2019.11.05

大阪 古市古墳群 丁未の乱 大阪城の戦い


墓参りの序でに 今年7月 大阪で初めて 世界遺産に認定された百舌鳥
古市 古墳群に 百舌鳥 仁徳天皇陵は以前 訪れました

今回は古市古墳群に 生駒山 西側 応神天皇陵古墳に 仁徳天皇天皇陵
に次いで 日本二番目の大きさ

生駒山地西麓 古墳群は3000基もあるそうです 3世紀~5世紀半ばまで
古墳時代 7世紀に日本書紀 古事記が出来るまで 記録がなくの状況
は不明です 当時の中国の歴史書しか知る事が出来ません

次に 仏教に対して覇権を争った 蘇我馬子 厩戸皇子 聖徳太子と
物部守屋の内乱 丁末の乱 587年に争い JR八尾駅近く 大聖勝軍寺
その後 聖徳太子 摂政となり 改革を行う 舞台は奈良 飛鳥に

秀吉死後 日本を東西に分け 1600年 徳川家康と石田三成が関ケ原で
戦い家康の東軍が勝利 その後 1614年 大阪城冬の陣 和議

和議の条件として 大阪城の外堀の埋め立て 徳川軍は内堀まで埋め立て
大阪城は 裸城に 1615年 夏の陣 大阪城の 浪人の集団 戦法を
籠城ではなく城外に打って出る 古市古墳群近く 道明寺と八尾 若江で
激突 その後 岡山口 天王寺で激突 終戦 大阪城は炎上 秀頼 淀殿は
蔵で自害


Map1
 大阪城  真田丸  茶臼山  安居神社(幸村最後の場所)
 道明寺の戦い  八尾 君江の戦い

 百舌鳥古墳群  古市古墳群  生駒山地

 四天王寺  大聖勝軍寺  法隆寺 画像では
消えました右端中 法隆寺と書いた場所です 奈良県

Map2

古市古墳群 道明寺付近

古市古墳群の南に 羽曳野市に清和天皇の血筋 清和源氏 河内国に拠点
河内源氏があります 始祖 源頼信ー頼義ー義家ー義親ー為朝ー義朝ー頼朝
鎌倉幕府を創った 頼朝 前に訪れた 前9年の役 後3年の役で活躍した
頼義 義家 八幡太郎 源氏三代の墓 羽曳野市:通法寺跡 源頼信
頼義 義家 三代の墓があります

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15代 応神天皇陵 堺の百舌鳥古墳群 仁徳天皇陵に次ぐ大きさです
16代 仁徳天皇の父親の古墳 但し 宮内庁管理の為に不明
仁徳天皇陵の様に 堀がわかりません 前方後円墳の形は不明
近くに 八尾空港があるので 飛行機から見るしかありません
天王寺駅前 あべのハルカス下 大阪阿部野橋駅 近鉄で道明寺駅まで
20分位

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JR八尾駅から南に大聖勝軍寺 物部氏支配の中心地 仏教の崇仏派
蘇我氏と廃仏派 物部氏が対立 蘇我馬子 聖徳太子 泊瀬部皇子
竹田皇子を引き連れ 物部氏の拠点 河内国渋川群を攻める
蘇我氏が勝利 聖徳太子 従軍中 兵士に戦勝を祈願して、勝利
すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った その後 四天王寺根立
蘇我馬子は豪族が乱立 意見集約に時間がかかる 奈良 飛鳥の地に
都を作り 権力を集中させる 又 日本初の寺院 飛鳥寺 建立する
33代推古天皇の基に太子は摂政となり 朝廷の戒律 冠位十二階及び
17条憲法を制定 600年遣隋使の派遣 斑鳩宮を造営 法隆寺を創る

最近では 学者が聖徳太子 実存しなかったのではないか 本当かな


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大聖勝軍寺近く 物部守屋の墓

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聖徳太子 物部氏と蘇我氏の戦い 丁未の乱 で約束した 四天王寺
天王寺駅近くに

Hujinzu
関ケ原の戦い 東西 布陣図

1598年 豊臣秀吉死没 1600年に東軍と西軍 関ケ原で激突
東軍勝利 西軍 石田三成 小西行長 安国寺恵瓊は拘束され処刑 
宇喜多秀家は八丈島に遠島 島津義弘は敵中突破して薩摩に
長曾我部盛親は徳川家康後方 南宮山に布陣 家康に内通していた
吉川広家に前方を遮断され 戦いにも参加できず 終戦

豊臣家 家康の要望で各地の社寺造営を 東山 方広寺の鐘の銘文
国家安康 が家康を分断しているのはゆるせないと 1614年11月3日
大阪冬の陣 開戦される
大阪城に入城したのは 関ケ原の戦いで 敗戦した西軍の浪人集
明石全登 宇喜多秀家 家臣 後藤基次(又兵衛)黒田長政に仕えるが
長政と意見の相違で 黒田家を出 浪人に 真田信繁(幸村) 徳川家と
戦い 二度まで上田城で勝利 父 昌幸は 家康と組むのは良しとせず
関ケ原の前 昌幸 信之 信繁 親子 栃木県佐野で会談 昌幸と信繁は
徳川側にはつかない 長男 信之は奥さんの関係上 徳川方に
関ケ原後  昌幸 信繁は 高野山麓 九度山に 昌幸は途中死亡
信繁は抜け出し 大阪城に入る
長曾我部盛親 長曾我部元親の四男 土佐 長曾我部の最後の当主
関ケ原後 浪人になり 大阪城に入城 八尾 君江合戦後 捕らえられ
処刑 木村重成 両親共に 豊臣家 家臣 若江の戦いで死亡
関ケ原の戦いで西軍 毛利軍に布陣した 毛利勝永 小早川秀秋の裏切り
により 戦死した 大谷吉継の子 大谷吉治 等 浪人が大阪城に入城

冬の陣 京都 二条城より奈良経由で 家康 天王寺近く茶臼山に本陣を
城近く 野田 福島で戦闘開始 イギリス オランダより購入した 大砲
本丸等に打ち込まれ 淀殿が驚き 和平攻略実施 この時 真田信繁 大阪城
南側に出丸 真田丸を構築 徳川軍を悩まさせる
冬の陣は豊臣側は善戦しましたが 本丸の大砲での攻撃で和議に
和議の条件 外堀 埋め立て< 本丸を残して取り壊し 淀殿を人質に
しない代わりに 大野治長 織田有楽斎より人質 提出

和議条件は守られず 内堀まで埋め立てられ 大阪城は 裸城となる
駿府に戻った 家康 1615年4月 家康9男 義直 名古屋城主
結婚式の為に名古屋に その後京都 二条城に 嫡男 秀忠 江戸
を出発 家康 秀忠 二条城で合流 京都から奈良を経由して 大阪城に

1615年 5月6日 裸城になった豊臣方 場外に撃って出る作戦に


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近鉄 道明寺駅 道明寺合戦の碑

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                        wikipediaより参照


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早く城を出発した後藤基次隊 2800人 霧が深く 他の隊と連絡取れず
早川を渡り 小松山に布陣 幕府軍 伊達政宗 松平忠明ら2万以上に
攻撃を受け 豊臣軍 壊滅 後藤基次 討死
道明寺駅より 小松山方面


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                          wikipediaより参照

後藤隊より遅れ 真田信繁 毛利勝永 12000人は 古市古墳群に布陣
豊臣方は八尾 若江の敗戦を受け交代 真田信繁は前回 家康の本陣だった
天王寺 茶臼山に陣を移す


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八尾 若江の戦い 八尾は近鉄 八尾駅付近 八尾は長曾我部軍は藤堂軍と
対戦 途中 木村重成の敗戦を知り 大阪城に戻る
八尾駅の北 若江 木村軍は藤堂軍と対戦 藤堂軍を退却させる
伊井軍が襲い掛かり 木村村重が戦死 豊臣軍 大阪城に後退

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八尾の戦いで激戦となった場所 常光寺 藤堂高虎が戦後 豊臣方」の
首実検した 縁 血天井もある 藤堂家家臣の供養塔もある

河内音頭発祥の地と書いていました 広場があり盆踊りが出来る


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大阪城 夏の陣 最後の戦い 布陣図 wikipediaより参照

前日 道明寺の戦いで 離脱した毛利勝永 真田信繁 大野治房 明石全登
は 天王寺 茶臼山に布陣 徳川軍は 岡田口 北側に布陣 真田信繁
茶臼山 北側 安居神社で死亡 豊臣軍は大阪城に後退
前日 秀頼 正室 徳川秀忠の娘 千姫 解放 秀頼 淀殿は蔵に籠り
爆破 大阪城も燃え落ちる 豊臣家は滅亡

大阪城 周辺


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今回 何度か訪れた天王寺駅前 あべのハルカス60階 300m初めて
登りました 北側 大阪城方面 良く見えます

① 茶臼山 ② 安居神社 ③ 四天王寺 ④ 大阪城 ⑤ 通天閣

あべのハルカス出来るまで 横浜ランドマークが日本一の高さでした
296m 70階 過去に 出張で台湾 台北 台北101に登りました
509m 101階 登ったのが夜だったので 高さ加減は不明です

難波のホテルに泊まり 早く眠ったので 朝4時前に起きました テレビ
を見ていると 現在 首里城が延焼中 画像を見ると驚きました
沖縄駐在時 首里城はありませんでした 明治の琉球処分と 大戦
では 日本軍の司令部でした 複雑

10年前 夫婦で 首里城見ました この建物がなくなったのは残念です


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2019.09.20

後三年の役 平泉 藤原4代


前回 書いた様に 前9年の役 源頼義 奥州に陸奥守として1051年に赴任
から 盛岡 厨川柵で安倍貞任が死亡により 安倍氏滅亡 1062年 12年経過
ですが 乱の名称は前9年の役 平泉藤原氏 初代藤原清衡 父は安倍氏に
協力した事により 死罪 清衡は清原氏に 安倍氏 領土 奥州 清原氏の
領土は出羽を領土とする清原氏に 前9年の役で途中から 朝廷軍 源頼義
に協力した清原氏の功績大の為

前9年の役 後3年の役 合戦図

1


金沢柵


沼柵


平泉 中尊寺 金色堂
毛越寺
高館義経堂
無量光院跡
柳之御所跡


長者原廃寺跡


豊田館跡

1028~1033年頃 藤原清衡の父 経清により築城 場所は奥州市 新幹線
水沢江別駅付近 清衡が平泉に移るまでの館

経清は前九年の役で安倍氏についたので 残忍な方法で殺害される
前九年の役後 安倍氏の領土 奥六郡の分配に不満をもった 義母兄弟の
家衡により 清衡 母子は此処で殺害されています


前九年の役後 清原氏 藤原氏関係図 関係が複雑です


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前9年の役 後3年の役 平泉藤原4代 年表 要約

1051年 奥六郷主 安倍頼時  鬼切部で国司軍を破る
     源頼義 陸奥守となる 前九年の役始まる
1053年 源頼義が鎮守府将軍となり 将軍復活
1056年 源頼義が安倍貞任を攻め 父 頼時が挙兵
1062年 出羽 清原武貞が源頼義に味方する 安倍貞任
      黄海の戦いで敗れ 前九年の役終わる
1083年 清原 家衡・清衡が真衡を攻め 後三年の役始まる
       源頼義 真衡を支援
1086年 清原家衡が豊田館で襲い清衡 妻子を殺害
1087年 源頼義と清衡は出羽 金沢柵で家衡 武衛と衝突
      家衡 武衛は負け 後三年の役は終わる
1089年 清衡 豊田館に住む
1094年 清衡 衣川を挟んだ 平泉に住む
1175年 秀衡の時 源義経 平泉に来る
1180年 兄 頼朝を助ける為に 義経 佐藤兄弟と平泉去る
1187年 義経 平泉に亡命 秀衡没す
1189年 頼朝により 平泉襲撃 義経死亡 四代泰衡死亡
      藤原氏滅亡


後三年の役の頃、清原史の当主は武貞(たけさだ)という人です
  彼は安倍氏に属していた藤原経清の未亡人を妻にしており
この未亡人が経清の息子を引き連れてきます

武貞はこの義理の息子を正式に養子として認め、清原清衡(きよひら)
新しい名前を与えます

そして数年後、清衡にとっては異父弟にあたる家衡が生まれました
つまり清原氏の中に「安倍氏の血を引く清衡」と
清原氏の嫡流である家衡という複雑な兄弟関係ができたのです

武貞が亡くなると、長男の真衡(さねひら)が清原氏の当主と
なりました
彼は男の子に恵まれず、平氏の血を引く家から養子をもらいます
真衡はどうしても皇室の流れをくむ人々と縁を強めたかった
平氏の流れをくむ成衡を、源氏の血を引女性と結婚させ
清原氏の次世代を平氏・源氏の血筋にしようと考えました

結婚式となればあっちこっちから親戚がやってきます
真衡の叔父に当たる吉彦秀武がやってきていました
せっかくお祝いしに来てくれた秀武を無視し続けます
当然秀武はブチ切れました。秀武にも配下がいますし
清原氏の本家の人々も見ているわけですから、これでは
真衡は秀武を冷遇している 同然になるからです

家衡と清衡は 秀武に協力

前九年の役でもこの地にやってきていた、源義家
が新しく陸奥守になり、東北に
真衡は義家のおもてなしのため、国府 多賀城を訪れ
出羽を留守にします

好機と見た家衡・清衡は真衡の本拠を攻めました
ものの見事に負けてしまいました
多賀城から出羽へ戻る途中で、真衡が死亡
財産分与等が決まっていないうちに被相続人が亡り
国守である義家が間に入って、真衡個人の所領を
半分ずつ清衡と家衡に与えることにしたのです

不服としたのが家衡。いきなり攻撃を仕掛けて
清衡の妻子を殺害 清衡は何とか逃げ延び
義家に助けを求めました


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豊田館で家衡 一家皆殺しの後 逃げ込んだのは 沼柵

横手市郊外  沼柵の跡 前9年の役後 清原氏 異母兄弟は対立
家衡の立て籠もる沼柵に陸奥守 源義家の助けで清衡が攻めるが
雪と寒さ 食料も不足し 官軍は奥州に引き上げる 伯父 武衡の助言で
家衡は要害堅固の地 金沢柵に移る

悲劇 金沢柵で階段より カメラ落とし画像が変 手振れ補正機能が
壊れた 藤沢で同じカメラ購入のはめに


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金沢公園 本丸跡 金沢柵の表示 ありませんでした

 金沢柵 横手市郊外 後三年の役金沢資料館後方の山が金沢柵
現在 金沢公園 近くに 奥羽本線 後三年駅があります

家衡は沼柵から金沢柵に場所を移し立て籠もる 義家 清衡軍は攻め
あぐね 兵糧攻めに義家の弟 佐竹氏も祖 新羅三郎義光も駆け付ける
この後 家衡らは 全員殺害される
清衡は元の姓 藤原に復し 奥州藤原氏の祖となる




平泉 マップ

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 中尊寺 金色堂
平泉 中尊寺 金色堂  此処に来たのは 二度目です 25年前 名古屋在住
の頃 家族で 名古屋~仙台に飛行機で 厳冬期でレンタカーで平泉 
盛岡 田沢湖 角館 秋田に行きました
その頃はまだ世界遺産にはなっていませんでした 金色堂までの道 全然
変わっていません 金と螺鈿細工は 見事 祭壇の下には 3個の引き出し
奥州藤原4代 清衡 基衡 秀衡 泰衡 子供の頃 NHKのニュース映像で
引き出しの調査の画像が 3体のミイラ化した遺体 泰衡は首のみ?
説明時 4体の遺体が入っていると説明が 源頼朝による奥州平泉 襲撃
良く金色堂が残った 国宝 第1号です


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此処も前回行きました 高館義経堂 義経二度目に平泉に来た時 住んで
いた場所です 鎌倉幕府 奥州藤原氏に対する要求 いままでは 平泉から
京都朝廷の貢ぎ物は直接でしたが 貢ぎ物 鎌倉経由に要求
源平合戦の後 頼朝は義経に不信感を感じる
無断で朝廷から任官を直接 義経が受けた事に 頼朝不信感を
  鎌倉に行き 経過説明を鎌倉手前 江ノ島近くの寺に足止め 経過
わび状の腰越状受け取り拒否
頼朝より義経に客を送られる 危険を感じ 奈良 吉野山に避難
平泉に戻る事を決意日本海 経由で平泉に
三代秀衡は義経を好意的に迎える

頼朝の命令 義経を殺し首を鎌倉に要求 三代秀衡は遺言で
義経をリーダーとし 平泉を守れ 1189年 四代泰衡は頼朝の脅迫
泰衡は義経を襲撃 それに泰衡耐え切れず 高館義経堂で義経は自刃
首は鎌倉に送られ 首実検の後 捨てられ 境川に流され 藤沢市
白幡神社近く 首が見つかった 伝義経首洗い井戸があります

その後 同年に鎌倉軍は三軍に分け平泉に 頼朝は 白河の関から平泉に
28万人 畠山重忠を先陣に畠山重忠は後に殺害される 鎌倉幕府出来た
後家臣の死 多数 比企能員 梶原景時 和田義盛など 頼朝の妻 政子
の父 北条時政を基に 最後は 源頼朝 子供は切腹 暗殺で世継ぎが
なくなり 北条家が執権 鎌倉幕府は 北条家に

   迎え撃つ 平泉は泰衡の異母兄 国衡が福島 阿津賀志山に城壁
を築き 迎え撃つが突破し 平泉に泰衡は北に逃亡 秋田 比内群で郎徒
に殺害される 首は 前9年の役 安倍貞任と同様に 故事に従い 陣ヶ岡
に首は晒される阿津賀志山に城壁
を築き 迎え撃つが突破し 平泉に泰衡は北に逃亡 秋田 比内群で郎徒
に殺害される 首は 前9年の役 安倍貞任と同様に 故事に従い 陣ヶ岡
に首は晒される
  
高館義経堂からの 北上川の風景 芭蕉 奥の細道で読んだ句

夏草やつわものどもの夢の跡 良い


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毛越寺 藤原二代 基衡 三代 秀衡により 再興
庭園は浄土を再現した造園 今回時間なき為 入りませんでいた
世界遺産登録の思想 浄土思想を基調とする文化的景観にあっている
のでしょうか 鎌倉には義経 藤原泰衡 供養の為 平泉 
無量光院を模した 伽藍 庭園が再現 鎌倉宮 近くかな?
永福寺跡 行った時は 更地でした


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柳之御所跡 奥州藤原氏の政庁跡では 近くには伽羅御所 三代目
秀衡の住居跡もあります


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無量光院跡 現在 土塁と礎石のみしか残っていません
三代 秀衡が京 宇治 平等院を模して根立
  

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 長者原廃寺跡


平泉近く 三条吉次季春 通称 金売吉次の屋敷跡 小説に出てきます
奥州は金の産出地又馬の産地 定期的に京都 朝廷に貢物で吉次が京に
度々行きます 1160年 平治の乱で 義経の親 源義朝が平清盛に敗れ
義経は京都 鞍馬寺に預けられます 16歳の時に金売吉次に鞍馬寺を
抜け出し 平泉に向かいます 平家 源氏の富士川の戦いで 平泉を出て
黄瀬川近く兄 頼朝と対面 その後 義経の源平合戦に勝利

1年前から計画していました

今回 宮城 福島 岩手 秋田 4県 三泊で行きました
お遍路で13泊以来 もーこの様に長距離無理 事故起こしそうでした

後 岩手 遠野 ジンギスカン行きたかったのですが 時間的に行きません
でした 残念

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2019.09.17

坂上田村麻呂 前9年の役


まずは 宮城県 松島近くの 奈良平城京が律令政府が蝦夷の支配の為に
724年に多賀城を築城

平城京から長岡京 平安京に遷都した桓武天皇から 坂上田村麻呂 797年
に征夷大将軍に命じられ 蝦夷討伐の為に多賀城に入城 その後鎮守府
戦場に近い場所 胆沢城を築城 アテルイを捕獲 平城京に連行
  その後殺害されます 803年 盛岡に志波城を造営するが 鎮守府は胆沢城
のまま 804年には財政難から遠征は中止に

1051年 陸奥守 藤原登任が奥六郷を支配する安倍氏に敗れ更迭 後任には
源頼義に奥州に下向 陸奥守として 多賀城に入る
1333年には北畠顕家 陸奥守に命じられ 多賀城に その後 福島 霊山に
移り 朝廷の命で 京都に足利尊氏を破り 九州に落ち延びる 再び霊山に
戻る 二度目の上洛では敗れる 福島~京都 移動は凄い

前9年の役 後3年の役 合戦図

9


河崎の柵 黄海の戦い

鳥海柵

達谷窟毘沙門堂

胆沢城跡

志波城古代公園

陣ヶ岡歴史公園

厨川柵跡 安倍館跡

奥州藤原3代(平泉)が誕生するのは 東北豪族 安倍氏 清原氏 源氏
頼義 義家 藤原清衡の戦い 前9年の役 後3年の役
宮城 岩手 秋田を見て回りました
(素人なので 間違いは許して下さい)


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多賀城政庁跡

まずは 宮城県 松島近くの 奈良平城京が律令政府が蝦夷の支配の為に
724年に多賀城を築城

平城京から長岡京 平安京に遷都した桓武天皇から 坂上田村麻呂 797年
に征夷大将軍に命じられ 蝦夷討伐の為に多賀城に入城 その後鎮守府
戦場に近い場所 胆沢城を築城 アテルイを捕獲 平城京に連行
  その後殺害されます 803年 盛岡に志波城を造営するが 鎮守府は胆沢城
のまま 804年には財政難から遠征は中止に

1051年 陸奥守 藤原登任が奥六郷を支配する安倍氏に敗れ更迭 後任には
源頼義に奥州に下向 陸奥守として 多賀城に入る
1333年には北畠顕家 陸奥守に命じられ 多賀城に その後 福島 霊山に
移り 朝廷の命で 京都に足利尊氏を破り 九州に落ち延びる 再び霊山に
戻る 二度目の上洛では敗れる 福島~京都 移動は凄い


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安倍氏 清原家 藤原氏 関係図 ここに源頼義 義家 親子が加わる

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鳥海柵跡 安倍氏 奥奥州に12もの柵 古代の城砦がありその一つ
奥州市付近 金ヶ崎にある柵 途中から 安倍氏と朝廷 陸奥守の争い
から 清原氏が反安倍氏に加わり この柵で陸奥6郷の長 安倍頼時が矢
に撃たれ死亡 後任には息子 貞任に

紛争の原因は 今まで従順に朝廷に税金を払ってきましたが ある時を
さかいに納税はなく 又 安倍頼時の息子 貞任は藤原氏の娘を見染め
嫁に欲しいと申し出に 陸奥守 源頼義が安倍氏に出頭を命じるが拒否
これが 戦いの原因


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鳥海柵の南側 戦国の城の様に空堀があります 守りは堅そう


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平泉近く 達谷窟毘沙門堂 坂上田村麻呂が蝦夷征伐の戦勝記念で根立
京都清水寺をモデルで建設 1185年 欧州藤原氏滅ぼした後 鎌倉に戻る
源頼朝が途中立ち寄る 坂上田村麻呂の京都の敷地 京都清水寺でした


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一関郊外 北上川の河川敷 河崎の柵 1056年安倍貞任が朝廷軍源頼義を
迎え撃つ為に陣を構える 朝廷軍源頼義 唯一の大敗 黄海の戦い


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胆沢城跡 802年坂上田村麻呂により築城 808年 国府 多賀城より鎮守府
が分離 陸奥北部および北方支配のための前哨基地として また蝦夷の動向
を監視(かんし)する軍事拠点としての役割を担っていました
奥州市水沢


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志波城古代公園 盛岡郊外

約1200年前の平安時代に,桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂によって
造られた古代陸奥国最北,最大級の古代城柵
実物大の城壁で再現されている


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陣ヶ岡歴史公園 陣屋跡 岩手県紫波郡紫波町

803年には坂上田村麻呂 1062年には源頼義・義家父子が、陣ヶ岡に陣を
置き安倍氏に勝利 1189年に源頼朝が奥州征伐で陣ヶ岡に陣を置いたのは
源頼義は前九年の役の戦後処理で 安倍貞任の首を刎ね晒した

その130年後 源頼朝は同じ場所に陣を置き、安倍氏の末裔である
藤原泰衡の首級に八寸釘を打ち込み、同じ場所に晒している

四代目 藤原泰衡は源義経を殺害 平泉を滅亡させ 頼朝に追われ 秋田
大館付近まで逃げ 家臣に殺害される 首は平泉 金色堂 三代目 秀衛と
同じ場所に納められています


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JR盛岡駅 裏 厨川柵跡 安倍館跡 安倍貞任 最後の場所
前9年の役 終わる

次回は 後三年の役 平泉藤原3代について書きます

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2019.08.25

三国志展 東京国立博物館


201908231

先日 上野 東京国立博物館に4度目です 過去に 兵馬俑展 縄文展
運慶展 今回は 三国志展に 過去の展示に対して 素人の私には解り
ずらい
以前 司馬遼太郎さんの 項羽と劉備と空海の風景を読みましたが
で記憶が曖昧 定年後 お遍路 四国八十八カ所に行く
前に 四国以外で空海が西安 青龍寺
で修行した 四国八十八カ所の最初 零番があるとの事で
西安に6年前西安に 当時は日中間で尖閣問題 (今の日韓外交問題)
でツアー集まらず ほとんどが中止 その後 何とか中部空港 上海経由で
西安に行けました 西安に

当時の長安 8世紀 唐8代皇帝 玄宗 城壁の北側に 広大な広場 大民宮
を建築 朱雀門から続き 大民宮に 遣唐使で 空海 最澄 阿倍仲麻呂
などが訪れたのか? 日本では奈良 平城京跡
更地になっていますが 此処も広大です

三国志 見ていると 漫画家 横山光輝さんが良く出てきます 8年前
出張で神戸に 新長田駅近くの商店街 阪神大震災時 商店街火災で
消滅 商店街再建 横山光輝さん 地元でしょうか 三国志の資料館
復興の目玉で商店街に 本当は 鉄人28号の像見に行ったのでしたが

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明時代 15 16世紀 関羽像 横浜中華街 関帝廟にも関羽が祀られて
いますが 武人としてでなく 帳簿を発明 商売の神様として祀られて
いるのは意外でした

201908238

 長安(西安)周 後漢 東魏 隋 唐 の首都

 咸陽 秦 (秦の始皇帝)の首都 咸陽城 阿房宮
始皇帝陵 兵馬俑 西安より15km西

 北京 元 明 清の首都

 洛陽 後漢 西晋 前秦の首都 曹操死亡場所は河南省
洛陽でした 享年65歳 墓と遺骨が2009年に発見 遺骨より曹操と確認
曹操高陵 高穴2号

 赤壁の戦い この後曹操軍勢
いがなくなる 日中合作 映画 レッドクリフで見ました

 成都 劉備 三国時代に建てた国 劉備死後 劉禅が跡継ぎしたが
劉備の意思を受け継ぎ 諸葛孔明 北伐を実施するが 上手くいかず
蜀は弱体化し滅亡する

中国 後漢 三国時代(紀元前 184-280)統一目指した歴史書

 曹操 中原を固め 魏の基礎を築く 後年 魏志倭人伝で
卑弥呼について書かれたのは 紀元後 200年頃 邪馬台国について
記載 これが 邪馬台国の場所が日本で論争になっている

 劉備 関羽 張飛と桃園の誓い 諸葛孔明を三顧の礼で迎える
曹操と比べ 戦いに弱く 年よりであったが 最後は濁漢の皇帝になる

 孫権 劣勢だった 劉備軍の同盟国になり曹操に対して勝利

三国志とは 魏 呉 蜀の三国が争った 三国時代の歴史書

紀元前246年 秦王政 始皇帝即位 221年 始皇帝 中国 天下統一
咸陽 秦朝を創る 210年 始皇帝 巡航中に七月沙丘平台にて死去
胡亥帝位に就く

項羽 劉邦共に 楚の生まれで先祖は高官であった
  207年鉅鹿の戦い 農民反乱軍と楚軍 項羽が秦軍と激突 勝利
勝利により近隣の軍が参加 劉備も項羽に従う 219年 樊城の戦い
項羽 劉備と孫権との戦い この時 劉備の部下 関羽が捕らえられ
処刑される 秦軍投降者 20万人 項羽は生き埋めで殺害
その後 劉備軍 関中 秦の都 咸陽に進軍 その二か月後 項羽が入城
始皇帝が造営した阿房宮 掠奪 放火で三ヶ月炎上 調査で放火は
項羽では無いとの結論

前208年 劉備 孫権軍と項羽軍 揚子江(長江)で赤壁の戦い 項羽圧倒的な
兵力でしたが 敗北 前202年に項羽死去

前202年、諸侯たちの推挙により、劉邦は皇帝に即位します 漢・高祖
の誕生 破壊された秦の都 咸陽をすて郊外の長安に都を創る
漢の誕生
やはり三国志も難しい 但し 6年前 西安に行き 兵馬俑見学 但し
西安駅からバスで1時間半近く 始皇帝陵 兵馬俑に今回解った事は
秦 始皇帝の都は西安 郊外 咸陽にありました 納得

後は 中国 香港で騒動になっている イギリスから返還時 中国は
1国2制度を50年 約束したのに半分で 制度の見直し 劉備が創った
長安 漢 此処から中華思想が生まれ 現在も生きているようです

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2019.08.10

ペリー黒船 停泊 戦艦ミズーリー 降伏調印 場所


前回は東京湾 北側 中側 検索しましたが 今回は南側 三浦半島を

先日 ネットで偶然知りました 横浜金沢区 八景島シーパラダイス内に
平成18年に 金沢区制60周年 横浜開港150周年 記念事業で 園内に
アメリカン アンカレジ記念碑を設置 アンカレジの意味は(船の逗留地
だそうです 逗留は 小柴沖にペリーの黒船が 米大統領の親書を持ち
1853年 1854年に東京湾に2度来航時 逗留したのが 記念碑近くの小柴沖

あと一つは 25年以上前 名古屋から 三週間位 ハワイ オワフに出張
駐在員が何処か行きたい場所を聞かれ 日本軍奇襲場所 真珠湾に連れて
いただきました 4年半前 家族でハワイ オアフに 又も真珠湾に
その時は 戦艦 ミズーリーが退役し 真珠湾に展示されていました
終戦後 すぐに 1945年 9月2日 ミズーリー号 ポツダム宣言受諾
第二次大戦後 降伏調印 マッカーサー 米軍 調印場所 ミズーリーの
駐留場所 黒船 二度目に来航した 旗艦 ホータン号が駐留場所に 
ミズーリーを寄港させ艦上で調印 あくまでも当時の屈辱を演出している
ようでした

艦上 日本側 足の悪い人 外務大臣 重光葵さんでした その後 湯河原
の別荘で亡くなりました
 

201908068

 横浜開港資料館 大さん橋より関内方面 最初 ペリーとの会談の場
  1854年2月13日 ペリー艦隊 浦賀に再来 最初の艦隊は4隻であったが
  この時は 9隻で 応接場所は 浦賀ではなく 何も無かった寒村
  横浜に応接所を建て 3月31日 ペリー 隊員 446人上陸 会談
  日米和親条約締結 この時 開港する港 下田と函館を決める
  
   会談場所は現在 横浜開港資料館が建っている場所 ペリー横浜上陸図
    によると 右側に植物が植わっていますが たますくの木 中庭に
  何代かの木が植わっています

 横浜開港資料館近くに 横浜税関 通称 クイーン 1945年8月15日
 終戦 連合国司令長官 マッカーサー 8月30日 厚木飛行場に到着
 山下公園前 ニューグランド ホテルに 横浜税関 8月30日ー9月8日
 まで GHQとして使用 その後 東京 皇居前 第一生命ビルに移る

GHQ 連合国軍最高司令官総司令部は1952年4月28日サンフランシスコ
講和条約発行まで約7年続く
 
 アメリカン アンカレジ記念碑
  
  1853 1954年 ペリー艦隊 東京湾来航時 逗留場所 八景島 東側
  
 1945年 9月2日 ミズリー艦上で 日米  降伏調印場所 千葉
   富津岬近く 米軍が ミズーリーを此処に停泊 ペリー黒船停泊場所
   此処で日米 降伏調印 杖をついていたのは 外務大臣 重光葵さん
 亡くなった 湯河原の別荘 現在は 重光葵 記念館

最初に来航時 黒船 浦賀沖 停泊場所

浦賀奉行所

  浦賀 1853年7月8日 沖縄経由浦賀沖に 旗艦 サスケハナ 合計4隻で
 寄港 浦賀奉行所 与力 中島三郎助が対応 中島三郎助さん 知りません
 でしたが その後 土方歳三と同じく 函館戦争で 親子で戦死
 ペリー艦隊 東京湾 奥まで侵入 水深を測定 羽田沖まで侵入
 この時 佐久間象山 吉田松陰も見物に来ています

7月9日 交渉は長崎を幕府は アメリカ大統領の親書 久里浜で
  親書受け取り 1年後再来するとの伝える

 小栗忠順と横須賀
  その後の 小栗上野介忠順 高崎 権田村に 

幕末 幕府側で頑張った人 小栗忠順

201908061

アメリカン アンカレジ記念碑


201908067

八景島 島内 シーパラダイス

アメリカン アンカレジ記念碑

八景島 自動車道 一般入場禁止

駐車料金高! 駐車場 島外 1日料金しか無く 1時間で1300円

201908062

黒船が停泊した場所


201908063

ミズーリーの駐留場所 降伏調印場所 後方は房総半島


201908064

客船 黒船? 外輪が後ろに 下田港でも見ました


201908065

八景島シ-パラダイス全景 行った事ありません


ペリー艦隊 吉田松陰 伊豆下田に

201908069

横浜で日米和親条約 細部詰める為に 1854年3月18日~21日
下田にペリー艦隊 7隻 来航 了仙寺で日米和親条約の詳細を交渉
長楽寺で日米和親条約を締結

下田港 ペリー艦隊 吉田松陰 密航

 1854年 吉田松陰 金子重之輔 黒船に密航場所 米国側に拒否
  その後 二人は 下田奉行所に自首
事の重大さで幕府は恐れ 二人は 長州藩 萩に送り返される
吉田松陰は野山獄に 金子重之輔は 士分ではなかったので
  もっと厳しい岩倉獄に その後病死

萩に戻されてからの 吉田松陰

吉田松陰 野山獄 出獄後 自宅謹慎 自宅近くの 松下村塾で
下級長州藩士を教育 短期間 それが後の 幕府崩壊につながる

吉田松陰 その後も過激発言 時代は 大老 井伊直弼による
安政の大獄 吉田松陰 江戸に送られ 少伝馬町牢屋敷で処刑される

 弁天島此処から 未明に 吉田松陰 金子重之輔は小舟で黒船
  に近ずき 亡命を求めるが拒否される

 玉泉寺 初代駐日領事として タウンゼント ハリスが赴任
  タフ ネゴシエータで問題の多かった 日米修好条約を締結 皇室の
承認がなく 無理やり 大老 井伊直弼が締結 薩長連合との紛争の
火種に その後領事館となり ハリスは公使となり 麻布十番の善福寺
移る 当時通訳として雇われていた ヒュースケンが東京タワー近くで
尊王攘夷で殺害される
  井伊直弼 殺害 桜田門の変 攘夷のもとに多数の事件が起こる
 下田港 ぺりー上陸の地 その先 寺に続く ペリーロード

 了仙寺 日米和親条約 詳細を決めた 下田条約締結の場所

 長楽寺 日米和親条約の地

 須崎御用邸 那須 葉山 須崎 3カ所 皇室の別荘 先日ニュース
  で 天皇陛下一家 今夏は 須崎でご静養だそうです

ブログ文章の途中 文字先頭がずれました 勉強が必要です

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2019.07.20

箱根 塔ノ沢 皇女和宮 終焉の地 宮ノ下 旧御用邸


14代将軍 家茂 正室 皇女和宮 箱根で療養中 死亡 享年32歳
亡くなったのは 明治初期 療養中の温泉旅館 大正期に改築された
旅館が 塔ノ沢に 死亡後 姑 13代将軍 家定の正室 天璋院 篤姫が
死亡した場所を見てみたいと訪れて涙した 孝明天皇の妹 皇女和宮 幕末
徳川家の存続の為に 嫁姑の関係から同志の様に協力し 徳川家を守った
皇女和宮 箱根 塔ノ沢に終焉の地を見に行きました


201907171

小田原 厚木道路 二か月集中工事の為 渋滞が予想されるので
今回は 西湘バイパスで箱根に 順調 海 相模湾が良く見えます
今年は冷夏 海水浴の人はいませんでした


201907178

① 早雲寺 後北条の菩提寺 五代の墓がある
  1590年 小田原征伐時 豊臣秀吉の本陣 石垣山城完成後移る
② 塔ノ沢 皇女和宮 終焉の地 元湯 環翠楼
③ 富士屋ホテル
④ 旧御用邸 菊華荘
⑤ 宮ノ下 三叉路 直進すると仙石原 左に行くと芦ノ湖 箱根駅伝
  5区 登り 6区 下り 宮ノ下 三叉路付近

201907177

箱根登山鉄道 塔ノ沢駅 付近 元湯 環翠楼 創業400年 箱根7湯の一つ
塔ノ沢温泉 江戸時代 1614年に湯治場として開業 1919年 大正8年
建物建設 大正13年に改築 環翠楼 前は元湯 中田暢平旅館


2019071710

当時 元湯 中田暢平旅館 旅館の前 多分 早川 現在も環翠楼は
川の側です 橋を渡った左側が明治期の元湯 中田暢平旅館です
 
1877年 明治10年8月7日和宮 脚気 医師の勧め 転地療養の為に元湯
中田暢平旅館に 現 環翠楼に宿泊 同年9月2日に死去 享年32歳

さかのぼる事 夫 家茂 1866年第二次長州征伐に
大阪城で 同じ病気 脚気で享年21歳で死去 和宮と同い年
死亡まで 家茂 三度も上洛しています

和宮が亡くなり 三年後 姑 天璋院 和宮 終焉の地 元湯
  中田暢平旅館を訪れたいと 中田暢平旅館を訪れ和宮と同じ客室に泊まり
号泣したそうです
 
和宮 希望で家茂と同じ墓 芝 増上寺
和宮 1851年 5歳の時 光明天皇の命で有栖川宮熾仁親王と婚約
有栖川宮熾仁親王後に東征大総督に 江戸攻撃の責任者に
仁考天皇の八女として生まれる 兄は光明天皇公武合体 攘夷の為に和宮
1860年 15歳で江戸に下向 安全の為に中山道で総勢三万人で下向

江戸城での生活 御所風を希望 姑 天璋院(篤姫)大奥での生活許さず
武家風に

最近はNHK 大河ドラマ見なくなりましたが以前 2008年 篤姫は毎週
見ていました 放送終了後 鹿児島に
薩摩・島津家の分家に生まれながら薩摩藩主・島津斉彬の養女となり
徳川13代将軍 家定の正室となる 家定 変わった性格で篤姫も苦労
したと思います 篤姫 和宮共に子共はありませんでした
篤姫 和宮 将軍 正室として人生同じようです
天璋院(篤姫)1866年 最後の将軍 15代 徳川慶喜になり
1867年 朝廷に大政奉還
王政復古の大号令 1868年 鳥羽伏見の戦い 旧幕府軍敗退 慶喜
大阪城 より戻り 江戸 寛永寺で謹慎 江戸城無血開城

13代将軍 家定 正室 天璋院 篤姫 嫁入り時 準備したのは西郷隆盛
京都で購入 江戸城に運ぶ 徳川存続について薩摩 西郷隆盛に
徳川家存続 16代 徳川家達就任を願い請願する

和宮は京都朝廷に同じように請願 此のころは同志の様な関係
14代将軍 家持に嫁ぎ 江戸での生活 1869年 8年目で京に帰る 5年後
1874年 再び東京に戻る 元八戸藩主 南部信順 屋敷に居住
1877年 9月2日 享年32歳 箱根で客死

天璋院は1883年 明治16年に脳溢血で享年47歳で死亡 江戸に輿入れ後
鹿児島 薩摩には戻りませんでした

上野 寛永寺 徳川家御霊廟 通常は非公開ですが 年に何度か公開あり
参加しました 綱吉の墓は立派 13代将軍 家定と天璋院の墓もありました
写真は禁止でした


201907172

次に 山を登り 宮ノ下に 車 箱根登山鉄道で登りましたが 電車
スイッチバック3回で宮ノ下駅に 以前訪れた 宮ノ下

宮ノ下 富士屋ホテル 現在 耐震強化工事で 建物はネットで覆われて
います ロビー見たかったのに残念
工事期間は 2018年4月~2020年7月まで


201907179

ネットで覆われていなければ 竜宮城の様な富士屋ホテル


201907176

富士屋ホテル近く写真館 ホテル訪れた ジョンレノンとオノヨウコ
子供の写真見ました
老舗ホテル訪れているのか 軽井沢 万平ホテルで同じような写真見ました


201907173

富士ホテル 別館 旧御用邸 菊華荘 門 国道1号線を挟み隣
御用邸とは皇室の別荘 戦前では12カ所もあり 現在残っているのは
那須 葉山 須崎のみ 何故 軽井沢にないのだろう?

201907174

菊華荘の玄関

201907175

菊華荘の庭

会食 食事 日帰り温泉 結婚式も出来るようです
但し 高価です

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2019.05.01

富士川の戦い 静岡 江尻城

1159年 平治の乱 京都で平清盛に敗れ 源頼朝の父義朝 以前住んで
いた 鎌倉に逃れる途中 尾張 知多半島 野間で殺害 頼朝は近江で
捕まり 伊豆 蛭ヶ小島に流される 義経は京 鞍馬寺に預けられるが
奥州 藤原氏を頼り 平泉に
 
源頼朝 小田原 石橋山の戦いで 関東 平氏系武士に敗れ
真鶴半島より 房総半島 安房に逃げる 上総広常 千葉常胤を味方
につけ 武蔵国では地方豪族を味方に 父 義朝が住んだ 鎌倉に1180年
10月6日入り 京都 平清盛 東国の反乱を知り 清盛 嫡男 重盛の嫡男
  維盛は 京都より関東に追討軍として送る 10月16日 鎌倉を出陣
頼朝軍は富士川の東 黄瀬川に布陣 甲斐より応援に来た 武田信義
甲斐源氏4代 祖は新羅三郎義光 清和源氏 河内源氏 後三年の役で
活躍した 源義家 八幡太郎と兄弟 武田信義は新羅三郎義光の孫
甲斐源氏 武田信義は駿河に進出 富士川に布陣 京都より進出した
平維盛軍と対自 軍は7万人だが寄せ集めで士気はは低く 京都よりの
兵站も無く 脱走兵も多く 富士沼の水鳥の飛び立つ音に驚き 京都に
逃げ帰る その後 奥州平泉から駆け付けた 義経 頼朝と対面

源平合戦の前に 頼朝とは従弟 木曾義仲が京都に乱入 宇治川で
義経との戦いが

201904171

 1192年頼朝 征夷大将軍となり 鎌倉に幕府を創る
 曾我の里 河津祐泰 蘇我兄弟の父 死亡後 預けられる
 小田原から湯河原より 伊豆半島 韮山で頼朝は関東平家に
蜂起 惨敗 その後真鶴から房総半島に 石橋山の戦い
 敗れた 頼朝 真鶴半島より東京湾を横切り房総半島 安房に
 頼朝 流刑地 伊豆半島 韮山 蛭ヶ小島
 三島と沼津の中間 黄瀬川近く 対面岩
 富士川の戦い 平家と源氏のあった 平家超
 狩宿 頼朝 巻狩場所 蘇我兄弟 仇討ち場所
 清水 江尻城跡

201904172

富士川の戦いで 平家が一方的な逃亡で 源氏の勝利 頼朝
黄瀬川まで引き上げ 奥州平泉から駆け付けた 義経 八幡神社
で対面 頼朝と義経と対面した岩 源平合戦で勝利 平家滅亡した
立役者 義経 何故 頼朝 義経を平泉で自害まで追い込んだか
不思議です


201904173

平家超 1180年に起きた富士川の戦い 源氏と平家が対峙した
場所 水鳥の羽音で平家が戦いせず 平維盛軍 京都まで逃げ帰った
場所


201904174

狩宿の下馬桜 建物 高麗門と長屋は江戸中期の根立

源頼朝が富士の巻刈り(神事祭礼 軍事訓練)本陣が置かれた
頼朝が下馬した場所


201904175

狩宿の下馬桜から車で5分位の場所に 日本3大仇討ちの舞台と
なった 曽我兄弟の舞台となった場所が 白糸の滝付近にあります
曽我兄弟の仇討ち 頼朝との関係 所領争いで 工藤祐経は伯父
伊東祐親は憎しみをいだいていた 伊東祐親の家来が伊東祐親の
嫡男 河津祐秦が弓矢で殺害される 1176年 蘇我兄弟の父親 その後
母親 満江御前は 蘇我祐信と再婚 小田原付近 曽我荘で兄弟は育つ
1193年 鎌倉幕府が出来た翌年 源頼朝は 富士裾野 白糸の滝付近で
盛大な巻刈を開催 工藤祐経も参加 曽我兄弟は工藤の寝床に入り 殺害
兄 祐成は家来に殺害される 弟 時致は頼朝の寝室に入った所 家来に
取り押さえられる その後斬首される
頼朝 北条政子と結婚する前に 父 河津祐秦の親 伊東祐親 平氏妥当で
石橋山の戦いで 大庭景親 伊東祐親共に 源頼朝軍を撃破している
その前には 頼朝は伊豆に流配中 伊東祐親の娘 八重姫と通じ 千鶴丸を
出産 伊東祐親は平家の怒りを恐れ 殺害 富士川の戦いの後 捕らえられ
一時は許されるが その後自害 この様なわけで頼朝も狙われたかも
知れない
頼朝 1198年 相模川 橋供養の帰路 落馬で翌年53歳で死亡
在任中は 身内 北条政子との子供 嫡男 頼家は二代将軍になるが
北条氏と対立 伊豆 修善寺で謹慎するが殺害される 三代将軍になった
実朝 頼朝 次男 頼家の子 公暁に鶴岡八幡宮の階段で暗殺される
長女 大姫は 木曾義仲の嫡男 義高 人質として鎌倉に 大姫と婚約
するが義仲が義経との宇治川の戦いで敗れると 人質 義高は殺害される
婚約者 大姫は病気から快復せず 20歳で死亡
頼朝 兄弟 範頼 義経と源平合戦で戦うが頼朝に謀反の疑いをかけられ
頼家と同じく 伊豆 修善寺で殺害されている 義経も平泉で自害
頼朝 身内の不幸多すぎ 家臣も大部分が死亡 あまりにもの事で
北条時政 政子の父 は鎌倉追放 伊豆 韮山の北条に追放される

頼朝 次男 実朝 三代将軍が暗殺されると 鎌倉幕府は北条政子 父親
時政 初代執権になり 鎌倉幕府の実権を握る
京都皇室より 仮の将軍と入り 体裁を整える 北条執権は 16代 守時まで
鎌倉幕府の最後 群馬 太田市 豪族が 鎌倉を攻め 滅亡
京都に在住していた 足利尊氏 京都 六波羅探訪 京都における北条の
監視機関 尊氏が攻め 六波羅探訪を滅亡 新田と足利は後醍醐天皇に協調
していたが 足利尊氏が反発 新田義貞は福井 越前で死亡
足利尊氏は京都で室町幕府を開く
足利尊氏 新田義貞 血筋は 源頼朝と同じ 河内源氏です

鎌倉 寿福寺 北条政子 三代将軍 実朝の墓
  

201904177

曽我兄弟に仇討ちされた 工藤祐経の墓


201904179

白糸の滝 付近 曽我神社近く 曽我兄弟の墓


201904176 白糸の滝 軽井沢の白糸の滝に似ている
25年前 名古屋時代 名古屋駅発 0泊2日の富士山登山のツアー
家族4人で参加 あまりにも強硬なスケジールの為 8合目でギブアップ
帰りは スバルラインで途中 バスのフロワーから煙 故障の為にバス
の交換の為に タクシーで白糸の滝まで来てほしい その頃 オーム事件が
報道 運転手に頼み サティアンのある 上九一色村経由で やはり建物は
異様でした 裁判 処刑も終わりました それ以来の 白糸の滝です


武田勝頼 甲州攻め 静岡市清水区 江尻城~韮崎 新府城に

2019041713

 新府城 完成直後に織田軍が侵入 焼却し 大月 岩殿山城に逃げる
 韮崎市
 静岡県 静岡市清水区江尻城から山梨 韮崎市に抜ける国道52号線
  富士川沿いで身延線も走っている

 古府中 武田家居城 躑躅ヶ崎館
 静岡市清水区 江尻城 1568年 武田 駿河侵攻の前線基地 初代は
  山県昌景 長篠の戦いで戦死 その後穴山信君(梅雪)が城代に
甲斐征伐時 徳川家康に 城を開城甲斐征伐後 戦後 信長がお礼の為に
家康 明智光秀が接待係 で安土城で接待を受ける 信長に勧められ
  京都 堺に 家康一行 大阪 堺を家康と見学時 明智光秀が本能寺の
変を起こす 家康一行は京都に戻るのは危険と考え 伊賀越えで三河
に逃れるが 穴山梅雪は京都に戻る途中 落ち武者狩りにあい死亡
その後 秀吉と光秀は天王山 山崎の戦いで 光秀 滋賀 坂本城に
戻る途中 京都 醍醐寺近くで やはり落ち武者狩りにあい死亡
    

2019041710

左側 江尻小学校の場所が 江尻城祉

静岡市清水区 JR清水駅近く 江尻城跡 武田家滅亡時 城主 穴山信君
武田崩壊の原因になる 穴山梅雪 武田より徳川につき徳川軍を甲斐に
侵入許すを
富嶽36景に景駿州江尻がありました    
甲斐武田家20代当主 武田勝頼の悲劇な最後
武田信玄以来 武田家消滅


尾張 桶狭間の戦いで 織田信長が勝利 今川義元死亡 徳川家康と
武田信玄が駿河領を奪い合う 1575年 足利義昭将軍の要請で 武田信玄
西行 遠江 徳川家康領 攻め 天竜川近く 二俣城 陥落 浜松城は攻めず
三方が原方面に 戦いになり 家康軍 敗走
さらに西行途中 信玄 病気に 甲斐に戻る途中死亡
 
信玄の死後 家督は勝頼に 駿河 遠江の国境 信玄でも奪還できなかった
高天神城を勝頼が奪還
1575年 勝頼は家康に寝返った 奥平親子を成敗の為に 長篠城 三河に
徳川 織田連合軍に郊外で攻められ長篠の戦いで武田軍大敗北

1581年 韮崎市に新府城を築城

1582年 勢力の衰えた 織田信長 甲斐征伐にふみきる
武田勝頼 織田信長軍 甲斐に駿河 上野 信州より攻められる
裏切りは 木曾義昌 穴山梅雪 小山田信茂が裏切り 勝頼一行は
天目山で勝頼 北条夫人 信勝は自害 武田家は滅亡


2019041711 静岡市から帰りは 第一東名に 由比から 富士山 鉄道 高速道路が
太平洋に迫り 太平洋からのベスト富士山 有名なさった峠はこの上です
広重の東海道五十三次 由井に描かれています
東海道五十三次之内 由井


2019041712

先日 同期の人が 山梨県北杜市に住宅購入 昔の山仲間 20人位参加
近くの ホテルに宿泊 八ヶ岳近くホテルから 山梨側ホテルからの
富士山 葛飾北斎の富嶽36景 ほとんどが東海道側から 神奈川沖浪裏
は有名


  新しくココログ 記事投降が リニュアルされ 三度目です
以前 niftyに投降していた ホームページ だいふ前に中止に
ホームページ ソフト ホームページビルダーで製作
HTML CSSも良くわかりませんでした

たかが ココログ 新しいのはHTMLの知識が必要 苦しんでいます

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2019.02.05

古墳時代 飛鳥時代 奈良

8鎌倉時代から幕末までの歴史 ある程度読んだのですが 縄文 弥生時代
は別として 古墳 飛鳥 奈良 平安時代 歴史ほとんど知りません
5年位前 太平記で 吉野に後醍醐天皇陵 南朝を見に来ました
横浜に帰る時 飛鳥を通過 古墳は多数あるのですが 事情しらず
今回 浅い知識で 飛鳥に 古事記 日本書紀が出来たのは 7世紀初期
それ以前の歴史 不明な事が多く 考古学は面白い 今回 再び奈良に
奈良は気に入り 1年間で3度訪れました 

古墳時代 飛鳥時代 日本史

201901271

 法隆寺 601年 厩戸王 聖徳太子 飛鳥より斑鳩宮に移り 601年 
  法隆寺 建立
初代天皇 神武天皇陵 橿原神宮の北 畝傍山の麓 生まれたのが
  紀元前711年 127歳で死亡 天皇陵は神武天皇が畝傍山(大和三山
  付近に住んでいた 近年 この地に天皇陵を造営 宮崎に生まれ 
大和に都に するために 東征 大和を治める豪族に阻止され
熊野経由で大和に その時  先導したのが 八咫烏 古事記 
日本書紀に書かれているそうです  
飛鳥 甘樫丘 蘇我氏の稲目 入鹿邸宅跡 蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿 
  645年 乙巳の変 勢力拡大した 蘇我入鹿を中大兄皇子と藤原鎌足が
飛鳥京で殺害 入鹿の親 稲目 甘樫岡で自害 
 飛鳥寺 百済から 538年 仏教が伝わる  蘇我氏の氏寺として
  伽藍が完成 587年 蘇我氏と仏教に反対する物部氏 豪族の争い
  があり 蘇我氏の勝利
 蘇我入鹿 乙巳の変で殺害された 入鹿の首塚
 飛鳥宮殿跡 伝飛鳥板蓋宮跡 乙巳の変 現場
 天武 持統 天皇陵
 高松塚古墳  石舞台古墳  キトラ古墳
 耳成山 (大和三山)  天香久山 (大和三山
 三輪山  箸墓古墳  巻向遺跡
 JR 関西線 法隆寺駅 関西線 大阪 天王寺 奈良駅を走っています
  法隆寺付近に聖徳太子 飛鳥より移り 斑鳩宮を造営 関西線沿いに
大和川が流れ 聖徳太子 天王寺近くに 四天王寺を建立 天皇陵 
古墳時代には 奈良以外に 大阪 堺 百舌鳥古墳群 仁徳天皇陵 
古市古墳群 藤井寺 羽曳野に 天皇陵を 造営 645年頃には 大阪城の
南に 難波宮を遷都 663年には白村江には 朝鮮 百済を助ける為に 
唐 新羅に対抗する為に日本より派兵 大敗 朝鮮に 難波津 
上町台地から大阪湾は海 瀬戸内海を経由 福岡 大宰府から 朝鮮に派兵
大敗 平安時代に8世紀頃此処から遣唐使船で 空海 最澄は中国に渡っています 
日本は 石器時代から 青銅時代は無く いきなり弥生時代 鉄器時代に 
日本には鉄 の資源は無く 三世紀頃 朝鮮南部の伽耶で鉄を入手
四世紀頃 倭国 百済 伽耶が高句麗 新羅と戦争になり 騎馬軍団に敗れる 

中国には 古墳時代 5世紀頃 倭国の五人の王 讃 珍 済 興 武が宗に
親書 贈り物を送っている どの天皇か不明 交流は古くからありました

ヤマト政権の影響は関東にも及び 埼玉 行田 さきたま古墳群の稲荷山古墳
  より出土した 鉄剣 剣の両面に115文字書かれており 国宝 
  金錯銘鉄剣 本物は左側のケースに文字は読めません
  復元され 文字は剣の両面に書かれており ワカタケル大王
 (雄略天皇)に仕え 天下を治めるのを補佐したと書かれて
  おり 辛亥の年 471年7月に功績を刻む

ヤマト政権が埼玉にも及んでいました 偶々 考古学に興味ありませんでした
秀吉による 小田原征伐 秀吉軍の作戦では 小田原城の支城を攻める
秀吉家臣 石田三成 以前 岡山で実施した高松城水攻めをまねて 忍城
を実施 見事に失敗 三成 本陣 古墳の頂上 又 本能寺の変後 明智光秀
と秀吉 山崎の合戦 光秀 本陣又も古墳の頂上 罰当たりです

飛鳥 地図


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596年 蘇我馬子により建立した 飛鳥寺 伽藍配置の日本最初の寺院 
仏教は583年に百済から伝来しています

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飛鳥寺 本尊飛鳥大仏 二度の落雷火災にあったが 修復 顔は東大寺の大仏
の顔とは違い インド風です

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飛鳥寺の前 蘇我入鹿の首塚 後方は蘇我蝦夷 入鹿が住んでいた 甘樫丘

201901275

飛鳥京 645年 宮中にて 中大兄皇子(天智天皇) 中臣鎌足(藤原鎌足)
のクーデター 乙巳の変 蘇我入鹿を暗殺 この年 
36代考徳天皇 飛鳥より 前難波京に遷都
 中大兄皇子の兄 天智天皇 
663年 朝鮮 百済を助ける為に 日本より42000人 派兵 唐 新羅連合軍
に大敗北 38代 天智天皇は 飛鳥京より滋賀 大津京に遷都 中大兄皇子
は即位を辞退

天智天皇死後 天智天皇の大友皇子 39代弘文天皇が即位 中大兄皇子は
出家の為に吉野に 671年 天智天皇 死後 古代最大の乱 壬申の乱が起
きる 吉野より伊勢経由で美濃 関ケ原 大津に 瀬田橋で戦いで 大友皇子
軍大敗 大友皇子は自殺 672年 壬申の乱 勝利した乙巳の変 673年再び
飛鳥宮で即位 此のころより 古事記 日本書紀の基になる歴史書の作成始
まる又発掘した木簡で初めて天皇の称号が 天智天皇死後 妻 41代持統天皇
が即位都を持統天皇 樫原神宮近く694年 694年~710年 41代 持統天皇
42代 文武天皇43代 元明天皇 三代の都藤原京に遷都 
都は中国 西安(長安)に習った 本格的な都で巨大な大極殿が築かれるが  
モデル「となった 西安(長安)ほとんど遺跡は残っていなく
巨大な城壁のみ 北京には都の後 
故宮 紫禁城があり 大極殿 故宮では大和殿があり玉座は立派 映画 
ラストエンペラーは故宮で撮影されました
北京でも 日本との戦争で勝利 人民解放軍が付近の城壁を破壊しました 

42代 天武天皇 皇后 後の 43代 持統天皇 皇后の時 病気回復を発願
680年に薬師寺 建立 この様な寺であれば 行けば良かったな

2019012713

14年前 故宮 大和殿 北京 空は綺麗でした

奈良は 宮となった場所 飛鳥宮 藤原京 平城京は当時のまま敷地が残って
います

平安京 京都 御所

201901276

国営飛鳥歴史公園内 石舞台古墳 蘇我馬子の墓と言われている
昔来たときは垣根も無く 自由に見る事ができたが 今は有料です

30代 敏達天皇で大臣になり 31代 用明天皇 32代 崇峻天皇 
33代 推古天皇に仕える 
同じ有力豪族 物部守屋と仲が悪く 守屋は廃仏派 馬子は崇仏派 587年 
河内国で戦いになり 物部守屋が敗れ死亡 591年 泊瀬部皇子を即位させ 
崇峻天皇に翌年 馬子は天皇に嫌われる事を知り 殺害 蘇我氏と血の
つながっている 厩戸皇子 聖徳太子は優秀なので重きを持たれる 
崇峻天皇の後に 馬子は初の女性天皇推古天皇に即位させる 聖徳太子を
摂政となる 此の頃 朝鮮 新羅と争いに遣隋使を派遣 603年 冠位12階制度
604年には 17条憲法制定 馬子は聖徳太子と強調して 改革を実施 622年
聖徳太子死亡 626年 蘇我馬子死亡 628年 推古天皇崩御 馬子の墓 
石舞台 日本書紀に桃原墓に葬った記述から 有力視されている
馬子後継は 蝦夷ー入鹿で 入鹿は乙巳の変で殺害される

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40代 天武天皇 41代 持統天皇 珍しい 夫婦で同じ墓 天皇の業績は上部
に書きました

鎌倉時代 盗掘で墓の内部の状態の文書があり 夫婦共に 遺体は火葬
棺と壺があり 壺は持統天皇の骨が入っているみたい 現在では天皇陵の
発掘は考えられません 見ると 前方後円墳ではありません 
古墳時代ではありません

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高松塚古墳 二度目の訪問 吉野から横浜に帰る途中に訪れました
奈良の宇陀市の民宿に泊まり 明日香に 9時前に到着 古墳横の絵画館は
オープンしておらず 見る事が出来ませんでした

昭和37年に村人がショーガを保存用の穴を掘った時 石棺を発見
まるで 西安の兵馬俑発見の時ににている 発見は同じく農民でした
飛鳥歴史公園の駐車場に入れた時 テントを建ても催しものの風景 多分
入場者が少ないので 本物の壁画の修復を時間制限があるが見せて
くれました
壁画は 発見時から劣化が進み 空調施設をし現地で保存 但しカビ 
水侵入により 絵画が消えかかっているので 11年前 現場から石棺取り外し
駐車場近くに建物を建て 保存作業中 来年ぐらいに完成予定 
絵画館は複製品が展示

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修復作業場建物 ガラス越しに10枚位に分解され 当日は作業はありません
でした
女子群像は修復作業も良く 飛鳥美人 服装もみれます 男子群像 4神
白虎は詳しく見れませんでした 修復作業中腰での作業 忍耐力は必要で
女性の方が中心だそうです

7世紀~8世紀頃の墓で 説では天武天皇の皇子 臣下 朝鮮半島王族説
で不明です

天文図のキトラ古墳の近くに 前訪れた時は シートがかぶされ工事中でした
現在は 工事も終わり公開中 時間が無く行けませんでした

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飛鳥美人群像図 鮮やかな色彩の服

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場所を変えて 桜井方面 三輪山の麓 JR桜井線 纏向駅前
纏向遺跡 正面が 三輪山 未だに 卑弥呼が住んでいた 邪馬台国が
何処かで 九州説と畿内説に分かれ論争が行われていますが 魏志倭人伝
では2000文字の記載あるのみ

畿内説で有望な場所が 纏向遺跡 邪馬台国がヤマト政権になった
王の宮殿跡の発見 3000個以上の桃の種が見つかり 年代測定すると3世紀
頃 卑弥呼の生きていた時代と一致 近くには古墳群があり 土器も発掘
決定的な証拠がありません

中国 司馬遷 史記 紀元前の出来事が記載され この歴史書が無ければ
秦の始皇帝も解らなかった 古事記 日本書紀は7世紀頃に出版
外国 中国 韓国の出版資料に頼るしかありません

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纏向遺跡近く 古墳群の一つ  箸墓古墳 卑弥呼の墓ではないかと
言われています 邪馬台国の場所も不明なので 良くわかりません



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2018.10.13

奈良 信貴山城 多門山城

大阪城に その後大和路 奈良に 以前訪れた 以外の場所を訪れました

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 信貴山真言宗 総本山 朝護孫子寺 信貴山城址
 達磨寺 松永久秀の墓
 法隆寺 正岡子規 鏡池 句碑
 大和郡山城址
 筒井城址
 多聞山城址
 平城京跡

JR関西線 王寺駅から近鉄生駒線 信貴山下駅 又は近鉄信貴線 
信貴山口駅より 生駒の南端 大阪と奈良の県境 信貴山頂上 
朝護孫子寺の空鉢護放 近くに信貴山城祉 

城主は 戦国三梟雄(残忍で強い人)一人 松永久秀 他の二人は 
① 織田信長義理の父 斎藤道三 ② 関ケ原で西軍で頑張るが 
敗戦後 八丈島に50年島流し島で83歳で死亡 宇喜多秀家の父 
宇喜多直家 三人に共通しているのは 主家殺しです

信長が徳川家康に松永久秀を紹介した話 松永が実施した 3悪 
1 主家 三好氏を滅ぼした事 2 室町 13代将軍 義輝の殺害
3 奈良 東大寺 大仏 焼き打ち 凄い話です 信長に 二度目に
許された時 条件として 名器 古天明平蜘蛛を渡せば 
許すと言われたが 器をたたき割り 火薬で 信長が 日本最初の
安土城の天守閣の参考とした 天守閣とも 火薬で爆死

松永秀久 戦国の申し子 室町時代 将軍 足利義政の後継者問題でもめ
家臣 細川勝元と山名宗全が対立 東西に分かれ 1467年 応仁の乱が勃発
約10年 京都で戦乱が続く  地方の守護大名も含め戦国時代に 下剋上で
早川早雲(北条氏)美濃 斎藤道三などが現れる

1530年頃 将軍に仕える官僚 細川高国が 高国 家臣 三好元長に
攻められ自害 三好長慶 相次いで 身内亡くなる 1564年には長慶も
亡くなる 1565年 家督を嫡男 久通と三好三人衆と室町幕府 将軍 
足利義輝を襲い殺害

久秀の大和支配 大和と河内と結ぶ生駒山系の要地 1559年頃 以前の
城址を大改修して 貴信山上に貴信山城を築城

三好と松永久秀の関係は悪化 松永久秀は 15代将軍 足利義昭を奉じて 
織田信長 岐阜城より 上洛 松永久秀は 信長に従う

1957年 信長 金ヶ崎の退き口 信長軍 朝倉義景 攻撃の為に 
金ヶ崎城から一乗谷に 金ヶ崎城で 信長の妹 お市の方 嫁ぎ先 浅井長政
の裏切りを知り信長は京都に脱出を 浅井長政の城は 琵琶湖の東 
やもえず 琵琶湖西を通り京都に 途中 朽木まで来たとき 城主 
朽木元綱が甲冑姿なので 怪しんだ松永久秀が交渉に行き 無事通過 
京都に戻れた 松永 此の頃 信長と良い関係でしたが

信貴山城と同じころ 東大寺 興福寺近くに 多門山城を築城

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信貴山 朝護孫子寺 境内 貴信山 頂上 433M 空鉢護法堂 付近に 
信貴山城が朝護孫子寺 境内

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信貴山城祉 頂上付近 1577年 10月10日 松永久秀 二度目の信長に
反旗 1577年 信長の石山本願寺攻め出陣中だった 松永久秀 突然離脱 
信貴山城にたてこもります 織田軍に 信長 嫡男 信忠 秀吉
細川藤考 明智光秀 筒井順慶が攻撃 最後は松永久秀 
古天明平蜘蛛と共に爆死松永久秀 各地で信長 包囲網が出来 
この時 謀反も大丈夫だと思ったか

何故か 秀吉と柴田勝家 福井 賤ケ岳」の戦いで敗れ 北ノ庄の城に
戻り 勝家と再婚したお市の方の自害と似ています

頂上まで往復 2時間で行けると思いましたが 3時間以上かかりました
戦国時代 山城が多いのですが 兵站など大変だったと思います

201809299

王寺駅 南側 達磨寺 松永久秀の墓 説明では 信貴山城で自害後
筒井氏が 亡骸を此処に葬ったと書かれていました
生前は 筒井順慶と敵対関係だったが 信貴山城 攻撃には
筒井順慶も参戦していました

2018092910

近鉄橿原線 近鉄郡山駅近く 大和郡山城 筒井順慶 興福寺に属しながら 
宿敵 越智氏を滅ぼし 筒井城に 近鉄橿原線 近鉄郡山駅から橿原より 
一つ目に筒井城址が駅付近を捜しましたが見つかりませんでした

筒井城の戦い 筒井順慶と松永久秀との三度の筒井城の戦いで 
松永久秀が勝利 この時大仏も消滅しています 筒井順慶は 
筒井城の改修を諦め 近くの大和郡山城を改修 筒井順慶 
織田信長の援助で 1580年 大和守護になるこの時 信長に
話を通したのが明智光秀で 本能寺の変後 光秀は その後の 
秀吉との山崎の戦いで見方になってくれると期待したが 
山崎近くまで出てきたが 大阪と京都の境 洞ヶ峠で様子見 
洞ヶ峠を決め込むの語源となる 筒井は 1584年 死亡 
大和郡山城は秀吉の命令で筒井家は伊賀上野城に転封

次に大和郡山城 城主は豊臣秀長 大和 紀伊 和泉国 110万石
の城主として 大和郡山城 秀長は秀吉とは異父兄弟で若い頃より 
使え豊臣政権では大納言として政務 軍事的に重要な人材秀吉同様 
跡取りに恵まれず 秀吉より先に大和郡山城で死亡 51歳 彼が
永く生きていれば関ケ原も起こらず 秀吉の豊臣政権が続いてい
たかもしれません 

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世界遺産 法隆寺 JR関西線 法隆寺駅 正面 南大門 修学旅行生が
多くいます 地理的にも大和川を通じて奈良 大和と 大阪 河内を結ぶ 
交通の要所聖徳太子 法隆寺近くに 斑鳩宮を建設し 飛鳥より605年に
移り住む 法隆寺もその頃造営 日本最古の木造建築です 昔 夢殿など
見た記憶あり今回は時間的な制約で 見学は止めました

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正岡子規が明治28年 東京から松山に帰省途中 船中で吐血 神戸の
病院で三ヶ月入院 再び 東京に戻る途中10月に 奈良法隆寺に 有名な句 
柿食えば鐘が鳴る成り法隆寺 句碑は 読んだ場所境内 鏡池にあります
梵鐘は北側にありました
但し 法隆寺上空 伊丹空港に着陸コースになっています 結構うるさい
生駒山 大阪城 右側 豊中IC 森友学園 上空を通過 伊丹空港に 
現地で句を読むと 享年34歳 鶯谷駅近く子規庵で 苦しみながら
亡くなった正岡子規の無念さが感じられます

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近鉄奈良駅の北側 多門山城 南東に東大寺 南に興福寺が 
現在は若草中学が建っています 松永久秀が信貴山城 改修の頃 
1560年 築城開始 1561年には松永久秀 入城 1564年に完成 
三好長慶死後 三好三人衆と松永の関係 は悪化 又 筒井順慶と
三人衆は連立 奪われた筒井城を奪還 1567年多門山城
に対自 三人衆は 東大寺に布陣 東大寺大仏殿の戦いで 東大寺 
大仏 消滅 松永久秀 その後 三人衆 筒井連合軍は 信貴山城も
落城させる

大仏の焼き討ちは二度目です 1180年 源氏が勢いを盛り返し
東大寺 興福寺の寺院勢力と平清盛 息子 平重衡が奈良 南部で
起こった戦いで大仏が消滅しています

窮地の久秀 再び信貴山城を取り返す 信長に従属 筒井順慶も
明智光秀の仲介により従属 松永久秀は15代将軍 足利義昭の
信長包囲網に乗るが 武田信玄の死亡により 計画失敗 信長より
多門山城の明け渡しを命令される

奈良の要所に 二つの城を築城した 松永久秀は最後は自滅し
たが 戦国の申し子

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多門山城の横から 若草山 東大寺大仏殿が良く見えます

時間なく 今回も 唐招提寺 薬師寺行けませんでしたが 次回に
飛鳥にも再度訪れて見たい 知ってくると面白い奈良 


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2018.10.05

大阪城周辺を

大阪城の次 最近奈良に訪れるている機会が多く 今まで行って
いない場所を訪れ 次回に奈良を書きます

大阪城周辺

20180929

 秀吉 大阪城築城前は 浄土信宗の寺院 石山本願寺がありました
 大阪城 秀吉が建設 秀吉死後 関ケ原後 大阪城冬の陣で和睦成立
   条件で外堀を埋め建て 徳川軍は 関係なく内堀も埋め立て裸城に
   夏の陣で敗れ 大阪城は炎上 徳川は城のあった場所を埋め立て
   新しく城を築城 秀吉の城の遺構は埋め立てられています
 大阪歴史博物館
 難波宮 大極殿跡 645年~655年 飛鳥京より
 越中井 細川屋敷 ガラシャ死亡場所

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大阪歴史博物館 立派な建物 上部より 大阪城公園 難波宮公園が
良く見えます 難波宮跡から出土した陶器等が展示されています

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大阪城の南側 難波宮大極殿跡 発掘により建物の柱の跡でしょうか
前期難波宮 645年 考徳天皇が 飛鳥京より遷都 655年には 考徳天皇
の死亡により 再び飛鳥京に戻りました

後期難波宮 726年 聖武天皇が再び 平城京の副都として 難波宮を造営
その後 紫香楽京に遷都 744年には桓武天皇により長岡京の遷都
建物は長岡京に移築

201809293

日本 主な遷都

 藤原京 奈良県樫原市 694年~710年
 平城京 奈良県奈良市 710年~784年

  以前訪れた 藤原京 平城京

 難波京 大阪市 645年~655年 661年~667年
 長岡京 京都府長岡京市 向日市 784年~794年
 平安京 京都市 794年~1860年 途中 南北朝時代あり
 皇居 東京都千代田区 1860年~

201809294

大阪歴史博物館 10階より 大阪城公園 大阪城が良く見えます
正面の入口 大手門 多門櫓 奈良で松永久秀が築城した 多門山城
そこで建設された 多門櫓 その後戦国時代 築城で多門櫓が創られる
事が多くなった 彦根城にもありました 現存天守

城郭は 徳川時代に築かれたもの 秀吉の城郭は地下にあります

大阪城 南側には 大阪城夏の陣で城が炎上 秀頼の正室 徳川二代将軍
秀忠の娘 千姫を徳川に返し 秀頼 淀殿が逃げ込んだ櫓その後自害した
場所に 碑が

そういえば 幕末 鳥羽伏見の戦いで 負け 最後の将軍 慶喜が逃げ込んだ
城も大阪城 その後 部下を置き去りにして 大阪湾にそこから江戸に
逃げ帰りました

201809295

石山本願寺模型 大阪歴史博物館にて

豊臣秀吉 大阪城が完成するのは 1583年 それ以前 大阪城の場所に
浄土真宗本願寺(一向宗)11代門首 顕如と織田信長との戦いが此処で
10年近く戦う

紀州雑賀党 毛利 村上水軍が参加 講和の後 本願寺は紀州に
信長の 一向宗の攻撃 柴田勝家 前田利家による越前一向一揆の虐殺
三重 長島でも虐殺 信長 比叡山での虐殺も有名ですが

信長 安土城の次に 石山本願寺の跡地に城を築城を考えていたが 本能寺
の変にて 夢はかなわず 信長の部下 秀吉が築城

201809296

越中井 細川屋敷の台所にあった井戸の場所 
大阪城の南 豊臣秀吉の恩顧の大名屋敷があり 細川越中守忠興 正室
細川ガラシヤ 明智光秀 三女 玉 信長死後 改宗 キリシタンに

秀吉は伏見城で1598年 死亡 伏見城には 徳川家康が入り 大阪城には 
秀頼 淀殿が 五大老の一人 上杉景勝が帰国後 家康に謀反の疑いかけられ
直江兼続が徳川批判の直江状を送られ 激高した家康 上杉征伐 会津若松に
東軍 反石田の武将が参戦 小山まで来た所 西軍 大阪城下 東軍側の屋敷
を襲い 人質に その様な中 細川屋敷で事件が 細川忠興は東軍側に 上杉
征伐に参戦 ガラシヤ キリスタンの為に 自殺出来ず 家臣が殺害
父親が 光秀なので複雑です

細川忠興の父 藤考 明智光秀 本能寺の変起こす時 最も頼ったのが 藤考
光秀と藤考 室町幕府 最後の将軍 15代将軍 義昭 二人が織田信長に紹介
信長も上洛出来た 光秀は藤考に協力求めると藤考は家督を忠興に譲り協力を
拒否 田舎に戻ってしまう 本能寺の変後 1582年 秀吉と光秀が山崎で戦いに
光秀が負け 山崎の南側 勝竜寺城 此処は 細川ガラシアと細川忠興が結婚
式を挙げた城 光秀は滋賀 坂本城に逃げ帰る途中 伏見近くの竹やぶで
武者狩りにあい 殺害される

1582年 山崎の戦い 

加藤清正などは 熊本に帰る時 正室を密かに連れて帰る 又 偶然 西軍に
参加した 薩摩 島津義弘など 敗戦後 敵中突破して 大阪城で人質になった
正室を助け出し 海路 鹿児島に帰っています

東軍はその後 小山裁定で西に引き返す 福島正則の城 愛知 清州城に
岐阜城を攻め 中山道 赤坂宿に 家康 遅れて到着 西軍 大垣城と対自
関ケ原に西軍 東軍の 天下分け目の 関ケ原の戦いに

1600年 関ケ原の戦い見に行く

越中井 近くに カトリック玉造教会 高山右近とガラシャの銅像が

以前 天王寺駅から大阪城まで歩いて 真田丸など見ましたが 教会は
あるのは知っていましたが 大阪は平らな場所とのイメージでしたが
上町台地結構アップダウン が厳しく 寄れませんでした
地下鉄 谷町線で駅 四つ もー歩けないな

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先月 27日 関西空港に 第一ターミナルに 21日全面オープン
電車も通常どうり 運行されていました 空港からはリムジンバスで
連絡橋 片面が通行止め 一般の乗用車通行禁止 空港よりパイロンで
中央 仕切られ 渋滞はありませんでした

台風21号で被害をうけた道路は本当に取り外されていました 
台風24号は無事でした 25号も大丈夫そうです

大阪城で文書長くなったので 奈良編は次回に

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