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2019.11.05

大阪 古市古墳群 丁未の乱 大阪城の戦い


墓参りの序でに 今年7月 大阪で初めて 世界遺産に認定された百舌鳥
古市 古墳群に 百舌鳥 仁徳天皇陵は以前 訪れました

今回は古市古墳群に 生駒山 西側 応神天皇陵古墳に 仁徳天皇天皇陵
に次いで 日本二番目の大きさ

生駒山地西麓 古墳群は3000基もあるそうです 3世紀~5世紀半ばまで
古墳時代 7世紀に日本書紀 古事記が出来るまで 記録がなくの状況
は不明です 当時の中国の歴史書しか知る事が出来ません

次に 仏教に対して覇権を争った 蘇我馬子 厩戸皇子 聖徳太子と
物部守屋の内乱 丁末の乱 587年に争い JR八尾駅近く 大聖勝軍寺
その後 聖徳太子 摂政となり 改革を行う 舞台は奈良 飛鳥に

秀吉死後 日本を東西に分け 1600年 徳川家康と石田三成が関ケ原で
戦い家康の東軍が勝利 その後 1614年 大阪城冬の陣 和議

和議の条件として 大阪城の外堀の埋め立て 徳川軍は内堀まで埋め立て
大阪城は 裸城に 1615年 夏の陣 大阪城の 浪人の集団 戦法を
籠城ではなく城外に打って出る 古市古墳群近く 道明寺と八尾 若江で
激突 その後 岡山口 天王寺で激突 終戦 大阪城は炎上 秀頼 淀殿は
蔵で自害


Map1
 大阪城  真田丸  茶臼山  安居神社(幸村最後の場所)
 道明寺の戦い  八尾 君江の戦い

 百舌鳥古墳群  古市古墳群  生駒山地

 四天王寺  大聖勝軍寺  法隆寺 画像では
消えました右端中 法隆寺と書いた場所です 奈良県

Map2

古市古墳群 道明寺付近

古市古墳群の南に 羽曳野市に清和天皇の血筋 清和源氏 河内国に拠点
河内源氏があります 始祖 源頼信ー頼義ー義家ー義親ー為朝ー義朝ー頼朝
鎌倉幕府を創った 頼朝 前に訪れた 前9年の役 後3年の役で活躍した
頼義 義家 八幡太郎 源氏三代の墓 羽曳野市:通法寺跡 源頼信
頼義 義家 三代の墓があります

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15代 応神天皇陵 堺の百舌鳥古墳群 仁徳天皇陵に次ぐ大きさです
16代 仁徳天皇の父親の古墳 但し 宮内庁管理の為に不明
仁徳天皇陵の様に 堀がわかりません 前方後円墳の形は不明
近くに 八尾空港があるので 飛行機から見るしかありません
天王寺駅前 あべのハルカス下 大阪阿部野橋駅 近鉄で道明寺駅まで
20分位

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JR八尾駅から南に大聖勝軍寺 物部氏支配の中心地 仏教の崇仏派
蘇我氏と廃仏派 物部氏が対立 蘇我馬子 聖徳太子 泊瀬部皇子
竹田皇子を引き連れ 物部氏の拠点 河内国渋川群を攻める
蘇我氏が勝利 聖徳太子 従軍中 兵士に戦勝を祈願して、勝利
すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った その後 四天王寺根立
蘇我馬子は豪族が乱立 意見集約に時間がかかる 奈良 飛鳥の地に
都を作り 権力を集中させる 又 日本初の寺院 飛鳥寺 建立する
33代推古天皇の基に太子は摂政となり 朝廷の戒律 冠位十二階及び
17条憲法を制定 600年遣隋使の派遣 斑鳩宮を造営 法隆寺を創る

最近では 学者が聖徳太子 実存しなかったのではないか 本当かな


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大聖勝軍寺近く 物部守屋の墓

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聖徳太子 物部氏と蘇我氏の戦い 丁未の乱 で約束した 四天王寺
天王寺駅近くに

Hujinzu
関ケ原の戦い 東西 布陣図

1598年 豊臣秀吉死没 1600年に東軍と西軍 関ケ原で激突
東軍勝利 西軍 石田三成 小西行長 安国寺恵瓊は拘束され処刑 
宇喜多秀家は八丈島に遠島 島津義弘は敵中突破して薩摩に
長曾我部盛親は徳川家康後方 南宮山に布陣 家康に内通していた
吉川広家に前方を遮断され 戦いにも参加できず 終戦

豊臣家 家康の要望で各地の社寺造営を 東山 方広寺の鐘の銘文
国家安康 が家康を分断しているのはゆるせないと 1614年11月3日
大阪冬の陣 開戦される
大阪城に入城したのは 関ケ原の戦いで 敗戦した西軍の浪人集
明石全登 宇喜多秀家 家臣 後藤基次(又兵衛)黒田長政に仕えるが
長政と意見の相違で 黒田家を出 浪人に 真田信繁(幸村) 徳川家と
戦い 二度まで上田城で勝利 父 昌幸は 家康と組むのは良しとせず
関ケ原の前 昌幸 信之 信繁 親子 栃木県佐野で会談 昌幸と信繁は
徳川側にはつかない 長男 信之は奥さんの関係上 徳川方に
関ケ原後  昌幸 信繁は 高野山麓 九度山に 昌幸は途中死亡
信繁は抜け出し 大阪城に入る
長曾我部盛親 長曾我部元親の四男 土佐 長曾我部の最後の当主
関ケ原後 浪人になり 大阪城に入城 八尾 君江合戦後 捕らえられ
処刑 木村重成 両親共に 豊臣家 家臣 若江の戦いで死亡
関ケ原の戦いで西軍 毛利軍に布陣した 毛利勝永 小早川秀秋の裏切り
により 戦死した 大谷吉継の子 大谷吉治 等 浪人が大阪城に入城

冬の陣 京都 二条城より奈良経由で 家康 天王寺近く茶臼山に本陣を
城近く 野田 福島で戦闘開始 イギリス オランダより購入した 大砲
本丸等に打ち込まれ 淀殿が驚き 和平攻略実施 この時 真田信繁 大阪城
南側に出丸 真田丸を構築 徳川軍を悩まさせる
冬の陣は豊臣側は善戦しましたが 本丸の大砲での攻撃で和議に
和議の条件 外堀 埋め立て< 本丸を残して取り壊し 淀殿を人質に
しない代わりに 大野治長 織田有楽斎より人質 提出

和議条件は守られず 内堀まで埋め立てられ 大阪城は 裸城となる
駿府に戻った 家康 1615年4月 家康9男 義直 名古屋城主
結婚式の為に名古屋に その後京都 二条城に 嫡男 秀忠 江戸
を出発 家康 秀忠 二条城で合流 京都から奈良を経由して 大阪城に

1615年 5月6日 裸城になった豊臣方 場外に撃って出る作戦に


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近鉄 道明寺駅 道明寺合戦の碑

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                        wikipediaより参照


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早く城を出発した後藤基次隊 2800人 霧が深く 他の隊と連絡取れず
早川を渡り 小松山に布陣 幕府軍 伊達政宗 松平忠明ら2万以上に
攻撃を受け 豊臣軍 壊滅 後藤基次 討死
道明寺駅より 小松山方面


20191101b

                          wikipediaより参照

後藤隊より遅れ 真田信繁 毛利勝永 12000人は 古市古墳群に布陣
豊臣方は八尾 若江の敗戦を受け交代 真田信繁は前回 家康の本陣だった
天王寺 茶臼山に陣を移す


Photo_20191105162101

八尾 若江の戦い 八尾は近鉄 八尾駅付近 八尾は長曾我部軍は藤堂軍と
対戦 途中 木村重成の敗戦を知り 大阪城に戻る
八尾駅の北 若江 木村軍は藤堂軍と対戦 藤堂軍を退却させる
伊井軍が襲い掛かり 木村村重が戦死 豊臣軍 大阪城に後退

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八尾の戦いで激戦となった場所 常光寺 藤堂高虎が戦後 豊臣方」の
首実検した 縁 血天井もある 藤堂家家臣の供養塔もある

河内音頭発祥の地と書いていました 広場があり盆踊りが出来る


Photo_20191105170801

大阪城 夏の陣 最後の戦い 布陣図 wikipediaより参照

前日 道明寺の戦いで 離脱した毛利勝永 真田信繁 大野治房 明石全登
は 天王寺 茶臼山に布陣 徳川軍は 岡田口 北側に布陣 真田信繁
茶臼山 北側 安居神社で死亡 豊臣軍は大阪城に後退
前日 秀頼 正室 徳川秀忠の娘 千姫 解放 秀頼 淀殿は蔵に籠り
爆破 大阪城も燃え落ちる 豊臣家は滅亡

大阪城 周辺


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今回 何度か訪れた天王寺駅前 あべのハルカス60階 300m初めて
登りました 北側 大阪城方面 良く見えます

① 茶臼山 ② 安居神社 ③ 四天王寺 ④ 大阪城 ⑤ 通天閣

あべのハルカス出来るまで 横浜ランドマークが日本一の高さでした
296m 70階 過去に 出張で台湾 台北 台北101に登りました
509m 101階 登ったのが夜だったので 高さ加減は不明です

難波のホテルに泊まり 早く眠ったので 朝4時前に起きました テレビ
を見ていると 現在 首里城が延焼中 画像を見ると驚きました
沖縄駐在時 首里城はありませんでした 明治の琉球処分と 大戦
では 日本軍の司令部でした 複雑

10年前 夫婦で 首里城見ました この建物がなくなったのは残念です


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