由 仙台 函館に 
 増上寺 徳川家菩提寺  増上寺 御成門  愛宕山
 虎ノ門ヒルズ 地下通過 環状2号線 マッカーサー道路
 旧 築地市場 場内 環状2号線通過の障害で取り壊し
 井伊直弼 井伊屋敷 国会前 現憲政記念館  警視庁前 桜田門
 江戸城

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地下鉄 都営三田線 御成門 日比谷通 御成門交差点 増上寺
徳川家の菩提寺 将軍が墓参りに来る時 使用する門

菩提寺は 南に増上寺 北に 上野寛永寺が それぞれ 6人の将軍の墓が
あります 増上寺も敷地は ホテル 公園等が出来 敷地も狭くなって
います 霊廟も戦争時に焼けてありません 墓のみ

増上寺 将軍墓 寛永寺 将軍 霊廟 墓は撮影禁止

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愛宕神社正前 石段 出世の石段 寛永11年 三代将軍 家光公が
増上寺 参拝後 江戸城に帰り道 誰か頂上の梅を騎馬で取って
参れとの命令 全員が辞退 ただ一人 四国丸亀藩 家臣 
曲垣平九郎が騎馬で頂上まで登り梅を捕って降りて来た
家光に日本一の馬術の名人と誉めたてられた その後 出世の石段と
呼ばれるようになった 確かに頂上から見ると急な階段です

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愛宕神社 桜田烈士愛宕山遺蹟碑

桜田門外の変 安政7年3月3日早朝 水戸藩 脱藩者 17名 薩摩藩士1名
が雪降る愛宕神社に集結 現場 桜田門に 解説 桜田門外ノ変
2010年封切り映画 桜田門外ノ変 吉村昭さん原作で見ました 襲撃指導者
の関鉄之助の視点で描いていました 現場では襲撃の合図のピストルは発射
しましたが その後現場離脱 京に向かい諸国潜伏 越後 湯沢温泉で捕ら
れ 吉田松陰と同じ 日本橋小伝馬町で斬首 享年39歳

2010年 吉村昭さん 原作 桜田門外ノ変 予告編
水戸に 桜田門 オープンセット 製作

水戸に行った時 常磐共有墓地で関鉄之助の墓を見ました 

Wikipediaによると3月3日 前日 3月2日 品川宿 相模屋で全員で惜別の
宴を 開いたそうですが 近くに 三田 薩摩屋敷が 場所的に良かったか

品川宿には 鳥羽 伏見の戦いで敗れた 新選組 近藤 土方 隊員
明治元年 1月10日 最後の将軍 徳川慶喜 会津藩主 松平容保 
桑名藩主 松平定敬に続き 大阪より富士山艦・順動丸に乗船して
品川に上陸 品川宿 幕府御用宿 釜屋に逗留 その後 幕府より
武器 資金援助で 甲陽鎮撫隊 甲府城攻撃に 見事に敗戦
近藤は 流山で投降 板橋で斬首 土方は 会津経由で仙台 函館に
死亡

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愛宕神社前より北側 虎ノ門ヒルズ 昔は江戸城まで見えたと思います

虎ノ門ヒルズ地下には 68年前に計画したマッカーサー道路建設中
環状第2号線 2020年 東京オリンピック 選手村と各競技場を結ぶ
築地市場が豊洲に移転が伸び 現在も工事中

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品川駅 港南口に中央卸売市場食肉市場があり ホルモン」に期待が高まり
ます 神奈川も厚木に食肉市場があり 一時 B-1グランプリでシロコロ
ホルモンが有名になりました

場所は 慶応仲通り商店街 ホルモン まさる 亀戸 ホルモン青木の
系列店です 珍しく 昼より営業開始
JR 田町駅近く 慶応大学が近く 美味しそうな店が沢山ああります
満席近く 客はほとんどの客 ランチ 昼飲み 私だけでした

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切り落としカルビ

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シマチョウ

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白レバー

この様に新鮮なレバー初めてです


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2019.02.05

古墳時代 飛鳥時代 奈良

8鎌倉時代から幕末までの歴史 ある程度読んだのですが 縄文 弥生時代
は別として 古墳 飛鳥 奈良 平安時代 歴史ほとんど知りません
5年位前 太平記で 吉野に後醍醐天皇陵 南朝を見に来ました
横浜に帰る時 飛鳥を通過 古墳は多数あるのですが 事情しらず
今回 浅い知識で 飛鳥に 古事記 日本書紀が出来たのは 7世紀初期
それ以前の歴史 不明な事が多く 考古学は面白い 今回 再び奈良に
奈良は気に入り 1年間で3度訪れました 

古墳時代 飛鳥時代 日本史

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 法隆寺 601年 厩戸王 聖徳太子 飛鳥より斑鳩宮に移り 601年 
  法隆寺 建立
初代天皇 神武天皇陵 橿原神宮の北 畝傍山の麓 生まれたのが
  紀元前711年 127歳で死亡 天皇陵は神武天皇が畝傍山(大和三山
  付近に住んでいた 近年 この地に天皇陵を造営 宮崎に生まれ 
大和に都に するために 東征 大和を治める豪族に阻止され
熊野経由で大和に その時  先導したのが 八咫烏 古事記 
日本書紀に書かれているそうです  
飛鳥 甘樫丘 蘇我氏の稲目 入鹿邸宅跡 蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿 
  645年 乙巳の変 勢力拡大した 蘇我入鹿を中大兄皇子と藤原鎌足が
飛鳥京で殺害 入鹿の親 稲目 甘樫岡で自害 
 飛鳥寺 百済から 538年 仏教が伝わる  蘇我氏の氏寺として
  伽藍が完成 587年 蘇我氏と仏教に反対する物部氏 豪族の争い
  があり 蘇我氏の勝利
 蘇我入鹿 乙巳の変で殺害された 入鹿の首塚
 飛鳥宮殿跡 伝飛鳥板蓋宮跡 乙巳の変 現場
 天武 持統 天皇陵
 高松塚古墳  石舞台古墳  キトラ古墳
 耳成山 (大和三山)  天香久山 (大和三山
 三輪山  箸墓古墳  巻向遺跡
 JR 関西線 法隆寺駅 関西線 大阪 天王寺 奈良駅を走っています
  法隆寺付近に聖徳太子 飛鳥より移り 斑鳩宮を造営 関西線沿いに
大和川が流れ 聖徳太子 天王寺近くに 四天王寺を建立 天皇陵 
古墳時代には 奈良以外に 大阪 堺 百舌鳥古墳群 仁徳天皇陵 
古市古墳群 藤井寺 羽曳野に 天皇陵を 造営 645年頃には 大阪城の
南に 難波宮を遷都 663年には白村江には 朝鮮 百済を助ける為に 
唐 新羅に対抗する為に日本より派兵 大敗 朝鮮に 難波津 
上町台地から大阪湾は海 瀬戸内海を経由 福岡 大宰府から 朝鮮に派兵
大敗 平安時代に8世紀頃此処から遣唐使船で 空海 最澄は中国に渡っています 
日本は 石器時代から 青銅時代は無く いきなり弥生時代 鉄器時代に 
日本には鉄 の資源は無く 三世紀頃 朝鮮南部の伽耶で鉄を入手
四世紀頃 倭国 百済 伽耶が高句麗 新羅と戦争になり 騎馬軍団に敗れる 

中国には 古墳時代 5世紀頃 倭国の五人の王 讃 珍 済 興 武が宗に
親書 贈り物を送っている どの天皇か不明 交流は古くからありました

ヤマト政権の影響は関東にも及び 埼玉 行田 さきたま古墳群の稲荷山古墳
  より出土した 鉄剣 剣の両面に115文字書かれており 国宝 
  金錯銘鉄剣 本物は左側のケースに文字は読めません
  復元され 文字は剣の両面に書かれており ワカタケル大王
 (雄略天皇)に仕え 天下を治めるのを補佐したと書かれて
  おり 辛亥の年 471年7月に功績を刻む

ヤマト政権が埼玉にも及んでいました 偶々 考古学に興味ありませんでした
秀吉による 小田原征伐 秀吉軍の作戦では 小田原城の支城を攻める
秀吉家臣 石田三成 以前 岡山で実施した高松城水攻めをまねて 忍城
を実施 見事に失敗 三成 本陣 古墳の頂上 又 本能寺の変後 明智光秀
と秀吉 山崎の合戦 光秀 本陣又も古墳の頂上 罰当たりです

飛鳥 地図


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596年 蘇我馬子により建立した 飛鳥寺 伽藍配置の日本最初の寺院 
仏教は583年に百済から伝来しています

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飛鳥寺 本尊飛鳥大仏 二度の落雷火災にあったが 修復 顔は東大寺の大仏
の顔とは違い インド風です

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飛鳥寺の前 蘇我入鹿の首塚 後方は蘇我蝦夷 入鹿が住んでいた 甘樫丘

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飛鳥京 645年 宮中にて 中大兄皇子(天智天皇) 中臣鎌足(藤原鎌足)
のクーデター 乙巳の変 蘇我入鹿を暗殺 この年 
36代考徳天皇 飛鳥より 前難波京に遷都
 中大兄皇子の兄 天智天皇 
663年 朝鮮 百済を助ける為に 日本より42000人 派兵 唐 新羅連合軍
に大敗北 38代 天智天皇は 飛鳥京より滋賀 大津京に遷都 中大兄皇子
は即位を辞退

天智天皇死後 天智天皇の大友皇子 39代弘文天皇が即位 中大兄皇子は
出家の為に吉野に 671年 天智天皇 死後 古代最大の乱 壬申の乱が起
きる 吉野より伊勢経由で美濃 関ケ原 大津に 瀬田橋で戦いで 大友皇子
軍大敗 大友皇子は自殺 672年 壬申の乱 勝利した乙巳の変 673年再び
飛鳥宮で即位 此のころより 古事記 日本書紀の基になる歴史書の作成始
まる又発掘した木簡で初めて天皇の称号が 天智天皇死後 妻 41代持統天皇
が即位都を持統天皇 樫原神宮近く694年 694年~710年 41代 持統天皇
42代 文武天皇43代 元明天皇 三代の都藤原京に遷都 
都は中国 西安(長安)に習った 本格的な都で巨大な大極殿が築かれるが  
モデル「となった 西安(長安)ほとんど遺跡は残っていなく
巨大な城壁のみ 北京には都の後 
故宮 紫禁城があり 大極殿 故宮では大和殿があり玉座は立派 映画 
ラストエンペラーは故宮で撮影されました
北京でも 日本との戦争で勝利 人民解放軍が付近の城壁を破壊しました 

42代 天武天皇 皇后 後の 43代 持統天皇 皇后の時 病気回復を発願
680年に薬師寺 建立 この様な寺であれば 行けば良かったな

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14年前 故宮 大和殿 北京 空は綺麗でした

奈良は 宮となった場所 飛鳥宮 藤原京 平城京は当時のまま敷地が残って
います

平安京 京都 御所

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国営飛鳥歴史公園内 石舞台古墳 蘇我馬子の墓と言われている
昔来たときは垣根も無く 自由に見る事ができたが 今は有料です

30代 敏達天皇で大臣になり 31代 用明天皇 32代 崇峻天皇 
33代 推古天皇に仕える 
同じ有力豪族 物部守屋と仲が悪く 守屋は廃仏派 馬子は崇仏派 587年 
河内国で戦いになり 物部守屋が敗れ死亡 591年 泊瀬部皇子を即位させ 
崇峻天皇に翌年 馬子は天皇に嫌われる事を知り 殺害 蘇我氏と血の
つながっている 厩戸皇子 聖徳太子は優秀なので重きを持たれる 
崇峻天皇の後に 馬子は初の女性天皇推古天皇に即位させる 聖徳太子を
摂政となる 此の頃 朝鮮 新羅と争いに遣隋使を派遣 603年 冠位12階制度
604年には 17条憲法制定 馬子は聖徳太子と強調して 改革を実施 622年
聖徳太子死亡 626年 蘇我馬子死亡 628年 推古天皇崩御 馬子の墓 
石舞台 日本書紀に桃原墓に葬った記述から 有力視されている
馬子後継は 蝦夷ー入鹿で 入鹿は乙巳の変で殺害される

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40代 天武天皇 41代 持統天皇 珍しい 夫婦で同じ墓 天皇の業績は上部
に書きました

鎌倉時代 盗掘で墓の内部の状態の文書があり 夫婦共に 遺体は火葬
棺と壺があり 壺は持統天皇の骨が入っているみたい 現在では天皇陵の
発掘は考えられません 見ると 前方後円墳ではありません 
古墳時代ではありません

201901278

高松塚古墳 二度目の訪問 吉野から横浜に帰る途中に訪れました
奈良の宇陀市の民宿に泊まり 明日香に 9時前に到着 古墳横の絵画館は
オープンしておらず 見る事が出来ませんでした

昭和37年に村人がショーガを保存用の穴を掘った時 石棺を発見
まるで 西安の兵馬俑発見の時ににている 発見は同じく農民でした
飛鳥歴史公園の駐車場に入れた時 テントを建ても催しものの風景 多分
入場者が少ないので 本物の壁画の修復を時間制限があるが見せて
くれました
壁画は 発見時から劣化が進み 空調施設をし現地で保存 但しカビ 
水侵入により 絵画が消えかかっているので 11年前 現場から石棺取り外し
駐車場近くに建物を建て 保存作業中 来年ぐらいに完成予定 
絵画館は複製品が展示

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修復作業場建物 ガラス越しに10枚位に分解され 当日は作業はありません
でした
女子群像は修復作業も良く 飛鳥美人 服装もみれます 男子群像 4神
白虎は詳しく見れませんでした 修復作業中腰での作業 忍耐力は必要で
女性の方が中心だそうです

7世紀~8世紀頃の墓で 説では天武天皇の皇子 臣下 朝鮮半島王族説
で不明です

天文図のキトラ古墳の近くに 前訪れた時は シートがかぶされ工事中でした
現在は 工事も終わり公開中 時間が無く行けませんでした

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飛鳥美人群像図 鮮やかな色彩の服

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場所を変えて 桜井方面 三輪山の麓 JR桜井線 纏向駅前
纏向遺跡 正面が 三輪山 未だに 卑弥呼が住んでいた 邪馬台国が
何処かで 九州説と畿内説に分かれ論争が行われていますが 魏志倭人伝
では2000文字の記載あるのみ

畿内説で有望な場所が 纏向遺跡 邪馬台国がヤマト政権になった
王の宮殿跡の発見 3000個以上の桃の種が見つかり 年代測定すると3世紀
頃 卑弥呼の生きていた時代と一致 近くには古墳群があり 土器も発掘
決定的な証拠がありません

中国 司馬遷 史記 紀元前の出来事が記載され この歴史書が無ければ
秦の始皇帝も解らなかった 古事記 日本書紀は7世紀頃に出版
外国 中国 韓国の出版資料に頼るしかありません

2019012711

纏向遺跡近く 古墳群の一つ  箸墓古墳 卑弥呼の墓ではないかと
言われています 邪馬台国の場所も不明なので 良くわかりません



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