« 坂上田村麻呂 前9年の役 | トップページ | 横浜でジンギスカン »

2019.09.20

後三年の役 平泉 藤原4代


前回 書いた様に 前9年の役 源頼義 奥州に陸奥守として1051年に赴任
から 盛岡 厨川柵で安倍貞任が死亡により 安倍氏滅亡 1062年 12年経過
ですが 乱の名称は前9年の役 平泉藤原氏 初代藤原清衡 父は安倍氏に
協力した事により 死罪 清衡は清原氏に 安倍氏 領土 奥州 清原氏の
領土は出羽を領土とする清原氏に 前9年の役で途中から 朝廷軍 源頼義
に協力した清原氏の功績大の為

前9年の役 後3年の役 合戦図

1


金沢柵


沼柵


平泉 中尊寺 金色堂
毛越寺
高館義経堂
無量光院跡
柳之御所跡


長者原廃寺跡


豊田館跡

1028~1033年頃 藤原清衡の父 経清により築城 場所は奥州市 新幹線
水沢江別駅付近 清衡が平泉に移るまでの館

経清は前九年の役で安倍氏についたので 残忍な方法で殺害される
前九年の役後 安倍氏の領土 奥六郡の分配に不満をもった 義母兄弟の
家衡により 清衡 母子は此処で殺害されています


前九年の役後 清原氏 藤原氏関係図 関係が複雑です


Photo_20190920153101

前9年の役 後3年の役 平泉藤原4代 年表 要約

1051年 奥六郷主 安倍頼時  鬼切部で国司軍を破る
     源頼義 陸奥守となる 前九年の役始まる
1053年 源頼義が鎮守府将軍となり 将軍復活
1056年 源頼義が安倍貞任を攻め 父 頼時が挙兵
1062年 出羽 清原武貞が源頼義に味方する 安倍貞任
      黄海の戦いで敗れ 前九年の役終わる
1083年 清原 家衡・清衡が真衡を攻め 後三年の役始まる
       源頼義 真衡を支援
1086年 清原家衡が豊田館で襲い清衡 妻子を殺害
1087年 源頼義と清衡は出羽 金沢柵で家衡 武衛と衝突
      家衡 武衛は負け 後三年の役は終わる
1089年 清衡 豊田館に住む
1094年 清衡 衣川を挟んだ 平泉に住む
1175年 秀衡の時 源義経 平泉に来る
1180年 兄 頼朝を助ける為に 義経 佐藤兄弟と平泉去る
1187年 義経 平泉に亡命 秀衡没す
1189年 頼朝により 平泉襲撃 義経死亡 四代泰衡死亡
      藤原氏滅亡


後三年の役の頃、清原史の当主は武貞(たけさだ)という人です
  彼は安倍氏に属していた藤原経清の未亡人を妻にしており
この未亡人が経清の息子を引き連れてきます

武貞はこの義理の息子を正式に養子として認め、清原清衡(きよひら)
新しい名前を与えます

そして数年後、清衡にとっては異父弟にあたる家衡が生まれました
つまり清原氏の中に「安倍氏の血を引く清衡」と
清原氏の嫡流である家衡という複雑な兄弟関係ができたのです

武貞が亡くなると、長男の真衡(さねひら)が清原氏の当主と
なりました
彼は男の子に恵まれず、平氏の血を引く家から養子をもらいます
真衡はどうしても皇室の流れをくむ人々と縁を強めたかった
平氏の流れをくむ成衡を、源氏の血を引女性と結婚させ
清原氏の次世代を平氏・源氏の血筋にしようと考えました

結婚式となればあっちこっちから親戚がやってきます
真衡の叔父に当たる吉彦秀武がやってきていました
せっかくお祝いしに来てくれた秀武を無視し続けます
当然秀武はブチ切れました。秀武にも配下がいますし
清原氏の本家の人々も見ているわけですから、これでは
真衡は秀武を冷遇している 同然になるからです

家衡と清衡は 秀武に協力

前九年の役でもこの地にやってきていた、源義家
が新しく陸奥守になり、東北に
真衡は義家のおもてなしのため、国府 多賀城を訪れ
出羽を留守にします

好機と見た家衡・清衡は真衡の本拠を攻めました
ものの見事に負けてしまいました
多賀城から出羽へ戻る途中で、真衡が死亡
財産分与等が決まっていないうちに被相続人が亡り
国守である義家が間に入って、真衡個人の所領を
半分ずつ清衡と家衡に与えることにしたのです

不服としたのが家衡。いきなり攻撃を仕掛けて
清衡の妻子を殺害 清衡は何とか逃げ延び
義家に助けを求めました


2019091619

豊田館で家衡 一家皆殺しの後 逃げ込んだのは 沼柵

横手市郊外  沼柵の跡 前9年の役後 清原氏 異母兄弟は対立
家衡の立て籠もる沼柵に陸奥守 源義家の助けで清衡が攻めるが
雪と寒さ 食料も不足し 官軍は奥州に引き上げる 伯父 武衡の助言で
家衡は要害堅固の地 金沢柵に移る

悲劇 金沢柵で階段より カメラ落とし画像が変 手振れ補正機能が
壊れた 藤沢で同じカメラ購入のはめに


2019091615

金沢公園 本丸跡 金沢柵の表示 ありませんでした

 金沢柵 横手市郊外 後三年の役金沢資料館後方の山が金沢柵
現在 金沢公園 近くに 奥羽本線 後三年駅があります

家衡は沼柵から金沢柵に場所を移し立て籠もる 義家 清衡軍は攻め
あぐね 兵糧攻めに義家の弟 佐竹氏も祖 新羅三郎義光も駆け付ける
この後 家衡らは 全員殺害される
清衡は元の姓 藤原に復し 奥州藤原氏の祖となる




平泉 マップ

201909162

 中尊寺 金色堂
平泉 中尊寺 金色堂  此処に来たのは 二度目です 25年前 名古屋在住
の頃 家族で 名古屋~仙台に飛行機で 厳冬期でレンタカーで平泉 
盛岡 田沢湖 角館 秋田に行きました
その頃はまだ世界遺産にはなっていませんでした 金色堂までの道 全然
変わっていません 金と螺鈿細工は 見事 祭壇の下には 3個の引き出し
奥州藤原4代 清衡 基衡 秀衡 泰衡 子供の頃 NHKのニュース映像で
引き出しの調査の画像が 3体のミイラ化した遺体 泰衡は首のみ?
説明時 4体の遺体が入っていると説明が 源頼朝による奥州平泉 襲撃
良く金色堂が残った 国宝 第1号です


201909163

此処も前回行きました 高館義経堂 義経二度目に平泉に来た時 住んで
いた場所です 鎌倉幕府 奥州藤原氏に対する要求 いままでは 平泉から
京都朝廷の貢ぎ物は直接でしたが 貢ぎ物 鎌倉経由に要求
源平合戦の後 頼朝は義経に不信感を感じる
無断で朝廷から任官を直接 義経が受けた事に 頼朝不信感を
  鎌倉に行き 経過説明を鎌倉手前 江ノ島近くの寺に足止め 経過
わび状の腰越状受け取り拒否
頼朝より義経に客を送られる 危険を感じ 奈良 吉野山に避難
平泉に戻る事を決意日本海 経由で平泉に
三代秀衡は義経を好意的に迎える

頼朝の命令 義経を殺し首を鎌倉に要求 三代秀衡は遺言で
義経をリーダーとし 平泉を守れ 1189年 四代泰衡は頼朝の脅迫
泰衡は義経を襲撃 それに泰衡耐え切れず 高館義経堂で義経は自刃
首は鎌倉に送られ 首実検の後 捨てられ 境川に流され 藤沢市
白幡神社近く 首が見つかった 伝義経首洗い井戸があります

その後 同年に鎌倉軍は三軍に分け平泉に 頼朝は 白河の関から平泉に
28万人 畠山重忠を先陣に畠山重忠は後に殺害される 鎌倉幕府出来た
後家臣の死 多数 比企能員 梶原景時 和田義盛など 頼朝の妻 政子
の父 北条時政を基に 最後は 源頼朝 子供は切腹 暗殺で世継ぎが
なくなり 北条家が執権 鎌倉幕府は 北条家に

   迎え撃つ 平泉は泰衡の異母兄 国衡が福島 阿津賀志山に城壁
を築き 迎え撃つが突破し 平泉に泰衡は北に逃亡 秋田 比内群で郎徒
に殺害される 首は 前9年の役 安倍貞任と同様に 故事に従い 陣ヶ岡
に首は晒される阿津賀志山に城壁
を築き 迎え撃つが突破し 平泉に泰衡は北に逃亡 秋田 比内群で郎徒
に殺害される 首は 前9年の役 安倍貞任と同様に 故事に従い 陣ヶ岡
に首は晒される
  
高館義経堂からの 北上川の風景 芭蕉 奥の細道で読んだ句

夏草やつわものどもの夢の跡 良い


201909166

毛越寺 藤原二代 基衡 三代 秀衡により 再興
庭園は浄土を再現した造園 今回時間なき為 入りませんでいた
世界遺産登録の思想 浄土思想を基調とする文化的景観にあっている
のでしょうか 鎌倉には義経 藤原泰衡 供養の為 平泉 
無量光院を模した 伽藍 庭園が再現 鎌倉宮 近くかな?
永福寺跡 行った時は 更地でした


201909165

柳之御所跡 奥州藤原氏の政庁跡では 近くには伽羅御所 三代目
秀衡の住居跡もあります


201909164

無量光院跡 現在 土塁と礎石のみしか残っていません
三代 秀衡が京 宇治 平等院を模して根立
  

201909168

 長者原廃寺跡


平泉近く 三条吉次季春 通称 金売吉次の屋敷跡 小説に出てきます
奥州は金の産出地又馬の産地 定期的に京都 朝廷に貢物で吉次が京に
度々行きます 1160年 平治の乱で 義経の親 源義朝が平清盛に敗れ
義経は京都 鞍馬寺に預けられます 16歳の時に金売吉次に鞍馬寺を
抜け出し 平泉に向かいます 平家 源氏の富士川の戦いで 平泉を出て
黄瀬川近く兄 頼朝と対面 その後 義経の源平合戦に勝利

1年前から計画していました

今回 宮城 福島 岩手 秋田 4県 三泊で行きました
お遍路で13泊以来 もーこの様に長距離無理 事故起こしそうでした

後 岩手 遠野 ジンギスカン行きたかったのですが 時間的に行きません
でした 残念

|

« 坂上田村麻呂 前9年の役 | トップページ | 横浜でジンギスカン »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 坂上田村麻呂 前9年の役 | トップページ | 横浜でジンギスカン »