2018.07.16

東京都港区 三田 高輪 白金 

来年 4月30日 現天皇は退位 上皇に 現皇太子は5月1日に天皇に
東宮御所の天皇は皇居に移られ 上皇は東宮御所に移られるが
準備の関係で 高輪にある 旧高松邸 高輪皇族邸に 改修工事が
始まったとのニュースで 見に行って来ました その他 港区で
気になった場所も見てきました 上皇に即位 200年ぶり 東宮御所は
仙洞御所に 京都の御所内にも 上皇用 仙洞御所が残っています

東京都港区 南部めぐり

201807131

① 薩摩藩上屋敷 現 NEC本社
② 江戸城 無血開城 西郷 勝 会談場所 現 三菱自動車
③ 40年ぶり 山の手線 新駅 品川駅~田町駅
④ 高輪大木戸跡 ⑤ 東海道 現 第一京浜 ⑥ 江戸日本橋方面
⑦ 横浜方面 ⑧ 慶應義塾大学三田キャンパス ⑨ 泉岳寺
⑩ 明治学院大学 息子の嫁 出身校 ⑪ 八芳園 息子夫婦結婚式場
  嫁さんの影響 ⑫ 大石良雄外16烈の碑 細川藩邸跡
⑬ 旧高松邸 上皇仮御所

品川駅 品川区と思いましたが 港区でした 近年 新幹線側に
リニア新幹線の駅の工事も始まり 品川駅と田町駅間に新駅 建設中

品川駅南側 目黒川河口に品川湊が 幕末 鳥羽伏見の戦いで敗れた
幕府軍 大阪城に逃げかえたのですが 将軍 慶喜 大阪城から
秘密裡に戦艦 開陽丸で江戸に 築地近く 浜離宮に上陸 その後
慶喜 上野 寛永寺で謹慎 

残された 新撰組 局長 近藤等は伏見で銃撃を受け怪我 沖田総司
は結核で 残りのメンバーで 同じく大阪湾より富士山丸で品川湊に
上陸後 近くの品川宿 釜屋に投宿 幕府より軍資金 武器をもらい
甲府城を乗っ取る為に 山梨に 近藤等はその後 流山で投降 斬首
土方歳三は 仙台まで北上し 榎本艦隊で函館 函館戦争に

榎本艦隊 宮古経由で函館に出発したのは 品川沖です

港区 元は大名屋敷が多数あり  勝海舟などは静岡に行くまで 赤坂
に住んでいました 幕末時 日米修好通商条約 締結で 横浜開港
長州攘夷派 高杉晋作などが 品川駅近く 御殿山のイギリス大使館 焼き討ち
事件が 又 東京タワー近く 赤羽橋付近で ヒュースケン殺害事件が
明治期になり 大名屋敷は 華族の屋敷に 戦後は
プリンス系ホテルが買収 品川駅前 高輪 芝公園にあります

日米修好通商条約で 下田にいたハリス 麻布十番 善福寺にアメリカ公使館
が設置 その関係か知りませんが 港区には 各国の大使館が多い

又 東京のキーステイション 放送局は 国営NHKは渋谷ですが
民放は全て 港区です テレビ東京 以前訪れた時 麻布でしたが
何時の間にか 同じ港区の六本木に移っていました

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201807133

地下鉄銀座線 三田駅 NEC本社ビル 薩摩上屋敷跡 広大 サッカー場
14面 主君 島津茂久の父 久光が幕政改革の為 700人で江戸に
帰路 薩摩屋敷より 薩摩に 屋敷の前は 東海道に途中 横浜 生麦で行列
の阻害した イギリス人 4人に切りかかり 1人死亡 生麦事件に 後日
英国に鹿児島を攻撃されています

久光 江戸に来るとき 1862年 京都 伏見 寺田屋で薩摩 過激勤王志士 
6人 久光の命により殺害 過激です

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江戸古地図 薩摩屋敷 薩摩蔵屋敷 東海道を挟んであります
蔵屋敷の後方 現在はJRの線路ですが 当時は東京湾
江戸城 日比谷公園付近まで海 現在は埋立地

201807135

江戸城無血会談 西郷隆盛と勝海舟が江戸城受け渡しの為に会談 
薩摩蔵 1868年 庄内藩により 薩摩屋敷襲撃され 焼失
薩摩藩 西郷隆盛の命により 藩士 伊牟田尚平 益田休之助が
江戸市中で 放火 掠奪 暴行で幕府を挑発 幕府 庄内藩が
薩摩屋敷を襲撃 焼失させる 大政奉還後 西郷が幕府を挑発
させたのが真相 城兵は品川湊に逃げ船で避難
会談は 薩摩屋敷が焼失していたので 海岸の薩摩蔵で行われ
ました

西郷 勝会談の前に 慶喜の命を受けた 家臣 山岡鉄舟と益田休之助
が進軍してくる 西郷と勝の命を受けた 山岡 駿府城付近で会談前
の条件闘争を 薩摩藩 勝海舟の知り合い 益田休之助がいなければ
駿府にたどり着けなかったと思う

201807136

地下鉄 泉岳寺駅 近く 第一京浜に高輪大木戸跡 1724年に建設
東海道に夜間は通行止めに

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品川駅~田町駅間に1971年西日暮里駅後 30番目の山の手線の新駅
が建設中 品川車両基地内に 地下鉄 泉岳寺駅近く 2020年に開通
予定 駅名 西日暮里であれば 北品川(京急にあった)地名からは
高輪駅だと思います

201807138

私学の雄 早稲田の双璧 慶應義塾大学三田キャンパスに
以前 故田中角栄宅見に行ったついでに 高田馬場の早稲田に 
慶応正門前 早稲田の学生と比べて学生 おしゃれに見えるのは
私だけでしょうか 正門隣に ラーメン二郎 三田本店が歳なので
大盛風 ラーメン食べた事はありません 好きな人は多い

甥は工学部出身 横浜 日吉キャンパスでした

201807139

赤穂浪士 泉岳寺 四年前 本所 吉良屋敷から泉岳寺まで歩きました
18km 5時間 モー無理だな 三回目なので今回はパス 反対運動の
マンション建設されていました

泉岳寺 右側 東海大学付属高校 後方 上皇仮御所の隣 大石良雄
(内蔵助)外16人 忠烈の碑 討ち入り後 幕府は 47士 6?4藩のお預け
になり  大石内蔵助良雄外16人は細川藩に預けられ 切腹 位置的には
泉岳寺の裏あたりです 切腹後 泉岳寺に埋葬 カーナビでは見つけられ
ませんでした

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現在天皇陛下 退位後 現皇太子の住居 東宮御所に転居するのですが
リフォームの為に 一時的に 高輪の旧高松邸に転居 ニュースで工事が
始まったとの事 港区も坂が多い タモリが好きそうな 魚藍坂登り
右側 植物が多く 概要は良くわかりません 門の前には工事用の簡易
宿舎が建てられていました

帰りは 明治学院大学を回り 八芳園に その先が 目黒通り いわゆる
白金 シロガネーゼ 高級住宅街 地価が高いのか コンビニもない
無機質な住宅街で 転んでも住めない場所でした

来るときは 横浜新道 羽横線 首都高で来ましたが 帰りは 目黒通り 
第三京浜で自宅 高速料金 1/3でした

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2018.06.27

函館戦争 土方歳三 高田屋嘉兵衛 函館に

函館に 幕末 函館戦争跡見に行きました
以前 出張時 五稜郭 中島親子 土方歳三 最後の地
を見てきました 今回は 函館戦争の地 渡島半島 木古内 松前 
江差を周って来ました 函館市内 又 高田屋嘉兵衛を巡って
来ました 土方歳三 高田屋嘉兵衛も司馬遼太郎の作品にあり
燃えよ剣 菜の花の沖があります 今回 燃えよ剣の下巻
函館戦争のみ 再度 読みました

新撰組 鳥羽伏見の戦いで 新政府軍に敗れ 京都より幕府軍の
船で江戸に戻る 近藤等らは 幕府より大砲 銃 資金を受け
甲州 甲府城を確保の為に 勝沼方面に 官軍 東山道部隊と戦うが
負け 近藤 土方は千葉 流山に 地元の屋敷借り人員も集めるが
この付近も官軍に囲まれる 近藤は偽名を使い投降 近藤と見破られ
板橋で斬首される 板橋駅近くに 永倉新八が建立した碑があります
永倉 甲州から江戸に戻った時 新撰組を抜け その後結婚した
奥さんの実家 小樽に 昨年訪れました
奇遇です 永倉 代々 松前藩江戸で務めているので 北海道の
松前藩は 知らなかったと思います
新撰組 組長1~10番で明治期まで生き残ったのは
永倉新八 斎藤一 鈴木三樹三郎のみです 

流山で分かれた 土方は 幕府の歩兵頭 大鳥圭介と知り合い
宇都宮城を攻撃 城を確保 その後 会津経由で仙台に 城主
陸奥守慶邦に幕府の存続をとく 江戸城無血解放後 新政府軍は
幕府の船の引き渡しを求めるが 海軍副総裁 榎本武揚が家臣を
蝦夷地に移住させ 独立国を画策 1868年 明治元年8月19日 
旗艦 開陽丸 戦艦4隻と輸送船4隻 8隻で蝦夷地目指し 品川を
出港 8月26日 仙台に入港 元京都守護職 会津藩主 松平容保
の弟 桑名藩主 松平定敬 土方 大鳥などを乗船させ 10月9日 
宮古湾経由で蝦夷地 函館北 鷺ノ木に 10月21日に乗員 
3000人が上陸

函館戦争 木古内 松前 江差

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 1868年明治元年10月 いか飯で有名 近くの海岸 鷲ノ木海岸
  に旧幕府軍 品川より 榎本艦隊 3000人 上陸
 
 五稜郭 上陸軍 五稜郭奪還の為に 大鳥隊は七倉 土方は湯の川
  経由で五稜郭に 10月24日 五稜郭 接収

 湯の川温泉 空港近く

 1869年明治2年 4月 新政府軍 江差北部 乙部に1500名上陸
  函館までの進軍ルート3方向より進撃 江差から北斗方面の途中
  台場山付近 函館より駆け付けた 土方軍 塹壕を掘り待ち構える
  二俣口付近で 新政府軍と戦闘に しかし他のルート 松前 木古内
  のルート突破された為 土方軍は 五稜郭に後退 国道227号走り
  ましたが 古戦場の跡は見つけられませんでした

 木古内の戦い 鷲ノ木海岸に上陸後 五稜郭を落とし その後蝦夷地
  唯一の藩 松前藩 奪還の為に 土方を隊長とした 700名で松前に
  進軍 武器の違いにより 松前藩兵は江差方面に敗走
  その後 乙部に上陸した 新政府軍と旧幕府軍 大鳥圭介が木古内で激突
  新政府軍が勝利 戦場は函館 五稜郭に移る

  木古内でも古戦場の跡 発見出来ませんでした
  北海道新幹線 東京から新函館北斗駅まで開通しているのですが
  津軽海峡沿いに 線路あるはずですが ほとんど高架は見えません
  木古内で少し高架が見えるだけでほとんどトンネルで 木古内の先
  福島町で青函トンネルで 実感ありません 将来 札幌まで延長して
  東京ー札幌 5時間を目指すそうですが 飛行機の方が便利そう
  それより JR北海道の廃線問題の方が心配です

  木古内近く 北島三郎さん生家の看板多数見かけました

 松前城 松前藩 始祖は武田で 蠣崎氏の代 1599年 大阪城で
  徳川家康に拝掲し 蠣崎から松前に改名 松前慶広に 1604年
  家康より 蝦夷地交易の独占を安堵する黒印状を受ける
  1867年にクーデターにより 松前藩は勤王派に転じ 旧幕府軍の
  襲撃に備え 北部内陸に舘城を築城
  1867年10月 五稜郭を占領した土方歳三を隊長とした旧幕府軍に
  陸 海上より攻撃を受け落城 城兵は館城に避難

 松前藩 内陸に築城した 館城 国道277から内陸で探しましたが
  見つかりませんでした

 1869年 春 旧幕府軍がたてこもる五稜郭の北部に 新政府軍の
  攻撃に備えて 突貫工事で四陵郭を建設 近くには 権現台場も
  五稜郭も新政府軍の艦船からの艦砲攻撃で被弾

 江差 日米親和条約で開港した函館港まで 江差港が最大でした
  北前船の廻船問屋が多数ありました

 江差 北部 官軍上陸の地 1869年 明治2年4月9日未明 官軍上陸
  明治元年 品川 榎本艦隊出船後 蝦夷地上陸 翌年 青森に 甲鉄
  春日 朝陽 軍艦 8隻が集結 15000人の兵で乙部に上陸

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木古内の手前 サラキ岬に 咸臨丸 終焉の地の碑

オランダで製造された 軍艦 1860年 日米修好条約 批准書交換の為に
正史一行 小栗忠順 等 アメリカの軍艦で 別艦として 勝海舟 船長で
咸臨丸がサンフランシスコに 三浦半島 浦賀より 出港
咸臨丸 品川より蝦夷地に向かう 榎本艦隊に同行 銚子沖で暴風雨で漂流
下田港に漂着 その後 清水に 新政府軍に接収される 1871年 旧伊達藩の
家臣401名 北海道小樽に向かう途中 キサラ岬で遭難 大破で沈没

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松前城 北海道 唯一の和式城郭 天守閣と火災から残った本丸御門
11月5日 土方歳三が率いる 旧幕府軍 700人が松前城を攻撃 津軽海峡
より 軍艦が城を艦砲射撃 数時間で落城

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津軽海峡 海岸にある道の駅から松前城 凄く近い 艦砲射撃すれば
城は破壊される

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江差湾 鴎島にある 復元された 榎本艦隊 旗艦 開陽丸 大きい
実物大に復元? 幕末 鳥羽伏見の戦いで 幕府軍が敗れ 大阪城にいた
最後の将軍 慶喜 秘密裡に 大阪湾から江戸 浜離宮まで逃げ帰った船
松前城 攻撃にも参戦 その後 江差に進軍 11月15日 江差沖で 座礁
他の船の助けで座礁から離脱に失敗 機関長の中島三郎助が大砲を撃ち
離脱を試みたが 失敗 数日後 沈没 この後 函館での戦いになるのだが
旗艦失ったのは 戦局に大きく影響

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戦後 沈没場所 江差沖から 引き上げを開始 船内には引き上げられた
大砲 砲弾 船舶部品 3万3千点 防塩処理され 綺麗に保存されています

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甲板より

函館戦争 函館市内 高田屋嘉兵衛

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 五稜郭の北部に 新政府軍の攻撃に備えて 突貫工事で四陵郭を建設 
  近くには 権現台場も

 五稜郭 日米和親条約 締結で函館港が開港 江戸幕府は松前藩に代わり
  函館奉行を設置 1857年 陵堡式 城郭を建設開始 場内には函館奉行所
  を移転 1866年には工事終了 1868年 榎本武揚率いる 旧幕府軍
蝦夷地 に上陸 五稜郭を接収 

 五稜郭~八代ヶ岡陣屋~一本木関門跡 地図 
  五稜郭 中島親子 土方歳三 最後の地

 土方歳三 最後の地 一本木関門 1859年 5月11日 新政府軍 総攻撃
  の日に戦死
  一本木関門 五稜郭~函館山の一番狭い場所に関を設置

 函館市内 激戦地 地図
  前 称名寺 新撰組 駐屯地 現 函館元町ホテル

 弁天岬台跡地 開港時 函館警備の為の 六角形の台地 
新撰組などが守備

 称名寺 土方歳三 供養塔 日野の寺 過去帳に称名寺に供養塔があると
  書かれていたが 見つからなかったので新たに設置

 高龍寺 函館戦争時 旧幕府軍の野戦病院と使われる

 碧血碑 旧幕府軍 函館戦争で死亡した 土方歳三 中島三郎助 800名
  の慰霊碑 函館山 中腹に 結構疲れました

 高田屋嘉兵衛 地図

   高田屋嘉兵衛 屋敷跡 市電通り 函館山方面に銅像があります

司馬遼太郎さん 菜の花の沖 6巻 過去に読みましたが ストーリー
よく覚えていません

兵庫 淡路島生まれ 神戸で船乗りになり 北前船で商売 蝦夷地まで航路
を広げ 函館を拠点として商売 日本海沿岸の港 北前船で繁盛 庄内
酒田に行った時は 山形なのに京風文化の料亭ありました 北前船 蝦夷地
からの積み荷は 当時大量に捕れた ニシン これが カイコ 桑 綿花
の肥料になり繁盛しました 函館中心に商売していた 高田屋嘉兵衛
蝦夷地周辺 ロシアの進出で関係が悪化 そのよう時 国後島で 軍艦
ディアナ号 船長 ゴローニンが捕らえられる その様な時 高田屋嘉兵衛
は蝦夷地 北方ルートを開拓 択捉島で 高田屋嘉兵衛はロシアにだ捕
カムチャッカに連行され 高田屋嘉兵衛はロシア語を学び ゴローニン解放
に努力 函館でゴローニンは解放される  高田屋嘉兵衛もその後解放される
高田屋は子孫が商売するが その後は没落する

 高田屋嘉兵衛 資料館 目の前は赤レンガ倉庫群
   函館港 付近には 高田屋の造船所もあったようです

   黒船 ペリー 下田港だけでなく函館港も上陸していました

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路面電車 大町駅 近く 現 函館元町ホテル 明治12年の大火まで称名寺で
新撰組の屯所でした 京都でも 壬生の屯所が狭くなり 西本願寺に移りまし
た が フィクション 小説で 港近くで 旧幕府軍 最後の戦い前に土方歳三
手紙を書くシーンがあり 此処かな 手紙は 新撰組 江戸で隊員募集した時
入隊した 市村鉄之助 土方の小姓となり 手紙 佩刀 和泉守兼定 唯一
現存する 土方の写真 遺品は 市村により日野 土方歳三
の姉が嫁いだ 佐藤彦五郎 に届けられる 写真には 市村の歯形
が残っていました 遺品は 日野の土方歳三 資料館に展示されています

  元町 港町ではよくある地名ですね 横浜 神戸 函館

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   路面電車 終点 函館ドック駅 終点 弁天岬台場 新撰組最後の地
旧幕府軍 戦艦はほとんどはなくなり 一本木関門で5月11日土方が戦死
5月18日 旧幕府軍 降伏 閣僚で亡くなったのは土方のみ 榎本 大鳳
などは 新政府軍に登用されています

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    称名寺 元町より移転 土方歳三の供養碑 高田屋嘉兵衛の墓がある

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   高龍寺 函館総攻撃時 旧幕府軍の野戦病院として使われる

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    碧血碑 旧幕府軍 函館戦争で死亡した方を弔う為の碑

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    高田屋嘉兵衛 邸宅跡

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    高田屋嘉兵衛 資料館

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    函館港 赤レンガ倉庫群

先日 5月26日 歴史小説家 和歌山市出身 津本揚さん 享年89歳
亡くなりました お悔み申し上げます


 

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2018.05.25

防府 山口 萩 歴史散歩

防府 山口 萩に行って来ました

毛利氏 毛利元就 守護大名 大内氏の傘下に入る 室町時代 京都
で内乱 応仁の乱 西軍に 山陰の山名氏 大内氏が参戦 大内義隆
に離反した家臣 陶晴賢に討ち取られるが 毛利元就 隆元 吉川元春
小早川隆景 三兄弟が厳島の戦いで奇襲により 陶晴賢を滅亡させる 
その後 出雲の尼子氏も滅ぼす 広島 島根 山口 領土とします

豊臣秀吉 死後 西軍と徳川家康 東軍の関ケ原の戦いになり
西軍 大将 毛利輝元 大阪城に陣取り 戦いには参加せず
小早川隆景 子供無く 秀吉の妻 甥 秀秋を養子にもらい
関ケ原では 最後に西軍を裏切り 東軍勝利の立役者になる
吉川広家などは東軍と通じ家康本陣 後方 南宮山に陣取るが
戦い終わるまで 動かず 家康とは 領土安堵の密約も 西軍の
敗戦後 毛利家は 112万石から 周防 長門の二国 吉川広家に
なる予定でしたが辞退し 毛利輝元 引退し 秀就が 萩に城を造り
広島城から萩城に移り 29万8千石に減封し 長州藩に

その時の恨みが 幕末 尊王攘夷 徳川幕府 滅亡の戦いに

2018051920

① 萩 1600年~1863年まで 防衛上 京都 江戸への交通上の
  理由から 山口に移る 山口藩庁 
② 山口 1863年~山口藩庁 大内館跡 
③ 防府 三田尻港 防府毛利邸

 下関 長府毛利邸 高杉晋作終焉地 騎兵隊発祥の地
  四国艦隊下関砲撃事件

 岩国 岩国城址 吉川家居城 錦帯橋 長州征討 芸州口

黒字 今回訪問 赤字 前回訪問

201805191

防府毛利邸 現毛利庭園 博物館 明治維新後 旧長州藩藩主毛利家
井上馨が発案で建設 中は毛利藩の博物館になっている 山口県には
防府だけでなく 下関近くに 長府毛利邸もあります

201805192

防府 瀬戸内海 三田尻港 幕末の小説には良く登場します
江戸時代 萩と長府 三田尻間にはほぼ直線で結ぶ全長53km
の萩往還の道路がありました 大阪 などの交通は此処から
船で行ったのでしょうか 近くには 旅籠 晩天楼があり
坂本龍馬 高杉晋作 木戸孝允 伊藤博文などが密談を

201805193

山口市に室町時代 守護職 大内氏館跡 現龍福寺 朝鮮との貿易
で財をなす 館は京都風 山口文化が生まれる キリスト教も許し
ザビエルも訪れています 大友義隆の時 陶隆房と対立 1551年
謀反により 義隆は自害 大内氏は衰退 滅亡

201805194

山口 瑠璃光寺 五重塔 1442年建立 山口市唯一の国宝 山口文化を
感じる 塔です

201805195

山口 香山園 毛利家墓所 瑠璃光寺の隣

萩より山口に藩庁移転後の毛利家の墓所 幕末 長州藩13代藩主
毛利敬親 夫人 子 元徳の墓がある

13代藩主時代 敬親 激動で 禁門の変  下関 4国艦隊による襲撃
藩内 保守派と討幕派との争い 第一次長州征伐では3家老切腹で和解 
その後二次征伐では 幕府と長州の全面戦争 王政復古による薩長と
幕府の鳥羽 伏見の戦い 

家臣の意見に対して異議を唱えることがなく、常に「うん、そうせい」
と返答していたため「そうせい侯」と呼ばれた 

吉田松陰 門下生を信頼していたのか

201805196

山口 香山園内 沈流亭 山口市道場門前 安部氏宅離れにあったが
1902年に此処に移築

蛤御門の変で薩摩と長州が対立 慶応3年 1867年 9月 薩摩藩士
西郷隆盛 大久保一蔵 小松帯刀 大山格之介 長州藩 木戸考充
伊藤俊輔 品川弥二郎が薩長連合の話し合いが行われた 沈流亭

201805197

山口県庁前 山口藩庁跡 1863年に 13代毛利敬親が 1600年から
藩庁を置いていた 萩より山口に 萩城の後ろ 日本海 防衛上
の理由? 本当は 萩より防府まで遠い 中間の交通上 山口に
移したのが本当の理由?

県庁の裏が 瑠璃光寺 毛利家墓所

201805198

萩に 20年位前 家族で 山口宇部空港からレンターカーで一般道で
秋吉台 萩に 当時は歴史に興味なく 何となく萩に行きました
今回 改めて 行くと 歴代総理大臣 8人輩出している関係か
ほぼ 高速道が出来ていて それも無料です 萩は遠くなかった

萩市街地図

東光寺 1600年に毛利藩 萩に移ってから 歴代藩主5人の墓
蛤御門の変後 幕府は第一次長州征伐を実施 藩主 毛利敬親
親子に謹慎を命じ 家老三人に切腹を命ずる 三人の墓もあります

201805199

東光寺の横に 吉田松陰の墓 周りには 久坂玄瑞(京都御所 
蛤御門の変で死亡) 玉木文之信 松陰 伯父 高杉晋作 吉田捻麿
久坂 高杉と共に松陰門下の三秀の一人 京都 池田屋事件
新撰組に襲われ 死亡
他 関係者の墓が多数あります

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墓の隣 吉田松陰誕生地 銅像が建てられています
此処から 萩の街が良く見えます

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玉木文之進旧宅 松陰の叔父 松下村塾 創立者 松陰幼い頃
松下村塾で厳しく教育を受ける 後に 乃木稀典も教育を受ける

松下村塾近く

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何時の間にか世界遺産になった 松下村塾

吉田松陰 9歳で藩校 明倫館の兵学師範に 11歳の時 藩主 敬親
に講義 

1854年 黒船 ペリーが日米和親条約の為に伊豆 下田に寄港
下田に 松陰と金子重之輔と二人で 黒船に小舟で行き 密航を頼む
が拒否され 下田奉行所に自首 一時は死罪の予定でしたが 
老中の助命で 長州 萩 戻され 野山獄 岩倉獄に投獄される

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吉田松陰 幽囚ノ旧宅 松下村塾の隣 大きな家です

1855年 出獄を許され 杉家 幽囚ノ旧宅に移る 1857年 伯父
玉木文之進が主宰していた 松下村塾を受け継ぎ 塾には 久坂玄瑞
高杉晋作 伊藤博文 山縣有朋 吉田捻麿 前原一誠 品川弥二郎 等が
入塾

1858年 幕府が日米通商条約を締結すると松陰は激怒 老中暗殺まで
言い出し再び 長州藩は 野山獄に投獄される
1859年 江戸に監送され 小伝馬町の牢獄に収監される その後斬首される
享年 30歳 松下村塾で塾生に教えたのは 1年あまりでした

2018051914

萩の街 中心部にある 藩校 明倫館 吉田松陰も幼い頃 兵法を
教えていました 出身者には 桂小五郎 高杉晋作 長井雅楽 乃木希典
がいます
水戸藩の弘道館 建物比べても大きい

2018051915

萩 武家屋敷 高杉晋作 誕生地 この付近は 昔の地図と変わら
いそうです

市内には 伊藤博文旧宅 久坂玄瑞誕生地 前原一誠旧宅 
山県有明誕生地 などがあります 時間なき為見れませんでした

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萩城近く 武家屋敷 上級武士屋敷でしょうか 高杉家とは家の大きさ
が違い 邸宅です

2018051917

萩城下 西側 半島 後ろは日本海 関ケ原の戦い後 周防 長門に減封
毛利輝元 広島城より移り 萩城 築城 1863年 毛利敬親が幕府に無許可
で 山口に移る

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東萩駅近く 岩倉獄 黒船 下田に来航時 密航目的で 吉田松陰と
金子重之輔が黒船に接近 密航を断られ 下田奉行に自首
二人は 萩に送り返され 金子は岩倉獄に この獄は士分以下の身分の者が
投獄される 途中病死 享年 25歳

吉田松陰生誕地に銅像ありました 松陰の横の人物 金子重之輔でした

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岩倉獄の道を挟んで前 野山獄 金子と同様に下田で密航 吉田松陰
士分以上の身分なので 野山獄に 此処で松陰は囚人を教化
その後 松下村塾の隣 幽囚ノ旧宅に移り 塾では身分に関係なく
藩士を教育 どの後の発言がもとで 再度 野山獄に その後
江戸 小伝馬町の牢獄に送られ 斬首

長州藩の狂気的な行動 革命は狂気と思う

萩は遠い 鉄道は 山口駅からは無く 山口線 SLで有名な路線
萩ではなく 津和野経由 島根の益田駅に 新山口駅よりバスが良い

帰りは 現役時 5-6回 出張で行った 萩 岩見空港に 萩からは
山陰線で益田経由で空港に 岩見は出雲空港の方が近い

東萩駅から山陰線で益田駅まで 1時間 但し2時間に1本
益田駅前 以前泊ったホテルそのまま 以前と変わりなし 空港は記憶
ありません 当時と比べて 羽田便 1~2便になっていました


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2018.04.20

大阪 堺 仁徳天皇陵?に

先月 奈良に行きましたが 関西空港は満席で伊丹空港に
墓参りに行きたがったのですが 今月 再度 関西空港に
帰りは 伊丹空港より羽田に
伊丹までのルート JR阪和線で天王寺駅 又は 南海本線で
難波に そこからリムジンバスで伊丹空港に

日本最大の16代仁徳天皇陵 百舌鳥古墳群 JR阪和線 百舌鳥駅
にある事を最近知りました 何度も通過してのに

仁徳天皇陵(最近は不明なので 大仙陵古墳と言われていますが)
装飾されていた埴輪などから 5世紀だといわれています
なにせ 宮内庁管理なので調査はされていません

規模から 世界3大巨大陵墓の一つになっています
エジプトのピラミットは別にして 秦の始皇帝陵は見ました
世界遺産になる前は陵に登れたのですが 現在は登山禁止
始皇帝陵から少し離れた場所で近年 農夫が兵馬俑を発見
兵馬俑に行った時 この農夫がサインした書物を売ってい
ました(笑

201804205

秦の始皇帝陵

大仙陵古墳は堺市 同じく前方後円墳で 大阪府東 羽曳野市
に規模は半分ぐらい 日本二番目の誉田御廟山古墳があります

不思議だな 古墳時代の都 奈良飛鳥にありましたが
生駒山系に挟まれた 奈良 ヤマト政権が 周辺の豪族を
支配下に入れ 堺 泉北も影響化に 大阪府に古墳が建設された
た 大和川が関係しているのか

201804201

仁徳天皇陵? 今まで見た天皇陵から比べると巨大 山の様
南北 840M 東西 654M 周囲 2718M

201804202

前方 堀の部分

201804203

全体の規模 高い場所がないので見る事は出来ません
函館の五稜郭の様に タワーがあると実感できるのだが

百舌鳥駅から陵に沿って三国ヶ丘駅まで歩きました 1Km巨大です
後円の部分は確認できませんでした

この後 天王寺駅から地下鉄で 谷町四丁目 大阪城南側
灘波宮跡 大阪歴史博物館に行く予定でしたが 久しぶりに
歩いたので疲れました 今回はパスで 三国ヶ丘駅から
南海高野線で難波に

201804204

難波 一芳亭 本店に シューマイ 唐揚げが有名ですが 
豚天ぷら二人前とビール 久しぶりに食べましたが やはり
美味しい


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2018.03.27

奈良 古代史 見に行く

古事記 710年 日本書紀720年に登場する 古代 大和朝廷 奈良に
最近 現代訳 古事記を読み始めましたが 神話が中心です
私の守備範囲は 平安後期~幕末です これ以上 私の頭脳
が受つけないのですが 神話 皇室の 古事記に興味 日本神話
天皇記 の奈良 行って来ました

奈良駅 東側 観光どころ 東大寺 興福寺 奈良公園は行かず
藤原京跡 平城京跡 橿原神宮を見に行きました

古事記読みましたがよくわからない とりあえず奈良に

2018032412

 平城京跡  JR奈良駅 ③ 東大寺 ④ 興福寺
⑤ 三輪山 大和 原始信仰 ご神体 ⑥ 大和郡山城 豊臣秀吉 弟 
秀長の城  橿原神宮  神武天皇陵  橿原考古学研究所付属
博物館 ⑩ 飛鳥 (飛鳥京跡 高松塚古墳 キトラ古墳 石舞台古墳)
⑪ 貴信山城址 (松永久秀 最後の城 織田信長に攻められ爆死)
 藤原京跡 ⑬ 斑鳩 (7世紀 聖徳太子 第33代 推古天皇が創設
法隆寺 ⑭ 唐招提寺 薬師寺 ⑮ 赤坂千早城 後醍醐天皇を奉じて
千早城で楠木正成で挙兵 鎌倉幕府滅亡に ⑯ 大和川 大阪湾に流れる
大阪 堺市 百舌鳥古墳群 日本最大の 第16代 仁徳天皇陵があり
大和朝廷から此処まで 大和川が流れているかな 不明?

赤丸数字 今回訪れた場所

古代日本年表

縄文時代ー弥生時代ー古墳時代ー飛鳥時代ー奈良時代 此処までは
奈良を中心とした時代
平安時代には都が平城京から京都 平安京に移る

平安京までの代表的な遷都 飛鳥京 643年ー難波京 644年ー近江宮 
667年ー藤原京 694年ー平城京 710年 745年ー長岡京 784年
ー平安京 794年 に遷都

中国の歴史書 三国志の中に 三世紀末 魏書に日本国の住民 場所
について 魏志倭人伝に書かれている 邪馬台国 卑弥呼の文書で
邪馬台国の場所 九州説と奈良 ヤマト王権説に分かれ現在でも真相
は不明です 350年頃 大和朝廷が国内を統一

大和朝廷の発祥は 桜井市 三輪山付近とか 橿原神宮の南 飛鳥などと
言われますが不明です 
  
日本書紀で 初代天皇 神武天皇 宮崎 日向より東征 瀬戸内海沿いに
大和を目指すが 大阪湾沿岸で戦いに 紀伊を回り大和に ここ時
先導したのが 八咫烏 大和の地 畝傍樫原宮で即位 紀元前660年
初代天皇に 127歳まで生きる 本当かな

201803241

近鉄橿原線で橿原神宮駅に 参道 昔 状況知らない時訪れました
綺麗に整備されていました

201803242

紀元前660年に橿原宮で初代天皇 神武天皇即位
本殿 京都御所 賢所より移築

201803243

橿原神宮近く畝傍山 麓に 神武天皇陵 明治になり築かれた
ものです 京都 伏見 明治天皇陵 東京 高尾 武蔵野陵
大正 昭和天皇陵とは 違う様に思います

201803244

神武天皇陵の横に橿原考古学研究所付属博物館 

縄文 弥生 古墳 飛鳥 奈良時代 発掘の資料が展示
祭日の翌日に訪れました 休館日でした残念

201803245

中国 都城を参考として日本で初めて本格的な都 飛鳥京より
藤原京に遷都694年~710年 41代 持統天皇 42代 文武天皇 
43代 元明天皇 三代の都 大きさは 南北4.8km 東西 5.2km 

藤原京 万葉集で読まれた 大和三山 正面に 耳成山 左側に
畝傍山 右側に 天香久山

朱雀門 朝堂院-役所 大極殿-国家の政治 儀式を行う
内裏-天皇の住まい が並んでいました

201803247

旧JR奈良駅 現在の駅は高架にあります 旧駅は観光案内所に
なっています 

2018032481

奈良で宿泊後 早朝 平城京跡に 土日は巡回バスがあるのですが
平日は路線バスのみ 便が少ない 朱雀門近く 宮跡庭園に
長屋王邸宅跡 長屋王の変などは聞いたことがある
藤原氏と長屋王との対立で 729年 長屋王が殺害された事件
一族は滅亡  長屋王の変

201803248

平城京跡に 2010年4月~11月で 遷都1300年記念で跡地が整備
されました せんとくんのキャラクターで有名になりましたが

710年 元明天皇が唐の長安をモデルに 藤原京より平城京に遷都
大きさは藤原京と同じ位の規模 朱雀大路 道幅は当時と同じ道幅
74M 正面が朱雀門です

201803249

再現された 朱雀門

2018032411

朱雀門を抜けた 平城京 敷地内 近鉄奈良線が通過しています
はるか先に 再現された 大極殿 遠すぎていくのを辞めました

2018032410

朱雀門近く 再現された 遣唐使船 が展示されていました
船の大きさは 20-30M 1隻あたり150人が乗り 4隻で600人中国 唐に

空海 比叡山 天台宗 最澄も同じグループで中国に 冬に
東シナ海で 大陸に 2隻が行方不明 空海 最澄は別の船で 空海は
台湾の先の 中国大陸に漂流

平城京 784年 京都 長岡京遷都 794年には 京都 平安京に遷都
その後 幕末まで 都は京都に

今回 春休みシーズンで 帰りの飛行機 2時以降 羽田便満席
新幹線移動も覚悟で 12時の飛行機で帰って来ました
法隆寺等行けませんでした

過去に 奈良南側 後醍醐天皇の南朝見る為に 吉野山に
帰りは 桜井市の東 宇陀市に宿泊 車で自宅に帰る為に 名古屋時代
帰省の為によく通った 天理IC 無料の名阪国道に 途中 飛鳥に
高松塚古墳 時間が早い為に 入場できず 石舞台古墳 昔は自由に
入場で来たのだが フェンスが出来有料に キトラ古墳 工事中の為に
見れる状態ではありませんでした 唯一 天武 持統天皇陵が見れました
この付近は何故か 不思議な空間です

飛鳥時代

587年 蘇我氏が物部氏を滅ぼす
603年 冠位12階を定める
604年 17条憲法を定める
630年 遣唐使の派遣 894年まで10数回送られる
645年 中大兄皇子 藤原鎌足 蘇我入鹿を殺害 蘇我氏滅亡
   大化の改心
663年 韓国 白村江の戦いで日本軍大敗
672年 壬申の乱 大海人皇子が天武天皇に
701年 大宝律令が制定

再度 奈良 飛鳥に行きたい

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2018.02.17

源頼朝 旗揚げ 韮山 小田原 真鶴 湯河原 熱海に

源頼朝の父 義朝 京都にて 保元の乱 天皇相続問題で
義朝 平清盛 父 為朝 分かれて戦い 為朝は敗れ
処刑される その後 平治の乱では 平清盛は義朝と対立
戦いの結果は 平清盛に敗れ 義朝は若いころ住んでいた
東国に逃げる 途中 尾張 知多半島でだまし討ちで
殺害される 頼朝は捕まり 清盛の元に送られ 伊豆
蛭ヶ小島に流罪 東国平氏の戦いに敗れるが 房州に逃げ
るが 勢いを盛り返し 鎌倉に源氏の幕府を創る

所縁の地 小田原 真鶴 湯河原 熱海に見に行きました

201802171

① 鎌倉 ② 石橋山古戦場 ③ 真鶴半島 頼朝脱出の岩海岸
④ 湯河原駅 土肥実平の居留地 ⑤ しとどの窟 ⑥ 土肥城址
⑦ 伊豆山神社 ⑧ 秋山郷跡 ⑨ 三島大社 ⑩ 蛭ヶ小島 頼朝
流刑地 ⑪ 北条時政 屋敷 政子生誕地 ⑫ 頼朝 上陸地 安房
鋸南町竜島 

2018021721

静岡県伊豆の国市 伊豆箱根鉄道駿豆線 韮山駅 東側に蛭ヶ小島
平治の乱で敗れた 頼朝 清盛により死刑は免れ 1160年 13歳で流刑
される 流刑地の近くに 地方豪族 平氏 北条家があり 北条時政の
長女政子と知り合う 頼朝との結婚に反対し 代官 山本兼隆に政子
を嫁がせようとするが 後白河天皇の第三皇子 以仁王より命旨で
見張り役 代官 山本を襲い 1180年 挙兵 流刑生活 20年

2018021722

駿豆線 線路の反対側 北条時政の屋敷跡 政子の産湯の井戸なども近く
にあります 頼朝 流刑地 蛭ヶ小島まで歩いて1時間位の場所

時政 鎌倉幕府 創設後 初代執権になるのだが 内部分裂が原因
又 あまりにも陰謀で 雅子から 晩年 鎌倉から伊豆に隠居させられる
墓は 北条屋敷近くの 願成就院にあります

201802172

石橋山古戦場

代官 山本兼隆を襲った後 多分 韮山峠を越え 熱海方面に
目指すのは 父 義朝の屋敷がある 鎌倉に 途中 湯河原
土肥郷に 土肥実平 三浦一族 和田義盛らが加わるが
小田原 石橋で 頼朝軍 300人に対して 平家軍 大庭景観 伊東
祐観 3000人と戦うが敗れ 山中に逃げる

201802173

敗戦後 頼朝軍は 多分 土肥城に逃げようとしたのか不明
途中 近くにあった しとどの窟 洞窟に逃げ込む
当時 平家軍だった 梶原景時 付近に来た時 梶原が知って
いたと思うのですが この付近には頼朝はいないと発言
窮地を救った この様なリアルな状況 吾妻鏡に書かれていた
おかげ 梶原その後 源氏 鎌倉幕府に使える 
義経の活躍をよく思わず 頼朝に告げ口 御家人からは嫌われ
その後 鎌倉を追い出され 駿府で親子共々最期を遂げる

201802177

しとどの窟近く 海抜536M 城山 土肥氏の土肥城址

201802175

湯河原駅 土肥実平夫婦の像 この付近が 土肥氏の邸宅跡地
この北側に 土肥城が

201802176

土肥氏 菩提寺 湯河原駅裏側 城願寺 一族の墓が
土肥氏 土肥実平 その後の源平合戦に転戦 惣追捕使として
瀬戸内海等を管理 鎌倉幕府創立後 長男 遠平と広島三原市
に移住 毛利元就の三本の矢の一つ 小早川家の創始者とは
驚きです

2018021711

頼朝軍 石橋山敗戦後 しとどの窟に隠れたり 多分 土肥氏
の誘導で 湯河原駅の隣 真鶴駅近く 真鶴半島付け根
岩海岸に 此処から 相模湾を横切り 安房 鋸南町竜島に上陸
正面の橋は真鶴道路です

その後 上総 千葉一族と合流 武蔵国では 葛西 足立 畠山重忠
河越 江戸氏などと合流 鎌倉に入り 幕府を創る

その後は義経の活躍する 木曾義仲と源平合戦となる 

201802178

蛭ヶ小島で旗揚げ前 頼朝と政子が良く通った 伊豆山神社
神社から 熱海越しに 伊豆の山々がみえますが 三島大社も
通ったそうですが こちらは平地ですが伊豆山神社は遠いな

隣にMOA美術館が見えます 以前訪れましたが 山の中が
くり抜かれエスカレーターで上部に 立派な美術館です
境内 アベック多いな 頼朝 政子の関係でしょうか

201802179

頼朝 政子の腰掛岩 説明文では 蛭ヶ小島に配流されていた
頼朝は当神社を崇敬しており 頼朝と政子が恋を語らった場所

これか アベックが多い原因

2018021723

熱海に来たので 久しぶりに 日帰り温泉 日航亭 大湯に
過去に お宮の松の前ある ミクラスに泊まりました
食事は フランス料理でした 窓から熱海港に入る大島からの
高速船見えました現役時 大島出張10数回泊りで行きました
なぜか大島出張 以前赴任した 沖縄を思い出しし 夜 下田の町
の光を見ると もの悲しくなります
強風があると 飛行機 高速船は欠航になり 帰りは大型船のみ
東京 竹芝 熱海港など4時間ぐらいかかります

熱海に出長から帰った場合 職場には帰らず 東海道線で藤沢駅
から自宅に帰りました 伊豆大島での生活きつい

温泉は 熱海銀座街を通りぬけ 源泉がある近く隣に湯前神社
があり 間欠泉もあります 徳川家康 熱海の湯を気に入り
本陣もあり 湯を江戸まで運び東京で 熱海の湯を楽しんで
いました

有馬 草津の様なきくような湯ではありませんが 源泉かけ流し
良い湯でした

何故日航亭 JALと関係あるのかな?

最近 古事記と日本書紀を購入 古事記は神話を書いていますが
理解しないと 日本の成り立ち理解できない様に感じます

日本書紀はこれからです

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2017.12.22

尾張 美濃に

名古屋転勤から戻り 20数年になりますが 過去に1-2回
名古屋に行きましたが 三河の歴史的場所訪れましたが
尾張は当時歴史的な興味なかったので 今回改めて 尾張
美濃を訪れました

201712191

① 長久手古戦場 小牧 長久手の戦い  名古屋城
③ 大須 万松寺 ④ 豊國神社 秀吉 清正 誕生地?
⑤ 名古屋駅  清州城址 ⑦ 岩倉城址 
⑧ 聖徳寺跡 織田信長 斎藤道三 会見場所
 小牧城址 ⑩ 犬山城 ⑪ 各務原飛行場
⑫ 生駒屋敷跡 信長 側室 吉乃 実家
⑬ 県営名古屋空港 ⑭ 墨俣一夜城祉  岐阜城
⑰ 関ケ原戦い 東軍 集合場所 家康本陣 安楽寺

信長 移動ルート ②那古屋城→⑥清州城→⑨小牧城→⑯岐阜城
→安土城

201712193

② 那古屋城址 現 名古屋城 二の丸庭園に那古屋城址の看板
信長が生まれた場所 文章には 誕生が勝幡城が有力との説
育ったのは 那古屋城です

信長 年表

201712192

③ 今川家が尾張守護の斯波義達を破り、那古屋の地を奪い
そこに城を築いたのが 織田信秀は、この今川家を尾張から
追い出し新たな戦略拠点として那古屋城を選んだのである。

1551年 信長 18歳の時 父、信秀の死により、家督を相続
葬儀が行われた 寺 大須観音で有名な 万松寺で行われる
信長が葬儀の席で父親の位牌に焼香を投げつけたのは有名で
世間では うつけものと噂される
ビルですが 寺は残っていました

名古屋時代 パソコンをwin 3.1で初め ソフト 周辺機器を
近くの アメ横ビルに買いに来ました フライトシュミレーター
のソフト 無知でマック版のソフト購入 良い勉強になりました

201712195

⑥ 那古屋城の西側 信長 二番目の城 清州城 立派な観光城が
多分 当時は砦の様な城だと思う 1405年 尾張 遠江 越前
守護 斯波義重が築城 応仁の乱により地方大名」は没落
その後 織田大和守家 守護代 下四郡(海東、海西、愛知、
知多)を支配する 織田信友が入城 信長の身分はその下
織田弾正忠家 清州三奉行の一人

1555年 信長22歳 伯父 守山城主 織田信光が信長と共謀
城主 織田信友を殺害 清州城を奪う

その後の清州城ではいろいろな舞台に

1) 反旗を翻した二歳下の弟 信行を城内で殺害
2) 今川義元との桶狭間の戦い 此処より出陣
3) 本能寺の変後 信長の後継者選ぶための会談 清州会議
4) その後 福島正則が城主になり 関ケ原の戦い 東軍の拠点に

201712196

⑧ 聖徳寺跡 織田信長 斎藤道三 会見場所

信長 15歳の時 美濃 岐阜城主 斎藤道三娘 正室 濃姫と
父 信秀 同盟の為に 政略結婚

その後 道三 娘婿 信長を見る為に 20歳の時
木曽川河畔 尾張側 聖徳寺で会見 会う前は相変わらず
の服装でしたが 会見の場では正装で 道三 信長の器量を見直す

道三 最後 岐阜城を嫡男 義龍に譲るが その後攻められ死亡
信長 尾張より岐阜に向かうが間に合わず 
信長 岐阜城攻めまで 長良川が横たわり 攻略には時間がかかる

正室 濃姫 信長との子供なく その後の消息不明
信長なので殺されたかな?

201712197

⑦ 岩倉城祉

名鉄 犬山線 岩倉駅近く 名古屋6年在住で 残り1年 単身で
犬山線 3駅名古屋より 西春駅に住んでいました 懐かしい

1555年に守護代織田信友を討って清洲城を手に入れ、1556年に

丹羽、葉栗、中島、春日井の尾張上四郡を支配する 伊勢守家
岩倉城主 織田信安 清州城 守護 斯波氏を追放

信安の跡を継いだ 嫡男 信賢 浮野の戦いで敗れ 信長により
岩倉城は落城 その後 犬山城主 織田信康 敗れ落城

信長が 尾張を平定

桜で有名な 五条川が清州から流れています

201712198

名鉄 犬山線 岩倉駅より犬山側に二つ目 布袋駅
生駒屋敷跡 元は 大和 奈良生駒山 この地で運送業で財を
三代家宗の娘 吉乃 信長に見染められ 側室に 嫡男 信忠
本能寺の変で自害 次男 信雄 徳姫 家康 嫡男 信康の妻

信長 子供が多い 正室 濃姫 側室は8人もいました

秀吉 三河 遠江に放浪後 生駒屋敷に信長に仕える機会に
此処には 蜂須賀小六 等が訪れ美濃攻略の相談に

201712199

1563年 尾張を平定した信長 美濃攻めの為に清州より小牧に築城
パソコンソフト フライトシュミレーターで名古屋県営空港から
北側に離陸すると すぐに左下に 濃尾平野の中に 小牧山が

美濃攻め 斎藤道三の孫 斎藤龍興を攻めるのに その後4年
かかりました

小牧城 秀吉と家康の戦い 小牧 長久手の戦いでは 家康の本陣
になりました 秀吉は 犬山城に

木曽川河畔 犬山城 当時 個人所有 国宝 犬山城でしたが
到着時 午後5時 閉館 見る事が出来ませんでした 
名古屋在住時 子供が小さく 明治村 モンキーパーク リトル
ワールド 行きました もちろん 犬山城も 雰囲気が良い

2017121913

小牧 長久手の戦いで 長久手古戦場に 以前 トヨタ博物館に
自動車見に行った時 長久手古戦場があるのは知りました
又 以前 愛知 万博もこの近くで開かれました

小牧 長久手の戦いがあった場所 本能寺の変で信長 亡き後
秀吉は天下を納めつつある中 故信長の次男 信雄が家康に頼み
秀吉を討つために 連合軍で挙兵 家康は小牧山城を占拠
池田恒興が犬山城を占拠 家康と秀吉 小牧城と犬山城で対陣
野戦の強い家康を警戒して秀吉は 無用な手出しを避け膠着状態

その前の羽黒の戦いで 池田恒興 森長可が敗北 汚名挽回で
秀吉に 家康無き三河 岡崎城の攻撃を申し出る

小牧 長久手の戦い 布陣図

秀吉軍 池田 森 堀 秀次 2万人で岡崎城に この状況を知った 
家康軍 追撃 長久手で激突 秀吉軍の大敗北 秀吉初めての負戦

負けても 秀吉 織田信雄と和睦 馬鹿らしくなった家康 終戦に

2017121914

名古屋駅 太閤口 中村区 その先に 大鳥居 豊國神社
豊臣秀吉 生誕の地 碑もあります 秀吉 出生は不明だけに
信じられません 隣の常勝寺に これも 加藤清正の出生の地?

秀吉 出生が良くないので 子供の頃は記録に残っていません

201712194

信長 生誕地 那古屋城 跡地に 関ケ原の戦い以後 家康が
豊臣秀頼 大阪城包囲網として築城 久しぶりに来ました 
本丸に熊本城と同じく本丸御殿が築城されていました
時間なき為 天守閣 御殿 見学できず

天守閣 耐震性に問題あるので 河村名古屋市長が木造で建て替
えると言ってます

名古屋 三英傑祭 信長 秀吉 家康があります
信長 滋賀 安土城 秀吉 大阪城 京都 伏見城 家康 江戸城
静岡 駿府城 それで 誰も愛知には残っていません

久しぶりに名古屋の道走りました 改めて道幅は広い
栄 テレビ塔 意外と小さいな

2017121910

美濃攻略の為に 長良川 秀吉が西岸に築いた 墨俣一夜城
これも立派ですが 実際は砦の様だと思います

信長 美濃攻略 清州城からさらに美濃に近い小牧城移り 4年
斎藤家は道三が嫡男 義龍に滅ぼされ 5年で死亡 その後
龍興に移る

尾張と美濃の間には 木曽川 長良川 揖斐川の大河があり
地元に詳しい 蜂須賀小六の協力で 上流に木材を準備
木曽川 境川の水運を利用して 馬柵 櫓を三日で建設
一夜城と呼ばれる その後 稲葉山城(岐阜城)を落城させる

2017121917

関ケ原の戦いの前 家康 東軍は上杉征伐の為に 会津に
西軍が 大阪 伏見で攻撃 東軍 家康は小山で会談 方針を
西軍を攻める事に決定 東軍は 福島正則の清州城に集結 家康は
江戸城に帰り 動かず 家康は東軍の協力度を示させる為に
岐阜城攻撃を命ずる それに応え 家康 中山道 赤坂宿に
その時 家康が本陣とした 安楽寺 大垣城に布陣した 西軍と
赤坂宿 抗瀬川で交戦 西軍についた島津義弘 大垣で夜戦を
言ったが 石田三成に却下され それが 関ケ原の戦いでは
島津軍 戦わず 西軍敗戦後 的中突破で薩摩に帰る事に

意外と近い 大垣城と赤坂宿

2017121911

信長が地名 井野口から岐阜に変更 1567年 秀吉の活躍など
あり 斎藤道三の孫龍興から奪う 
道三 元々 土岐頼芸が主君であるが 稲葉山城(岐阜城)を
奪い 土岐頼芸を追放 元は 京都で油売り 謀略を駆使して
美濃を奪い取る まむしの道三と言われる 戦国時代の初めの
人物 経済的には楽市楽座(経済の自由化)を実行 この制度は
信長が受け継ぐ

道三引退 隠居 嫡男 義龍に家宅を譲る
義龍 父親が道三ではなく土岐頼芸ではないかと疑い
弟を殺害 道三に挙兵 1554年 長良川を挟んで 対峙
義龍軍 17500人 道三軍 2500人 道三討死
義龍もその後病気で死亡 享年34歳

信長 岐阜城から 楽市楽座を行い 又 天下布武を宣言し
武力による天下を目指す

信長は上洛を目指し 障害となる 琵琶湖東側の北近江 
浅井長政と信長の妹 お市を嫁に出し 同盟を結ぶ
その後 浅井 同盟の越前 朝倉義景は共に信長に滅ぼされる

金華山 高度300M以上の頂上に 岐阜城 歩いて1時間以上
以前来たときは徒歩でしたが 今回はロープウエーで

2017121912

岐阜城より 右側の小山が 斎藤道三が隠居した鷲山
長良川を挟んで 道三と義龍が対峙 道三塚 長良橋を渡り
左側に葬られています 行きましたが不明でした

岐阜より横浜 新東名で5時間 欲張りすぎ 疲れました

2017121915

各務原飛行場 現在 航空自衛隊岐阜基地 1周しましたが
滑走路は見る事が出来ませんでした 途中 航空宇宙科学博物館
川崎重工の工場があり 対潜哨戒機 P3Cオライオン後継機 P-1
輸送機 C-1の後継機 C-2を製作しています

日本では最古参の飛行場で 大正6年に開港しています

三菱重工業の工場は名古屋港 大江にあり 此処で生産された

>牛車で ゼロ戦 輸送 名犬街道本当でした

ゼロ戦 大江工場→金山→鶴舞→新栄→布池→大曽根→上飯田→
三階橋→水分橋→春日井→小牧→犬山→犬山橋→鵜沼→各務原飛行場

中島飛行機 名古屋にもあった 半田工場 知多半島 中部空港
近く 中部空港には ボーイング787 胴体 翼の部品 名古屋
で多く 製作 シアトル ボーイング工場に輸送用 ボーイング
747改造機 ドリームリフター 飛来

県営名古屋空港 三菱重工では 次期国産旅客機 MRJ開発中
開発 遅れています

ドリームリフター 台湾出張時 桃園空港 エバーグリーンの整備会社
で見ました 此処でで改造していました 実際見ると圧倒されます

愛知と言えば トヨタの車のイメージですが 飛行機も凄い

2017121916

名古屋での食べたいものと言えば 名古屋駅 ホーム 住よしの
きしめん 家族は5年私はプラス1年間の単身中 横浜まで 新幹線で帰る時 
食べていました 入場券買って きしめん 懐かしい


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2017.07.17

静岡市 沼津市 歴史的 場所に

2017071612

駿府城 薩捶峠 興国寺城 韮山 小田原城

世界遺産の富士山と同じく三保の松原が選ばれ 見に行きました
その後 駿府城で家康死後 埋葬された久能山東照宮 最後の将軍
徳川慶喜 江戸を改易され静岡に 駅前 駿河代官屋敷を使用して
現在 結婚式場 浮月楼 立派な屋敷にびっくり

NHK大河ドラマで放送中 おんな城主 直虎 舞台となった
静岡 駿府城 家康 今川で人質となり 師 太原雪斎で修行
した 臨済寺 今川氏の元で 後北条家5代の祖 北条早雲
最初に領地とした 沼津 興国寺城址を見に行きました

201707161

臨斎寺 本堂 駿河の戦国大名 今川氏の菩提寺 駿府城の北西に
ある 幼年 竹千代時代 家康」が今川家の人質として預けられて
いた寺 公開は年二回 普段は修行寺なので公開していません
でした

201707162

駿府城 坤櫓 復元されているのは 後 東御門と巽櫓のみ
城内には 本丸御殿跡 天守台跡もありますが 現在発掘中
現在は 駿府城公園となっています

家康が駿府城を築城前は 今川氏の駿府館がありました
見えているのは内堀で 外側は公共の建物が建ち良くわかり
ません 偶々 訪れたのが第三土曜日で 県庁の展望室は
休館日でした 登ると良く見えると思います

201707164

家康 8歳で今川義元に人質として 駿府に16歳で義元の姪
築山殿と結婚(後に浜松で殺害される)1560年 18歳の時に
今川義元 織田信長に 桶狭間の戦いで敗れ 家康 岡崎に戻る
駿府城公園内  東御門と巽櫓が資料館になっており 臨斎寺
内 家康 太原雪斎との修行の間が再現されていました

201707166

公園内 本丸跡に家康の銅像が 後方は天守跡 5層7階の天守
が築かれた 隠居城とはいえ 壮大です

2017071611

駿府城 東側 静岡鉄道 新静岡駅付近 西郷 山岡会見之史跡碑
当日暑く 付近を捜しましたが見つかりませんでした

1868年1月 鳥羽伏見の戦いで敗れた 幕府軍 新政府軍は有栖川
新王を大総監とし 東征軍として 徳川慶喜追討で江戸に 3月5日
駿府城に入る 本営とする 参謀 西郷隆盛が旅籠に 3月9日
幕臣 山岡鉄舟が慶喜の寛大なる処置を求め 勝海舟の添え状を
持ち此処で西郷と談判 その後 3月14日 江戸 薩摩藩邸で
西郷と勝が会談 江戸城も無血開城が決まる

よく 山岡鉄舟 江戸から駿河までたどり着けたな

201707165

静岡浅間神社近く 瑞龍寺 豊臣秀吉 妹 旭姫 徳川家康 正室
秀吉 家康の上洛を求め 旭姫を家康の正室に 旭姫はその頃
結婚しており 夫と離縁され 夫は自害しています
家康の前正室 築山殿 武田との密通が疑われ 浜松に来る途中
殺害されています

1586年 家康 45歳 旭姫 44歳 政略結婚の最たるものです
結婚前には 人質に 母親まで岡崎に送っています 

旭姫 1558年 母親 大政所の見舞いで上洛 自らも病気に
聚楽第で1590年に死亡 家康が 京都 東福寺より分骨 瑞龍寺
に供養塔 秀吉 小田原征伐後 供養塔には立ち寄っています

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興国寺城祉 標識 小さいので見逃してしまいました

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本丸下 石垣 裏側は 深い空堀が

201707168

本丸から 駿河湾の向こうに 伊豆半島が 右側が韮山

興国寺城跡 沼津市 北条早雲 今川義忠死後 家督争いで
今川氏親を助け功績を上げ 今川家より 興国寺城の領地を
与えられる 今川氏親は今川義元の親

桶狭間の戦で上洛途中 信長に敗北した今川義元 色々な噂
があるが 戦略家で優秀な戦国武将だったと思います
その後 当主にになった 氏真 北条を頼るが 家康 信玄に
駿河 遠江は侵略され 戦国大名のから脱落 なぜか幕末まで 
今川家は残る

北条早雲 氏素性は不明 早雲の姉妹が義忠の側室になっている
ので それなりの家系の様に思われる

鎌倉幕府が滅亡 足利尊氏は京都に 室町幕府を創る
室町幕府は関東10国を治める為に 出先機関として鎌倉公方を
創設 補佐役として関東菅領を定める

1438年 鎌倉公方4代 足利持氏と関東菅領 上杉憲実が対立
永亨の乱が起こる 足利持氏が敗れ自害 鎌倉公方より
関東菅領は力を持つ 持氏の遺児は 茨城 結城氏を頼り
古河に公方を創設 鎌倉では関東菅領が納める 但し
山内上杉家 扇谷上杉家が対立 山内上杉家で執事をしていた
のが長尾家で それが上杉謙信に関東菅領を譲る事に

伊豆半島では 1458年 古河公方の対抗策として 室町幕府は
京都から関東に正式な鎌倉公方を1458年に送るが 鎌倉には入る事が
出来ず伊豆半島 韮山に堀越公方を創設

初代 堀越公方 足利政知が病死 嫡子 茶々丸 側室が生んだ
次男 潤童子がいましたが 茶々丸の素行が悪いので 座敷牢に
幽閉されていました 牢を脱走 側室と潤童子を殺害 二代目の
堀越公方になる

沼津 興国寺城を築いた4年後 後北条氏 初代 早雲は1493年に
堀越館を攻撃 茶々丸を滅ぼす 下剋上 この戦いが戦国時代の
幕開けとなる

1459年 北条早雲が扇沢上杉家 重臣 大森籐頼が守る 小田原城を
奪取しました

豊臣秀吉 小田原攻めにより滅亡するまで 後北条5代が受け継がれる
領地は 関八州に及び 大大名になる 

2017071610

静岡に行く途中 桜えびで有名な由比近く 東海道の難所 薩捶峠
東海道五十三次 浮世絵で有名 富士山が見える場所 雲で見えません
でした 駿河湾に落ち込んだ場所で 平地が少なく 新幹線 東名道路
東海道線 国道1号バイパスが通り 複雑な道路 線路でした

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2017.06.26

岡山城 三原城 広島城 呉に

数奇な運命の城 岡山城 三原城 広島城に ついでに呉にも

201706251

岡山城 後楽園の隣 後楽園は江戸時代 4代藩主池田綱政が造営

岡山城は豊臣五大老の一人 宇喜多秀家が築城 関ケ原の戦いで
敗れ 西軍では一番戦った感じですが 敗戦後逃亡 鹿児島で捕まり
八丈島に島流し その後 死亡するまで49年間 八丈島に ある時
関ケ原の戦いで 勝者になった 福島正則 その後 広島城主に 
八丈近くで 広島藩の船 遭難 その時 宇喜多に酒を送った 
広島なので 西条産の酒か?

その後 岡山城は関が原で裏切った 小早川秀秋が城主に 二年後
急死 嗣子がなく小早川家は断絶 数奇な運命

その後 江戸時代は池田氏の城に 現在の城は 壁が黒 明らかに
豊臣の城 城内の展示物も宇喜多家のものが多かった様な気がします

201706252

岡山城 天守から岡山後楽園 昔行った記憶が 今回パスします

201706253

山陽新幹線 各停で三原駅に 途中福山駅で 快速の通過待ち
ホームから隣に 福山城が 第7代藩主 阿部正弘 幕末老中
黒船の問題時 活躍 享年39歳で死亡 長生きしていれば幕末も
変わったかも

次の駅が 三原城 小早川隆景が 瀬戸内水軍の把握の為に
島を繋ぎ 築城 近くは三原港 城址は 三原駅の隣

小早川隆景 毛利三本の矢で有名な 毛利三兄弟の三男
長男は 隆元は毛利家 当主 但し 享年41歳で死亡 当主は 嫡男
輝元が広島城を築城 両川 それぞれ養子に 次男 吉川元春の三男
は山口 錦帯橋近くに 岩国城を築城 その後1国1城制度で廃城に

毛利三男 小早川隆景は 三原城を築城 村上水軍を傘下にいれ
水軍を指揮 信長の石山本願寺攻めでは 第一次木津川口海戦で
勝利 寺に食料を運び入れてます 豊臣秀吉の高松城の戦いでは
本能寺の変で信長が死亡 秀吉は和解を計画 その後中国大返しで
天王山で明智光秀との戦いで 勝利 天下を取る足がかりに

毛利輝元 吉川元春 小早川隆景は高松城攻めの援軍で来ていた時本能寺の変
和睦の時は信長の死亡は知らず その後 事実を知り 吉川元春は秀吉
を攻める事を進言 小早川隆景は今後の 毛利の事を考え 秀吉攻めの
中止を決める そのことが 秀吉に評価され その後の出世に 
この後 三原城を築城

豊臣政権下に 長曾我部の四国攻めに参戦 勝利後 伊予に領地を
又 島津の九州攻めにも参戦 勝利後 筑前 築後 肥後を与えられる

隆景は側室持たなかったので 世継ぎが無く 秀吉の義理の甥 小早川秀秋
を養子にもらう それが関ケ原の戦いで 西軍を裏切り 勝利後 岡山城主
になるのは 不思議な縁 三原城は 駅に隣接して石垣のみ 面影ありません
でした

201706254

広島城 築城は前にも書いたとおり 1589年 毛利輝元が築城 関ケ原の戦い
が 1600年なので10年ぐらい前に築城 豊臣五大老の一人 関ケ原では西軍の
総大将に 実際は関ケ原に行かず 大阪城で指揮 結果的には 西軍の負け
関ケ原では 毛利広家が家康と毛利家存続 密約で 南宮山 西軍の動きを
止める 敗戦後は 輝元は周防 長門の二か国に 萩に築城
この時の恨みが 幕末 長州藩が倒幕する原因

その広島城に入城したのは 元豊臣政権下で 秀吉に仕えた 福島正則
一変 関ケ原の戦いでは 徳川 東軍ので参加 戦後は広島城に入城
徳川は 加藤清正を含め 元豊臣の一掃を考えており 1619年 洪水による
修復は武家諸法度に違反と難癖をつけ 福島は信州に改易される

その後は 紀州から御三家の一つ 徳川頼宣が和歌山城入城
玉つきで 浅野長晟が広島城に その後 浅野家が城主となる

201706255

広島城内 大本営跡 日清戦争時 前線に移動時 鉄道 船舶に便利
なので 1894年 9月15日~1895年5月30日まで明治天皇 滞在 終戦後 
日清講和条約 下関にて締結の指揮

201706256

翌日 広島駅より呉線で 呉駅に通勤時間帯でしたが 各停 途中で乗り換え
時間調整で5分の停車 1時間かかりました
途中海岸線から江田島が 坂の上の雲で秋山真之が通った 海軍兵学校のある
島が見えます

呉駅からバスで音戸ノ瀬戸に 途中は造船所 製鉄所で工業地帯の中を
走ります 本州と倉橋島の間の海峡 平清盛が一日で切り開いたとの伝説
がある場所 宮島は船で行くとすぐ近くです

201706257

呉駅前 大和ミュージアムに 1/10の大和が展示されています

ハワイ 真珠湾のミズーリーの様に本物ではないが 造船された
場所なので感慨深い

昭和12年に呉海軍工廠で秘密裏に建造開始 昭和15年に進水
昭和20年に 沖縄 特攻作戦で呉から向かう途中 鹿児島沖で米艦載機
により攻撃を受け沈没

201706258

館内より港側 左のクレーンがある場所 古いドックが大和が造船
された場所 山側に家があるが 戦時中は見る事ができなかった
のでしょうか 長崎で 姉妹船 戦艦武蔵 造船時 小説では
海側の窓の閉められたと書いていたが?

201706259

大和ミュージアムの隣 鉄のくじら館 現役引退した 実物の潜水艦
が展示 海上自衛隊の資料が無料で見れます 潜水艦の中も見学出来ます

横須賀より 多くの護衛艦 潜水艦が港では見れます

帰りは 呉駅から広島空港のリムジンバスがあり 広島駅経由より
半分の時間で空港まで行けました

デジカメ 最近 画質が悪い レタッチソフトで修正しても悪い
パナソニック UMIX 出かけた時 何度か落下

カメラ キャノンのPower Shot SX620 HS購入 カメラのキタムラ
で 価格コムの最安値より安かった

画質は満足


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2017.06.13

茨城県 常陸太田市 水戸市 古河市に

201706111

今回は 北関東 茨木県に 関東七名城の最後 太田城に
茨木県 常陸太田市 水戸市 古河市を巡りました

常陸太田市

201706112

ますは 常陸太田市立太田小学校内にある 太田城(舞鶴城)の碑
佐竹氏 東日本大震災 2011年3月11日後二週間後に 秋田に出張 秋田駅前
のホテル 震災後の余震で怖い思い出が 翌日 時間があるので 近くの
久保田城に 初めて 秋田が佐竹義宣の改易後の場所を知りました
関ケ原の戦い前 伏見で家康の疑惑を受ける動き 秋田は現在 県知事は
佐竹の分家が就任しています

佐竹氏は甲斐武田氏の祖 新羅三郎の子孫 この地に佐竹氏を創設
JR水郡線 常陸太田駅から北側に若宮八幡宮が二の丸の表示 その先に
太田市立太田小学が本丸ですか 駅から登り 城址の面影がありません

201706113

近くに 西山荘が 水戸藩二代藩主 徳川光圀 水戸黄門の別名で有名ですが
隠居後 10年間住んだ場所 この先にありますが 入場料1000円でやめました

テレビのドラマ 水戸黄門の様に 日本漫遊などフィクションです
大日本史を編集 その後の水戸学に繋がります 光圀訪れたのは 茨城以外
では 江戸 銚子 藤沢 鎌倉のみ

201706114

佐竹氏の祈願寺 佐竹寺 屋根が萱ぶき 珍しい

水戸市

201706115

梅を見に偕楽園は何度か行きましたが 弘道館は初めてです
藩校です 最後の将軍 慶喜の謹慎の間などあり 何回従順するのか
京 伏見の戦いで敗れ 大阪城より江戸に逃れ 上野 寛永寺で謹慎

201706116

佐竹義宣は 小田原攻めで 豊臣秀吉より54万石に1590年 常陸太田より
拠点を水戸に移す 関ケ原の戦いでは中立的な態度を取ったので徳川家康
より 出羽国(秋田)20万石転封 関ケ原の前 伏見で反石田派に石田三成 
襲われた時 助ける 西軍寄りの思想があったのでは

水戸は 家康 11男 徳川頼房が御三家の水戸徳川家に 9男 徳川義直
は 尾張藩主 10男 徳川頼宣は紀州藩主 御三家の登場

水戸城大手橋 弘道館の前 水戸城の正面です

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水戸八幡宮 久慈郡太田郷の鎮守 佐竹義宜が水戸に移った時移動

201706118

回天神社 回天館 水戸殉難志士の墓

水戸学 この思想が幕末 水戸志士に与えた影響が大
二代水戸藩主 光圀が始めた大日本史の編纂 9代藩主 斉昭が創設した
藩校 弘道館がもとで尊王攘夷の思想が生まれる

幕末の事件 桜田門外の変 東禅寺事件 坂下門外の変 天狗党の筑波挙兵
それ以外にも 幕府が天皇の許可なく 日米修好条約に調印したことに
考明天皇が水戸藩に勅書を下賜した事件 戊午の密勅 
天皇が藩に勅書を送る事は過去になく 藩は改革派と保守門閥に分かれ藩内
分裂の危機 天狗党の事件では家族まで犠牲に

回天館どこかで見た建物 天狗党の変 福井 敦賀 松原神社に保存されていた
天狗党が閉じ込められたニシン小屋 天狗党の乱

敦賀の海岸にニシン小屋が16棟あり 天狗党の人々が50人ずつ閉じ込められ
ていました 昭和33年 港の整備で解体が そのうち1棟が水戸に移設されて
いました

201706119

天狗党の乱に伴う元治甲子の乱で犠牲になられた方の墓

2017061110

常磐共同墓地

藤田東湖の墓 幕末 水戸学の中心的学者
吉田松陰 東北遊学時 水戸により 教えを受けています
江戸 安政の地震 水戸上屋敷で圧死しています

天狗党 首謀者 藤田小四郎は息子です
別の場所に 藤田小四郎の墓もありました

2017061111

常磐共同墓地

関鉄之助の墓 桜田門外の変の首謀者
その後 水戸で拘束 江戸小伝馬町で斬首 回向院に 吉田松陰と
同じ 享年 39歳

2017061112

古河市

茨城県 東西に縦断して埼玉県近く 古河総合公園に
御所沼 近くに古河公方館跡の碑

室町時代 鎌倉公方関東足利氏が鎌倉より移り 戦国時代
関東の政治の中心に 古河公方は 成氏 政氏 高喜 晴氏 義氏
と5世120年間続いた 初代 成氏は永享の乱 1438年で 室町幕府6代
将軍義教と対立して敗れる 成氏 1447年 許されて鎌倉公方
になったが 補佐役 関東菅領 上杉憲忠と対立 1455年に
鎌倉から古河に移る

戦国時代は北関東 豪族 小山 宇都宮 結城 佐竹氏に支持
されるが 南関東の武士をまとめた 関東菅領上杉氏や 小田原
後北条と対立 その為に古河が政争の中心となり 最後の古河公方
義氏が 1582年亡くなり 古河公方は終わる

あまり痕跡は残っていませんでした

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