2017.12.22

尾張 美濃に

名古屋転勤から戻り 20数年になりますが 過去に1-2回
名古屋に行きましたが 三河の歴史的場所訪れましたが
尾張は当時歴史的な興味なかったので 今回改めて 尾張
美濃を訪れました

201712191

① 長久手古戦場 小牧 長久手の戦い  名古屋城
③ 大須 万松寺 ④ 豊國神社 秀吉 清正 誕生地?
⑤ 名古屋駅  清州城址 ⑦ 岩倉城址 
⑧ 聖徳寺跡 織田信長 斎藤道三 会見場所
 小牧城址 ⑩ 犬山城 ⑪ 各務原飛行場
⑫ 生駒屋敷跡 信長 側室 吉乃 実家
⑬ 県営名古屋空港 ⑭ 墨俣一夜城祉  岐阜城
⑰ 関ケ原戦い 東軍 集合場所 家康本陣 安楽寺

信長 移動ルート ②那古屋城→⑥清州城→⑨小牧城→⑯岐阜城
→安土城

201712193

② 那古屋城址 現 名古屋城 二の丸庭園に那古屋城址の看板
信長が生まれた場所 文章には 誕生が勝幡城が有力との説
育ったのは 那古屋城です

信長 年表

201712192

③ 今川家が尾張守護の斯波義達を破り、那古屋の地を奪い
そこに城を築いたのが 織田信秀は、この今川家を尾張から
追い出し新たな戦略拠点として那古屋城を選んだのである。

1551年 信長 18歳の時 父、信秀の死により、家督を相続
葬儀が行われた 寺 大須観音で有名な 万松寺で行われる
信長が葬儀の席で父親の位牌に焼香を投げつけたのは有名で
世間では うつけものと噂される
ビルですが 寺は残っていました

名古屋時代 パソコンをwin 3.1で初め ソフト 周辺機器を
近くの アメ横ビルに買いに来ました フライトシュミレーター
のソフト 無知でマック版のソフト購入 良い勉強になりました

201712195

⑥ 那古屋城の西側 信長 二番目の城 清州城 立派な観光城が
多分 当時は砦の様な城だと思う 1405年 尾張 遠江 越前
守護 斯波義重が築城 応仁の乱により地方大名」は没落
その後 織田大和守家 守護代 下四郡(海東、海西、愛知、
知多)を支配する 織田信友が入城 信長の身分はその下
織田弾正忠家 清州三奉行の一人

1555年 信長22歳 伯父 守山城主 織田信光が信長と共謀
城主 織田信友を殺害 清州城を奪う

その後の清州城ではいろいろな舞台に

1) 反旗を翻した二歳下の弟 信行を城内で殺害
2) 今川義元との桶狭間の戦い 此処より出陣
3) 本能寺の変後 信長の後継者選ぶための会談 清州会議
4) その後 福島正則が城主になり 関ケ原の戦い 東軍の拠点に

201712196

⑧ 聖徳寺跡 織田信長 斎藤道三 会見場所

信長 15歳の時 美濃 岐阜城主 斎藤道三娘 正室 濃姫と
父 信秀 同盟の為に 政略結婚

その後 道三 娘婿 信長を見る為に 20歳の時
木曽川河畔 尾張側 聖徳寺で会見 会う前は相変わらず
の服装でしたが 会見の場では正装で 道三 信長の器量を見直す

道三 最後 岐阜城を嫡男 義龍に譲るが その後攻められ死亡
信長 尾張より岐阜に向かうが間に合わず 
信長 岐阜城攻めまで 長良川が横たわり 攻略には時間がかかる

正室 濃姫 信長との子供なく その後の消息不明
信長なので殺されたかな?

201712197

⑦ 岩倉城祉

名鉄 犬山線 岩倉駅近く 名古屋6年在住で 残り1年 単身で
犬山線 3駅名古屋より 西春駅に住んでいました 懐かしい

1555年に守護代織田信友を討って清洲城を手に入れ、1556年に

丹羽、葉栗、中島、春日井の尾張上四郡を支配する 伊勢守家
岩倉城主 織田信安 清州城 守護 斯波氏を追放

信安の跡を継いだ 嫡男 信賢 浮野の戦いで敗れ 信長により
岩倉城は落城 その後 犬山城主 織田信康 敗れ落城

信長が 尾張を平定

桜で有名な 五条川が清州から流れています

201712198

名鉄 犬山線 岩倉駅より犬山側に二つ目 布袋駅
生駒屋敷跡 元は 大和 奈良生駒山 この地で運送業で財を
三代家宗の娘 吉乃 信長に見染められ 側室に 嫡男 信忠
本能寺の変で自害 次男 信雄 徳姫 家康 嫡男 信康の妻

信長 子供が多い 正室 濃姫 側室は8人もいました

秀吉 三河 遠江に放浪後 生駒屋敷に信長に仕える機会に
此処には 蜂須賀小六 等が訪れ美濃攻略の相談に

201712199

1563年 尾張を平定した信長 美濃攻めの為に清州より小牧に築城
パソコンソフト フライトシュミレーターで名古屋県営空港から
北側に離陸すると すぐに左下に 濃尾平野の中に 小牧山が

美濃攻め 斎藤道三の孫 斎藤龍興を攻めるのに その後4年
かかりました

小牧城 秀吉と家康の戦い 小牧 長久手の戦いでは 家康の本陣
になりました 秀吉は 犬山城に

木曽川河畔 犬山城 当時 個人所有 国宝 犬山城でしたが
到着時 午後5時 閉館 見る事が出来ませんでした 
名古屋在住時 子供が小さく 明治村 モンキーパーク リトル
ワールド 行きました もちろん 犬山城も 雰囲気が良い

2017121913

小牧 長久手の戦いで 長久手古戦場に 以前 トヨタ博物館に
自動車見に行った時 長久手古戦場があるのは知りました
又 以前 愛知 万博もこの近くで開かれました

小牧 長久手の戦いがあった場所 本能寺の変で信長 亡き後
秀吉は天下を納めつつある中 故信長の次男 信雄が家康に頼み
秀吉を討つために 連合軍で挙兵 家康は小牧山城を占拠
池田恒興が犬山城を占拠 家康と秀吉 小牧城と犬山城で対陣
野戦の強い家康を警戒して秀吉は 無用な手出しを避け膠着状態

その前の羽黒の戦いで 池田恒興 森長可が敗北 汚名挽回で
秀吉に 家康無き三河 岡崎城の攻撃を申し出る

小牧 長久手の戦い 布陣図

秀吉軍 池田 森 堀 秀次 2万人で岡崎城に この状況を知った 
家康軍 追撃 長久手で激突 秀吉軍の大敗北 秀吉初めての負戦

負けても 秀吉 織田信雄と和睦 馬鹿らしくなった家康 終戦に

2017121914

名古屋駅 太閤口 中村区 その先に 大鳥居 豊國神社
豊臣秀吉 生誕の地 碑もあります 秀吉 出生は不明だけに
信じられません 隣の常勝寺に これも 加藤清正の出生の地?

秀吉 出生が良くないので 子供の頃は記録に残っていません

201712194

信長 生誕地 那古屋城 跡地に 関ケ原の戦い以後 家康が
豊臣秀頼 大阪城包囲網として築城 久しぶりに来ました 
本丸に熊本城と同じく本丸御殿が築城されていました
時間なき為 天守閣 御殿 見学できず

天守閣 耐震性に問題あるので 河村名古屋市長が木造で建て替
えると言ってます

名古屋 三英傑祭 信長 秀吉 家康があります
信長 滋賀 安土城 秀吉 大阪城 京都 伏見城 家康 江戸城
静岡 駿府城 それで 誰も愛知には残っていません

久しぶりに名古屋の道走りました 改めて道幅は広い
栄 テレビ塔 意外と小さいな

2017121910

美濃攻略の為に 長良川 秀吉が西岸に築いた 墨俣一夜城
これも立派ですが 実際は砦の様だと思います

信長 美濃攻略 清州城からさらに美濃に近い小牧城移り 4年
斎藤家は道三が嫡男 義龍に滅ぼされ 5年で死亡 その後
龍興に移る

尾張と美濃の間には 木曽川 長良川 揖斐川の大河があり
地元に詳しい 蜂須賀小六の協力で 上流に木材を準備
木曽川 境川の水運を利用して 馬柵 櫓を三日で建設
一夜城と呼ばれる その後 稲葉山城(岐阜城)を落城させる

2017121917

関ケ原の戦いの前 家康 東軍は上杉征伐の為に 会津に
西軍が 大阪 伏見で攻撃 東軍 家康は小山で会談 方針を
西軍を攻める事に決定 東軍は 福島正則の清州城に集結 家康は
江戸城に帰り 動かず 家康は東軍の協力度を示させる為に
岐阜城攻撃を命ずる それに応え 家康 中山道 赤坂宿に
その時 家康が本陣とした 安楽寺 大垣城に布陣した 西軍と
赤坂宿 抗瀬川で交戦 西軍についた島津義弘 大垣で夜戦を
言ったが 石田三成に却下され それが 関ケ原の戦いでは
島津軍 戦わず 西軍敗戦後 的中突破で薩摩に帰る事に

意外と近い 大垣城と赤坂宿

2017121911

信長が地名 井野口から岐阜に変更 1567年 秀吉の活躍など
あり 斎藤道三の孫龍興から奪う 
道三 元々 土岐頼芸が主君であるが 稲葉山城(岐阜城)を
奪い 土岐頼芸を追放 元は 京都で油売り 謀略を駆使して
美濃を奪い取る まむしの道三と言われる 戦国時代の初めの
人物 経済的には楽市楽座(経済の自由化)を実行 この制度は
信長が受け継ぐ

道三引退 隠居 嫡男 義龍に家宅を譲る
義龍 父親が道三ではなく土岐頼芸ではないかと疑い
弟を殺害 道三に挙兵 1554年 長良川を挟んで 対峙
義龍軍 17500人 道三軍 2500人 道三討死
義龍もその後病気で死亡 享年34歳

信長 岐阜城から 楽市楽座を行い 又 天下布武を宣言し
武力による天下を目指す

信長は上洛を目指し 障害となる 琵琶湖東側の北近江 
浅井長政と信長の妹 お市を嫁に出し 同盟を結ぶ
その後 浅井 同盟の越前 朝倉義景は共に信長に滅ぼされる

金華山 高度300M以上の頂上に 岐阜城 歩いて1時間以上
以前来たときは徒歩でしたが 今回はロープウエーで

2017121912

岐阜城より 右側の小山が 斎藤道三が隠居した鷲山
長良川を挟んで 道三と義龍が対峙 道三塚 長良橋を渡り
左側に葬られています 行きましたが不明でした

岐阜より横浜 新東名で5時間 欲張りすぎ 疲れました

2017121915

各務原飛行場 現在 航空自衛隊岐阜基地 1周しましたが
滑走路は見る事が出来ませんでした 途中 航空宇宙科学博物館
川崎重工の工場があり 対潜哨戒機 P3Cオライオン後継機 P-1
輸送機 C-1の後継機 C-2を製作しています

日本では最古参の飛行場で 大正6年に開港しています

三菱重工業の工場は名古屋港 大江にあり 此処で生産された

>牛車で ゼロ戦 輸送 名犬街道本当でした

ゼロ戦 大江工場→金山→鶴舞→新栄→布池→大曽根→上飯田→
三階橋→水分橋→春日井→小牧→犬山→犬山橋→鵜沼→各務原飛行場

中島飛行機 名古屋にもあった 半田工場 知多半島 中部空港
近く 中部空港には ボーイング787 胴体 翼の部品 名古屋
で多く 製作 シアトル ボーイング工場に輸送用 ボーイング
747改造機 ドリームリフター 飛来

県営名古屋空港 三菱重工では 次期国産旅客機 MRJ開発中
開発 遅れています

ドリームリフター 台湾出張時 桃園空港 エバーグリーンの整備会社
で見ました 此処でで改造していました 実際見ると圧倒されます

愛知と言えば トヨタの車のイメージですが 飛行機も凄い

2017121916

名古屋での食べたいものと言えば 名古屋駅 ホーム 住よしの
きしめん 家族は5年私はプラス1年間の単身中 横浜まで 新幹線で帰る時 
食べていました 入場券買って きしめん 懐かしい


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2017.07.17

静岡市 沼津市 歴史的 場所に

2017071612

駿府城 薩捶峠 興国寺城 韮山 小田原城

世界遺産の富士山と同じく三保の松原が選ばれ 見に行きました
その後 駿府城で家康死後 埋葬された久能山東照宮 最後の将軍
徳川慶喜 江戸を改易され静岡に 駅前 駿河代官屋敷を使用して
現在 結婚式場 浮月楼 立派な屋敷にびっくり

NHK大河ドラマで放送中 おんな城主 直虎 舞台となった
静岡 駿府城 家康 今川で人質となり 師 太原雪斎で修行
した 臨済寺 今川氏の元で 後北条家5代の祖 北条早雲
最初に領地とした 沼津 興国寺城址を見に行きました

201707161

臨斎寺 本堂 駿河の戦国大名 今川氏の菩提寺 駿府城の北西に
ある 幼年 竹千代時代 家康」が今川家の人質として預けられて
いた寺 公開は年二回 普段は修行寺なので公開していません
でした

201707162

駿府城 坤櫓 復元されているのは 後 東御門と巽櫓のみ
城内には 本丸御殿跡 天守台跡もありますが 現在発掘中
現在は 駿府城公園となっています

家康が駿府城を築城前は 今川氏の駿府館がありました
見えているのは内堀で 外側は公共の建物が建ち良くわかり
ません 偶々 訪れたのが第三土曜日で 県庁の展望室は
休館日でした 登ると良く見えると思います

201707164

家康 8歳で今川義元に人質として 駿府に16歳で義元の姪
築山殿と結婚(後に浜松で殺害される)1560年 18歳の時に
今川義元 織田信長に 桶狭間の戦いで敗れ 家康 岡崎に戻る
駿府城公園内  東御門と巽櫓が資料館になっており 臨斎寺
内 家康 太原雪斎との修行の間が再現されていました

201707166

公園内 本丸跡に家康の銅像が 後方は天守跡 5層7階の天守
が築かれた 隠居城とはいえ 壮大です

2017071611

駿府城 東側 静岡鉄道 新静岡駅付近 西郷 山岡会見之史跡碑
当日暑く 付近を捜しましたが見つかりませんでした

1868年1月 鳥羽伏見の戦いで敗れた 幕府軍 新政府軍は有栖川
新王を大総監とし 東征軍として 徳川慶喜追討で江戸に 3月5日
駿府城に入る 本営とする 参謀 西郷隆盛が旅籠に 3月9日
幕臣 山岡鉄舟が慶喜の寛大なる処置を求め 勝海舟の添え状を
持ち此処で西郷と談判 その後 3月14日 江戸 薩摩藩邸で
西郷と勝が会談 江戸城も無血開城が決まる

よく 山岡鉄舟 江戸から駿河までたどり着けたな

201707165

静岡浅間神社近く 瑞龍寺 豊臣秀吉 妹 旭姫 徳川家康 正室
秀吉 家康の上洛を求め 旭姫を家康の正室に 旭姫はその頃
結婚しており 夫と離縁され 夫は自害しています
家康の前正室 築山殿 武田との密通が疑われ 浜松に来る途中
殺害されています

1586年 家康 45歳 旭姫 44歳 政略結婚の最たるものです
結婚前には 人質に 母親まで岡崎に送っています 

旭姫 1558年 母親 大政所の見舞いで上洛 自らも病気に
聚楽第で1590年に死亡 家康が 京都 東福寺より分骨 瑞龍寺
に供養塔 秀吉 小田原征伐後 供養塔には立ち寄っています

201707167

興国寺城祉 標識 小さいので見逃してしまいました

201707169

本丸下 石垣 裏側は 深い空堀が

201707168

本丸から 駿河湾の向こうに 伊豆半島が 右側が韮山

興国寺城跡 沼津市 北条早雲 今川義忠死後 家督争いで
今川氏親を助け功績を上げ 今川家より 興国寺城の領地を
与えられる 今川氏親は今川義元の親

桶狭間の戦で上洛途中 信長に敗北した今川義元 色々な噂
があるが 戦略家で優秀な戦国武将だったと思います
その後 当主にになった 氏真 北条を頼るが 家康 信玄に
駿河 遠江は侵略され 戦国大名のから脱落 なぜか幕末まで 
今川家は残る

北条早雲 氏素性は不明 早雲の姉妹が義忠の側室になっている
ので それなりの家系の様に思われる

鎌倉幕府が滅亡 足利尊氏は京都に 室町幕府を創る
室町幕府は関東10国を治める為に 出先機関として鎌倉公方を
創設 補佐役として関東菅領を定める

1438年 鎌倉公方4代 足利持氏と関東菅領 上杉憲実が対立
永亨の乱が起こる 足利持氏が敗れ自害 鎌倉公方より
関東菅領は力を持つ 持氏の遺児は 茨城 結城氏を頼り
古河に公方を創設 鎌倉では関東菅領が納める 但し
山内上杉家 扇谷上杉家が対立 山内上杉家で執事をしていた
のが長尾家で それが上杉謙信に関東菅領を譲る事に

伊豆半島では 1458年 古河公方の対抗策として 室町幕府は
京都から関東に正式な鎌倉公方を1458年に送るが 鎌倉には入る事が
出来ず伊豆半島 韮山に堀越公方を創設

初代 堀越公方 足利政知が病死 嫡子 茶々丸 側室が生んだ
次男 潤童子がいましたが 茶々丸の素行が悪いので 座敷牢に
幽閉されていました 牢を脱走 側室と潤童子を殺害 二代目の
堀越公方になる

沼津 興国寺城を築いた4年後 後北条氏 初代 早雲は1493年に
堀越館を攻撃 茶々丸を滅ぼす 下剋上 この戦いが戦国時代の
幕開けとなる

1459年 北条早雲が扇沢上杉家 重臣 大森籐頼が守る 小田原城を
奪取しました

豊臣秀吉 小田原攻めにより滅亡するまで 後北条5代が受け継がれる
領地は 関八州に及び 大大名になる 

2017071610

静岡に行く途中 桜えびで有名な由比近く 東海道の難所 薩捶峠
東海道五十三次 浮世絵で有名 富士山が見える場所 雲で見えません
でした 駿河湾に落ち込んだ場所で 平地が少なく 新幹線 東名道路
東海道線 国道1号バイパスが通り 複雑な道路 線路でした

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2017.06.26

岡山城 三原城 広島城 呉に

数奇な運命の城 岡山城 三原城 広島城に ついでに呉にも

201706251

岡山城 後楽園の隣 後楽園は江戸時代 4代藩主池田綱政が造営

岡山城は豊臣五大老の一人 宇喜多秀家が築城 関ケ原の戦いで
敗れ 西軍では一番戦った感じですが 敗戦後逃亡 鹿児島で捕まり
八丈島に島流し その後 死亡するまで49年間 八丈島に ある時
関ケ原の戦いで 勝者になった 福島正則 その後 広島城主に 
八丈近くで 広島藩の船 遭難 その時 宇喜多に酒を送った 
広島なので 西条産の酒か?

その後 岡山城は関が原で裏切った 小早川秀秋が城主に 二年後
急死 嗣子がなく小早川家は断絶 数奇な運命

その後 江戸時代は池田氏の城に 現在の城は 壁が黒 明らかに
豊臣の城 城内の展示物も宇喜多家のものが多かった様な気がします

201706252

岡山城 天守から岡山後楽園 昔行った記憶が 今回パスします

201706253

山陽新幹線 各停で三原駅に 途中福山駅で 快速の通過待ち
ホームから隣に 福山城が 第7代藩主 阿部正弘 幕末老中
黒船の問題時 活躍 享年39歳で死亡 長生きしていれば幕末も
変わったかも

次の駅が 三原城 小早川隆景が 瀬戸内水軍の把握の為に
島を繋ぎ 築城 近くは三原港 城址は 三原駅の隣

小早川隆景 毛利三本の矢で有名な 毛利三兄弟の三男
長男は 隆元は毛利家 当主 但し 享年41歳で死亡 当主は 嫡男
輝元が広島城を築城 両川 それぞれ養子に 次男 吉川元春の三男
は山口 錦帯橋近くに 岩国城を築城 その後1国1城制度で廃城に

毛利三男 小早川隆景は 三原城を築城 村上水軍を傘下にいれ
水軍を指揮 信長の石山本願寺攻めでは 第一次木津川口海戦で
勝利 寺に食料を運び入れてます 豊臣秀吉の高松城の戦いでは
本能寺の変で信長が死亡 秀吉は和解を計画 その後中国大返しで
天王山で明智光秀との戦いで 勝利 天下を取る足がかりに

毛利輝元 吉川元春 小早川隆景は高松城攻めの援軍で来ていた時本能寺の変
和睦の時は信長の死亡は知らず その後 事実を知り 吉川元春は秀吉
を攻める事を進言 小早川隆景は今後の 毛利の事を考え 秀吉攻めの
中止を決める そのことが 秀吉に評価され その後の出世に 
この後 三原城を築城

豊臣政権下に 長曾我部の四国攻めに参戦 勝利後 伊予に領地を
又 島津の九州攻めにも参戦 勝利後 筑前 築後 肥後を与えられる

隆景は側室持たなかったので 世継ぎが無く 秀吉の義理の甥 小早川秀秋
を養子にもらう それが関ケ原の戦いで 西軍を裏切り 勝利後 岡山城主
になるのは 不思議な縁 三原城は 駅に隣接して石垣のみ 面影ありません
でした

201706254

広島城 築城は前にも書いたとおり 1589年 毛利輝元が築城 関ケ原の戦い
が 1600年なので10年ぐらい前に築城 豊臣五大老の一人 関ケ原では西軍の
総大将に 実際は関ケ原に行かず 大阪城で指揮 結果的には 西軍の負け
関ケ原では 毛利広家が家康と毛利家存続 密約で 南宮山 西軍の動きを
止める 敗戦後は 輝元は周防 長門の二か国に 萩に築城
この時の恨みが 幕末 長州藩が倒幕する原因

その広島城に入城したのは 元豊臣政権下で 秀吉に仕えた 福島正則
一変 関ケ原の戦いでは 徳川 東軍ので参加 戦後は広島城に入城
徳川は 加藤清正を含め 元豊臣の一掃を考えており 1619年 洪水による
修復は武家諸法度に違反と難癖をつけ 福島は信州に改易される

その後は 紀州から御三家の一つ 徳川頼宣が和歌山城入城
玉つきで 浅野長晟が広島城に その後 浅野家が城主となる

201706255

広島城内 大本営跡 日清戦争時 前線に移動時 鉄道 船舶に便利
なので 1894年 9月15日~1895年5月30日まで明治天皇 滞在 終戦後 
日清講和条約 下関にて締結の指揮

201706256

翌日 広島駅より呉線で 呉駅に通勤時間帯でしたが 各停 途中で乗り換え
時間調整で5分の停車 1時間かかりました
途中海岸線から江田島が 坂の上の雲で秋山真之が通った 海軍兵学校のある
島が見えます

呉駅からバスで音戸ノ瀬戸に 途中は造船所 製鉄所で工業地帯の中を
走ります 本州と倉橋島の間の海峡 平清盛が一日で切り開いたとの伝説
がある場所 宮島は船で行くとすぐ近くです

201706257

呉駅前 大和ミュージアムに 1/10の大和が展示されています

ハワイ 真珠湾のミズーリーの様に本物ではないが 造船された
場所なので感慨深い

昭和12年に呉海軍工廠で秘密裏に建造開始 昭和15年に進水
昭和20年に 沖縄 特攻作戦で呉から向かう途中 鹿児島沖で米艦載機
により攻撃を受け沈没

201706258

館内より港側 左のクレーンがある場所 古いドックが大和が造船
された場所 山側に家があるが 戦時中は見る事ができなかった
のでしょうか 長崎で 姉妹船 戦艦武蔵 造船時 小説では
海側の窓の閉められたと書いていたが?

201706259

大和ミュージアムの隣 鉄のくじら館 現役引退した 実物の潜水艦
が展示 海上自衛隊の資料が無料で見れます 潜水艦の中も見学出来ます

横須賀より 多くの護衛艦 潜水艦が港では見れます

帰りは 呉駅から広島空港のリムジンバスがあり 広島駅経由より
半分の時間で空港まで行けました

デジカメ 最近 画質が悪い レタッチソフトで修正しても悪い
パナソニック UMIX 出かけた時 何度か落下

カメラ キャノンのPower Shot SX620 HS購入 カメラのキタムラ
で 価格コムの最安値より安かった

画質は満足


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2017.06.13

茨城県 常陸太田市 水戸市 古河市に

201706111

今回は 北関東 茨木県に 関東七名城の最後 太田城に
茨木県 常陸太田市 水戸市 古河市を巡りました

常陸太田市

201706112

ますは 常陸太田市立太田小学校内にある 太田城(舞鶴城)の碑
佐竹氏 東日本大震災 2011年3月11日後二週間後に 秋田に出張 秋田駅前
のホテル 震災後の余震で怖い思い出が 翌日 時間があるので 近くの
久保田城に 初めて 秋田が佐竹義宣の改易後の場所を知りました
関ケ原の戦い前 伏見で家康の疑惑を受ける動き 秋田は現在 県知事は
佐竹の分家が就任しています

佐竹氏は甲斐武田氏の祖 新羅三郎の子孫 この地に佐竹氏を創設
JR水郡線 常陸太田駅から北側に若宮八幡宮が二の丸の表示 その先に
太田市立太田小学が本丸ですか 駅から登り 城址の面影がありません

201706113

近くに 西山荘が 水戸藩二代藩主 徳川光圀 水戸黄門の別名で有名ですが
隠居後 10年間住んだ場所 この先にありますが 入場料1000円でやめました

テレビのドラマ 水戸黄門の様に 日本漫遊などフィクションです
大日本史を編集 その後の水戸学に繋がります 光圀訪れたのは 茨城以外
では 江戸 銚子 藤沢 鎌倉のみ

201706114

佐竹氏の祈願寺 佐竹寺 屋根が萱ぶき 珍しい

水戸市

201706115

梅を見に偕楽園は何度か行きましたが 弘道館は初めてです
藩校です 最後の将軍 慶喜の謹慎の間などあり 何回従順するのか
京 伏見の戦いで敗れ 大阪城より江戸に逃れ 上野 寛永寺で謹慎

201706116

佐竹義宣は 小田原攻めで 豊臣秀吉より54万石に1590年 常陸太田より
拠点を水戸に移す 関ケ原の戦いでは中立的な態度を取ったので徳川家康
より 出羽国(秋田)20万石転封 関ケ原の前 伏見で反石田派に石田三成 
襲われた時 助ける 西軍寄りの思想があったのでは

水戸は 家康 11男 徳川頼房が御三家の水戸徳川家に 9男 徳川義直
は 尾張藩主 10男 徳川頼宣は紀州藩主 御三家の登場

水戸城大手橋 弘道館の前 水戸城の正面です

201706117

水戸八幡宮 久慈郡太田郷の鎮守 佐竹義宜が水戸に移った時移動

201706118

回天神社 回天館 水戸殉難志士の墓

水戸学 この思想が幕末 水戸志士に与えた影響が大
二代水戸藩主 光圀が始めた大日本史の編纂 9代藩主 斉昭が創設した
藩校 弘道館がもとで尊王攘夷の思想が生まれる

幕末の事件 桜田門外の変 東禅寺事件 坂下門外の変 天狗党の筑波挙兵
それ以外にも 幕府が天皇の許可なく 日米修好条約に調印したことに
考明天皇が水戸藩に勅書を下賜した事件 戊午の密勅 
天皇が藩に勅書を送る事は過去になく 藩は改革派と保守門閥に分かれ藩内
分裂の危機 天狗党の事件では家族まで犠牲に

回天館どこかで見た建物 天狗党の変 福井 敦賀 松原神社に保存されていた
天狗党が閉じ込められたニシン小屋 天狗党の乱

敦賀の海岸にニシン小屋が16棟あり 天狗党の人々が50人ずつ閉じ込められ
ていました 昭和33年 港の整備で解体が そのうち1棟が水戸に移設されて
いました

201706119

天狗党の乱に伴う元治甲子の乱で犠牲になられた方の墓

2017061110

常磐共同墓地

藤田東湖の墓 幕末 水戸学の中心的学者
吉田松陰 東北遊学時 水戸により 教えを受けています
江戸 安政の地震 水戸上屋敷で圧死しています

天狗党 首謀者 藤田小四郎は息子です
別の場所に 藤田小四郎の墓もありました

2017061111

常磐共同墓地

関鉄之助の墓 桜田門外の変の首謀者
その後 水戸で拘束 江戸小伝馬町で斬首 回向院に 吉田松陰と
同じ 享年 39歳

2017061112

古河市

茨城県 東西に縦断して埼玉県近く 古河総合公園に
御所沼 近くに古河公方館跡の碑

室町時代 鎌倉公方関東足利氏が鎌倉より移り 戦国時代
関東の政治の中心に 古河公方は 成氏 政氏 高喜 晴氏 義氏
と5世120年間続いた 初代 成氏は永享の乱 1438年で 室町幕府6代
将軍義教と対立して敗れる 成氏 1447年 許されて鎌倉公方
になったが 補佐役 関東菅領 上杉憲忠と対立 1455年に
鎌倉から古河に移る

戦国時代は北関東 豪族 小山 宇都宮 結城 佐竹氏に支持
されるが 南関東の武士をまとめた 関東菅領上杉氏や 小田原
後北条と対立 その為に古河が政争の中心となり 最後の古河公方
義氏が 1582年亡くなり 古河公方は終わる

あまり痕跡は残っていませんでした

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2017.05.18

小樽 永倉新八

ラーメン ジンギスカン食べに 北海道に
ついでに 今までに訪れた事がない 小樽に

新撰組 2番隊 隊長 永倉新八の終焉の地 小樽に

新千歳空港からエアーポート急行で 小樽まで75分で到着

201705182

定番の小樽運河 小樽駅からなだらかな下り坂 雰囲気が
函館ほど険しくない坂 新婚旅行で行った サンフランシスコ
に街の雰囲気と合わせて似ています

駅前 三角市場でビール飲んだので バスで運河に

201705181

永倉新八 松前藩江戸屋敷 家臣 長倉勘次の次男として生まれる
江戸っ子です 神道無念流に入門 その後脱藩 天然理心流 近藤等
の道場 試衛館の食客 新撰組結成は 清河八郎で書きましたが
幕府が募集した 浪士隊に試衛館が参加 その後京都に残ったのが
新撰組に 掟は厳しく 1-10隊長で残ったには2番隊長 永倉新八
3番隊長 斎藤一 9番隊長 鈴木三樹三郎?のみ
他の隊長は戦死 切腹 病死により亡くなっています

9番隊長 鈴木三樹三郎の兄 伊藤甲子太郎 新撰組に入るが
近藤は佐幕 伊藤は尊王思想 意見の違いにより 分裂 新撰組は
伊藤を殺害 死体を 油小路の辻に置き 伊藤のグループが来るのを
待ち 遺体を回収に来た 高台寺派 藤堂平助ら3人が殺害される 事件
新撰組では 永倉新八も参加しており 鈴木三樹三郎にとっては
兄のかたき 明治期になり 江戸 橋の上で永倉新八と鈴木三樹三郎が
はちあわせ 鈴木三樹三郎が手出しできなかった 話が

京都 池田屋では 近藤等 沖田総司と討ち入る その時 左手の
親指欠損しましたが 無事でした 

1868年 鳥羽 伏見の戦いで 幕府軍 新撰組は敗れ 江戸に戻る
幕府から武器 資金をうけ 近藤等 土方歳三 等で甲府城
を奪還に行くが大敗 此処で 永倉新八 近藤等とは袂を分ける
近藤等は 刑死 土方歳三は仙台経由で函館 戦死

新撰組 バイブル本 子母澤 寛さん 新撰組始末記 新撰組が
壬生に住んでいたときの 家を貸していた 八木家 前川家の人々
にインタビューして書かれているので 迫力あります  

明治4年 杉村きねの養子になり北海道 松前に 明治6年には小樽に
その後 東京に住むが 再度 小樽に住む
北海道では 樺戸集治監に四年勤務
そのほか 小樽から北海道大学の剣道部で指導していました

大正4年 小樽で病死 享年77歳 

写真は 大正2年 長男経営の料亭で撮影

201705183

市役所から国道に出る道 右側 マンションが建ってる場所
当時 衛生組合の事務所があり 此処に住んでいました
此処で亡くなり 葬儀も実施
墓は 市役所後方 共同墓地にあります それと東京にも
又 永倉新八が建立した 近藤等の碑が JR板橋駅前にあります

201705184

衛生組合の住居見取り図

小樽駅 手前 南小樽駅より歩き 量徳寺 永倉の菩提寺
寺には 永倉の資料館あり 写真は自由にとっていいとの事
但し 住居 墓等の情報は 親族の意向か教えていないそう
です

201705185

住居近くに唯一あった看板

大正2年 5月22日 新撰組 永倉新八を訪ね 自称 近藤等の娘
山田音羽 (芸名 綱枝大夫)対面の地

近藤等 娘知りませんでした

201705186

市役所より港方向に行った 神社 水天宮 永倉が良く通った
神社 高台にあり 小樽港が良く見えます 孫に剣道の稽古を
した場所

永倉新八 ひ孫 杉村悦郎さんブログ

小樽 永倉新八の足跡あまりありませんでした

同じ 新撰組 函館 土方歳三の足音は多数ありました


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2017.05.10

ヒュースケン 清河八郎 傳通院

20170509

アメリカ大使館員 ハリス 秘書兼通訳 ヒュースケン襲撃場所
清河八郎 暗殺場所を見に 麻布 古川に架かる 中ノ橋 一ノ橋に

201705091

大江戸線 赤羽橋駅に 東京タワーが目の前に 以前 息子の婚約者
の両親と初顔合わせで 東京タワーの下 東京 芝 とうふ屋うかい
に 凄く緊張した記憶が

東京タワー左側に 飯倉公園が

201705092

飯倉公園 幕末に赤羽接遇所(外国人旅宿)ありました 公園には
碑もありませんでした
旅館は 1859年8月に普請 1861年1月14日ヒュースケンは接遇所から 
麻布 善福寺アメリカ大使館が設置に帰る途中 薩摩藩士に 
中ノ橋で襲撃される 

201705093

古川 赤羽橋の次の橋 中ノ橋 攘夷派 浪士組に襲われ ヒュースケン
が死亡 享年28歳 墓は アメリカ大使館が設置されていた 善福寺は
土葬が出来ないので 近くの光林寺に埋葬 伊豆下田で秘書兼通訳と
して採用され その後江戸に移動

201705094

初代アメリカ大使館が設置された 善福寺 後ろには奇妙な高層マンション
が 麻布十番商店街を南に下った場所にあります

初代大使 タウンゼント ハリス 最初は伊豆下田 玉泉寺に領事館
構える 

幕末 幕府は日米和親条約に次いで ハリス 下田から麻布に移り
日米通商条約を締結 条約締結中心人物 大老 井伊直弼が水戸藩士に
暗殺された1860年3月 桜田門外の変が条約締結が原因の一つ
タウンゼント ハリス 生涯独身でタフネゴシエーターとの印象

幕末の外国人襲撃・殺害事件は港区で攘夷の事件が頻発
長州藩 高杉晋作一派により 品川 御殿山の英国公使館を放火
しています

偶発的ですが 横浜 生麦で薩摩藩士による事件が発生しています

その最たる攘夷事件 下関戦争 考明天皇の強い要望で 将軍家茂
1863年6月25日をもって攘夷を実行 長州藩は下関海峡を通過する
外国船に砲撃 その後 イギリス オランダ フランス アメリカに
より 下関 砲台を攻撃 壊滅的被害を受ける 四国の損害賠償は
長州は攘夷の実行しただけと 賠償は幕府が支払う

この様な関係で 現在 港区に各国の大使館が多いのかな

201705095

中ノ橋より麻布十番側に 一ノ橋 1863年4月13日 浪士隊 佐々木只三郎
6名で 一ノ橋で清河八郎が暗殺されました
 
佐々木只三郎は四年後 京都河原町 近江屋で 坂本龍馬 中岡慎太郎が
暗殺された 首謀者とされています

4月13日風邪気味の清河八郎は一ノ橋 松平山城守藩邸に友人金子与三郎
を訪ねました 飲んだ後 一ノ橋を渡った所で 呼び止められる
浪士隊により暗殺される 清河八郎 千葉周作 玄武館で免許皆伝の使い手
でしたが討たれました 享年34歳

同志 石坂周造が駆け付け 放置されていた 清河の遺体から首を討ち取り
又 同志500人の連判状を持ち帰る

首は山岡鉄太郎の家で砂糖漬けされ その後小石川傳通院に埋葬されました

私的には 清河八郎は策士とのイメージがあります

1863年 将軍 徳川家茂 上洛の警備の為に 浪士隊を創る事を 幕臣
松平主税之介に提案 採用 浪士隊234名が 江戸から京都 壬生に中山道
で行く この時 浪士隊にはその後 新撰組になる 近藤等 土方歳三
芹沢鴨が参加 京都 壬生 新徳寺で 清河八郎は突然 尊王の建白書
提出 演説では浪士隊全員の前で 目的は 再び江戸に戻り 尊王攘夷を
実行すると 驚いた幕府は浪士隊 200名を江戸に呼び戻す
その後 新撰組になるメンバーは京都に残る

怒った幕府は 江戸に戻った 清河の暗殺を浪士隊に命ずる

清河 山形 庄内地方出身 出羽山近くだと思います 良く鶴岡には
出張で行きました 

清河八郎 庄内藩士ではありませんが 倒幕の引き金になった
東京都港区芝 薩摩上屋敷焼き討ちを実施したのが 庄内藩でした

201705096

東京ドーム近く 傳通院 徳川家康の母 於大の方 菩提寺
又 浪士隊結成の地で 清河八郎夫婦の墓があります

201705097

傳通院 墓地

於大の方の墓 巨大です 後 境内には 大阪夏の陣で 大阪城より
助け出された 豊臣秀頼 正室 二代将軍 徳川秀忠長女 千姫の墓
三代将軍 徳川家光 正室 孝子の墓 先日 日光輪王寺 家光墓
見ましたが 夫婦で別々です 
増上寺で将軍墓を見ましたが 14代将軍 家茂と皇女和宮はそれぞれ
同じ場所に墓がありました

201705098

清河八郎 妻 お連の墓 お連さん 山形県鶴岡で生まれ
10歳で養女に出され 17歳で遊郭に 庄内 湯田川温泉 この時の客 
八郎が見そめる

江戸に移り住むが 町人無礼斬りで捕まり投獄その後 病死

真ん中が 清河八郎の墓 左側が妻 お連の墓


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2017.03.30

山梨 大月 岩殿山城址

中央線 山梨県 大月駅 北側に岩壁の小山が
武田勝頼家臣 小山田信茂の城 岩殿山城址が
あります 頂上に本丸があり 高さは東京スカイツリー
と同じ 634メートルです

小山田信茂 織田信長による 武田滅亡時 主君 勝頼を
裏切った人物として有名 武田滅亡後 信長により
甲斐善光寺で一家もろとも斬首されました

武田勝頼 長篠の戦いで 織田 徳川連合軍が武田騎馬軍団
に鉄砲の連射で騎馬軍団は壊滅 勝頼 甲府に戻り武田家の
立て直しを図る 韮崎に穴山梅雪の勧めで 新府城を建設

韮崎で新府城址見た帰り 大月 岩殿山に下見していました

新府城完成間際 織田 徳川連合軍が武田領内に攻め込む
この先 何処に逃げるかで 真田昌幸(幸村の父)は上田城
と沼田城の中間 岩櫃城に落ちる事を進めるが 小山田信茂
は 大月の岩殿山城に逃げる事を進める 勝頼一家は岩殿山城
に逃げる事を選ぶ 新府城を焼き 勝沼方面に逃げるが
大月の間にある 笹子峠付近で小和田信繁の裏切りにより
天目山で 勝頼一家自害

201703301

大月駅裏側 岩殿山 無料 丸山公園市営駐車場にとめ 10分で
登山口 頂上まで急な登り

201703302

登山途中 大月市内越しの富士山 午後には雲がかかり見えません
でした 午前のみ

201703303

揚城戸跡 自然石を利用した第二の門 大手門は稚児落とし方向に

201703304

笹子峠方面 天目山は峠を超えた下側 中央高速はすぐ近くを
走り 天井崩壊で死者を出した 笹子トンネルはすぐ近くです

201703305

頂上直下 正面の小山が頂上です 意外と広く 二の丸 三の丸
蔵屋敷跡 馬場跡がありました

201703306

頂上 本丸跡 1582年3月11日 勝頼 自刃後 武田家は滅亡
3月24日に小山田信繁一族も滅亡 岩殿山城も廃城になる 

久しぶり 本格的登山疲れました それにしても 山ガール多い
7割がた女性でした

201703307

登山口を少し登った場所に ふれあいの館 
館内に大月市出身 山岳写真家 白旗史郎さんの 秀麗
富嶽一二景の写真が展示されています

201703308

大月市の隣 都留市 山梨県立リニア見学センターに行きました 
リニア実験線 42.8km 両サイドがトンネルで この部分のみ
が地上に出ています 現在試験走行が行われ 時速500km/hで
走っています 通過時の迫力は想像以上です 現在N700系の2倍の
速度 2027年 品川~名古屋 40分で行けるそうです
生きているか 将来は未定 東京オリンピックは大丈夫?
現在の実験線は開通後も使用され名古屋側は 南アルプスをトンネル
を掘るようです 北陸新幹線 富山まで 立山のトンネルやめ 
上越市から日本海ルート選択 大丈夫 神奈川は横浜線 橋本に駅が
出来る予定

JR北海道 四国が廃線の危機 福井 長崎新幹線 整備が始まっていますが
本当に新幹線必要か?

201703309

富士急ハイランド近く 窓から ジェットコースターが見えます
美也樹に 吉田うどん カレーうどん注文 麺が太くこしが凄く
あります コスパ良く これで430円 まずまず

今月は福岡市で柔らかい 博多うどんを食べ 地方で特色あります

三年前 お遍路で八十八か所 巡り 香川県で5カ所位で食べた
讃岐うどんが 最高だと思います


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2017.03.18

佐賀 柳川 大宰府に

佐賀 柳川 大宰府に行って来ました

201703181

元 龍造寺の家臣 鍋島直茂が領地を継承して藩が成立
佐賀城近くにあった 本丸御殿が復元されています
熊本城の本丸御殿と比べても遜色ありません

三代将軍 家光時 1637年-1638年にかけて 島原の乱が起こる 
初代鍋島藩主 勝茂の時 長崎は幕府領の為に 九州の藩 島原
佐賀(鍋島)久留米 柳川藩が 幕府 板倉重晶で第一次 攻撃
するが 落城出来ませんでした 幕府側の死者 4000人 鍋島藩は
最も犠牲者が多く 3000人近く犠牲になっています
幕府は松平信綱を派遣 二次攻撃では 細川 黒田 鍋島 立花 
有馬藩 12万人を動員攻撃は 鍋島藩が抜け駆けして開始 その後勝利
原城は全ての戦闘員は殺害されました その後幕末まで内乱はありません
でした又その後 幕府は長崎以外は鎖国する

佐賀城前には 長崎街道があり 地理的に長崎に近い場所です

201703182

御殿内 御座間 10代藩主 直正の居室 

9代藩主 斎直 1808年 長崎で入港を禁止されている イギリス海軍
フェートン号が オランダ船にみせかけ入港 オランダ商館員 二人を
拉致 構内警備は 鍋島 福岡藩が担当 鍋島藩は 経費削減で1/10程度
100人しか派遣されず 奉行所は飲料と食料品を提供 その後フェートン号
は出港 逃げ去りました この事件をきっかけに 10代藩主 直正は
藩の近代化に努め 反射炉を建設 鋼鉄製の大砲を製作 船舶の製造
を 薩摩藩の島津斉彬と対比される

幕末時は 薩長土肥となり 薩摩 長州 土佐 肥前 幕府崩壊の雄藩となる

藩士 山本常朝 著書 葉隠 有名な文書 武士道と伝ふは 死ぬ事とは
見つけたり を書いています

201703183

鯱の門 大手口

201703184

門には 新政府 元参議になる 元佐賀藩士 江藤新平 西郷隆盛の
征韓論に同調するが 岩倉 大久保の抵抗にあい 征韓論は否定
されると 後藤新平は佐賀に戻る その後藤を首謀者による 佐賀の乱
が起こる 一時佐賀城は制圧 その時の鉄砲後です

その後 新政府軍との戦いが続き 各地で敗戦 高知で江藤は拘束される
江藤が作った 司法制度で裁かれ 江藤は死刑 斬首される

鹿児島に戻った 西郷隆盛 西南の役が起こり 西郷も自滅します

201703185

佐嘉神社 佐賀鍋島藩 10代 直正 11代 直大を祀っています

佐賀 有明海近く 広大な農地が広がり 北海道の様な風景
秋には インターナショナルバルーンフェスタが開かれます

201703186

福岡県 柳川市に 関ケ原で 西軍 石田三成に味方した 立花宗茂
に代わり 秀吉家臣 田中吉政 東軍に属する 立花が失脚後 柳川城主
に 田中吉政 元は 秀吉の甥 秀次の家老に その時 秀次は近江
八幡山城主 街造り 柳川と似ています 街に水路を創る方法

201703187

三柱神社 戸次(立花)道雪 立花宗茂 立花宗茂の妻 誾千代
道雪 娘 三体の神が祀られている

201703188

福厳寺 柳川城址の近く 立花家 菩提寺

201703189

柳川城址 柳城中学校隣 櫓を組んで 柳川城の看板が

立花宗茂 初代城主 猛将で戦国時代の一人 関ケ原の戦いで
西軍に加担し 改易になるが 徳川二代将軍 秀忠が 元の領地
筑後柳川に10万9200石与えられる 薩摩は改易されませんでしたが
復帰など稀有な事です

親は 大友家臣 高橋招運 同じ家臣 立花道雪 が宗茂の器量に
惚れ 娘 誾千代の養子のもらい 立花宗茂と名乗る
妻 誾千代は 今 大河ドラマ 井伊直虎と同じ様な存在

九州 島津軍の侵略に危機感をもった 大友 宗麟 豊臣秀吉に
援助求める 秀吉の九州平定 

宗茂二度の朝鮮征伐でも大活躍 秀吉死後 関ケ原では西軍に参戦
関ケ原には参戦せず 東軍 京極高次が城主の大津城を攻撃
関ケ原の戦いは短時間で終わったので 参戦できませんでした
歴史に ifはありませが 大津城など攻撃せず 関ケ原に参戦して
いればどうなったか?
その後改易 浪人の身で京都に滞在

戦国時代 好きな武将の一人です

2017031810

柳川川下りの乗合船の降り場 
旧柳川藩主立花家の屋敷 洋館もあり庭園は松濤園になっています
現在 立花家が経営する 旅館 レストラン 結婚式場になっています
逞しい 武家の商法です

2017031811

菅原道真の墓跡に建てられた 大宰府天満宮は3-4回訪れました
今回は 大宰府政庁跡に 西鉄大牟田線 都府楼前駅から10分
位 7世紀後半に建てられた地方行政機関 
660年 朝鮮 百済が滅亡 百済の復興をかけ 天智天皇が派兵
白村江の戦い 唐 新羅 連合軍と戦うが 大敗
唐が攻め込んでくるのに備えた施設 その後 中央から派遣される
貴族の機関場所となる

詳しくは 不明です 広大な広場に 柱の基礎石 石碑のみ 

2017031812

観世音寺 大宰府政庁跡の隣 空海 密教を習得の為に 804年
中国 西安に 2年の修行の後 博多に帰国 朝廷から観世音寺
に留まれとの命令 通常 遣唐使で渡海後20年位 中国に滞在
2年で帰国したためか 此処に1年半留まり 和泉で半年
その後京都に 昔の面影はないそうですが

宝蔵の仏像 巨大な仏像見応えあります 18体が重要文化財です

2017031813

博多駅前通り 博多駅前二丁目交差点 昨年11月8日 地下鉄工事
により 陥没した場所 セブンイレブンも見えます
すっかり陥没の影響みれませんでした 本当に駅前でした

2017031814

豚骨ラーメン 発祥の地 久留米に 宿泊しました
大砲ラーメン本店に 定番 ラーメン注文 スープは美味しい
のですが 麺は細麺 ソーメンみたいです モチモチ感ゼロ
ダメです 名古屋に6年住んでいましたが 味噌カツ 味噌煮込み
うどん食べた事ありませんでした 多分今後も 博多ラーメン
ダメです

若いころ 久留米 石橋美術館で 地元出身 青木繁さんの
海の幸 見た記憶あります 今や世界企業 ブリジストン
久留米が発祥の地 地下足袋からタイヤメーカーに 美術館は
閉鎖 財団は東京に ブリジストン美術館に HP見ると 2年後
開館になりそうですが 石橋美術館は久留米美術館に代わるようです

2017031815

博多駅から10分位 うどん平に 開店15分前到着 30人以上の
行列 人気店とは言え以上です

45分後 座れました ゴボウ天うどん注文 あまりの待ち時間で
つかれました まずまず 430円のうどん食べるには疲れます

博多駅 地下のうどん店で充分です


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2017.02.07

伊豆半島 韮山 修善寺

伊豆半島 何度か訪れていますが 見たい歴史的場所
訪れました 山中城 伊豆の国市韮山 修善寺に

まずは 豊臣秀吉による 北条氏の小田原征伐 支城のみで 相模 伊豆
武蔵 上野 下野 安房 下総 上総 40近くあります 秀吉は小田原城
の周りの支城 落城させていきます

今までに訪れた 後北条支城 箕輪城 厩橋城(前橋城)沼田城 
唐沢山城 忍城 河越城 鉢形城 佐倉城 三崎城 八王子城です
行田の忍城 のぼうの城で映画になりましたが 秀吉の備中高松城
をまねて 石田三成が水責めに見事に失敗しましたが 本陣本当に
古墳の頂上に築いているのですね
今回は伊豆半島の支城 山中城と韮山城を訪れました

鎌倉幕府の執権 北条氏と北条早雲を祖とする 小田原 北条氏と
区別するために 小田原は後北条と呼ばれる たぶん両者には関係性
はないと思います

201702071

箱根峠から三島への国道一号線に 支城の山中城 意外と大きい
空堀などもあり 砦の様に思いましたが 本格的な城です
1590年 秀吉の甥 秀次の率いる7万人 守る北条は3千人 戦闘は
半日で落城 その後廃城

201702072

韮山駅近く 韮山中学の裏山に 韮山城址が これも北条氏の支城
この地にあった 堀越公方の家臣が築城 駿河の初代北条早雲が
上杉家の争いに乗じて介入 伊豆に乱入 堀越公方 茶々丸を滅ぼす

小田原征伐時 北条三代 氏康 四男 氏規が城主 山中城落城させた
秀次が 4万4千人で攻撃 北条軍は3千6百人 百日後 開城

北条四代 五代は小田原城の総10Kmの総構あり 過去 武田信玄 
上杉謙信の攻撃にも籠城で持ちこたえた経験で 秀吉にも耐えられる
と思ったが 作戦面では秀吉の勝ちでした

201702073

次に修善寺に 桂川に沿った温泉街 有馬 湯河原の様な雰囲気の温泉街
此処にも 中国人多い

桂川にある 独鈷の湯 807年 空海が修善寺訪れた時 杖を突きさした
ところ温泉が出た 場所 三年前 四国八十八カ所回りましたが
本当でしょうか 807年は 804年空海 大阪難波より遣唐使船で西安に
恵瓊より教えを受け 806年に帰国 本当かな 空海伝説多いから

201702074

独鈷の湯の前に 修禅寺 空海が創建 頼朝の嫡男 鎌倉幕府 二代将軍 
源頼家 源頼朝の息子 頼朝の弟 範頼が幽閉された場所

上記 山中城 韮崎城を攻めた 豊臣家 二代関白 秀次 秀吉に高野山に
送られ その後切腹 空海が絡んでいるのでしょうか

201702075

指月殿横 源頼家の墓 源頼朝の死後 鎌倉幕府二代将軍に 幕府内の勢力
争いに 頼家の母 北条政子 父親 時政により 修善寺に幽閉 その後
暗殺される 頼家 次男 公暁は 三代将軍 源実朝を 鎌倉 鶴岡八幡宮
の階段で暗殺されています 源家は滅亡し 北条家の支配となります

201702076

指月殿 頼家の母 北条政子が頼家の冥福を祈り 建立
政子の父親 時政は後日 故郷 伊豆国に隠居さられる

201702077

源範頼の墓

源頼朝の六男 源範頼 異母兄弟に義経がいます
兄 頼朝に京都に乱入した 源義仲(木曾義仲)追討の為に 将軍代理で
義経と共に上洛 その後平家追悼で 源平合戦 義経と共に 宇治川の戦い
一ノ谷戦いに参戦 義経は屋島の戦い 壇ノ浦の戦いで勝利 平家は滅亡
頼朝は奥州攻めで 義経 奥州藤原家を滅亡させる

頼朝の不審を受けた 源範頼は源頼家と同じく 伊豆修禅寺に幽閉される
その後 家臣 梶原景時親子に襲撃され殺害される

鎌倉幕府 源家はなぜか呪われている感じがします

201702078

韮山を何回か訪れていますが 歴史的場所が多い場所

平治の乱後 源頼朝が 平清盛により流刑の場所 蛭ヶ小島
頼朝蜂起 最初の襲撃場所 山本判官平兼隆館跡
北条氏のルーツ 北条屋敷 政子の此処が生誕地
堀越公方 御所跡
江川邸 反射炉 最近 世界遺産になりました
北条時政墓 願成就院 

今回 前回訪れた時 茶々丸よく出てくるのですが 良くわからず
再訪 北条屋敷近くに広場 堀越公方 御所跡

室町幕府8代将軍足利義政が 鎌倉より移った 古河公方に対抗策
として 1458年に京都より鎌倉公方として送った 足利政知 鎌倉には
には入れず 伊豆堀越に留まり 堀越御所を建設
足利政知の子 義澄 異母兄 足利茶々丸が殺害 二代目堀越公方に就任
この混乱に乗じた 駿河 興国寺城 早川早雲(北条早雲) 鎌倉時代の北条と
区別する為に 小田原の北条は後北条に名称がつきます 鎌倉時代の北条と
小田原の北条 因果関係は不明 伊豆に攻め入る これが下剋上 
戦国時代の初めになる 堀越公方は消滅 茶々丸も甲斐で自害

201702079

北条時政墓がある 願成就院
この道が 頼朝 政子の散歩道になっていました

蛭ヶ小島と北条屋敷は 多分 一時間もあれば 頼朝 政子は逢引出来ます

久しぶりに伊豆に 伊豆縦貫自動車道が出来ていて便利になりました


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2017.01.20

大阪 阿倍野 京都 伏見に

今回は 大阪 阿倍野 京都 伏見に行って来ました

太平記が好きで 後醍醐天皇を奉じ 建武政権に協力
北畠顕家は 後の後村上天皇と父 親房と共に15歳で 
宮城 多賀城に 移る その後防備の為に 福島
霊山に移る

楠木正成は湊川の戦いで 1336年に自害 新田義貞は
足利尊氏と箱根 足利の戦うが 負け 京都に逃げ帰るが
奥州より 北畠顕家が京都に到着すると 形勢が逆転 その後
顕家は 奥州 霊山に帰る

尊氏は 九州に落ち延びる その後尊氏は 九州で盛り返し
再び 播磨に攻め上る 神戸 湊川の戦いでは 義貞と正成は
連携に失敗 正成は死亡 義貞は 後醍醐天皇の親王2人と共に
北陸に 敦賀 金ヶ﨑城では親王も死亡 追い詰められ 越前に
尊氏勢に攻められ 1338年に死亡

最後に残った 北畠顕家は 霊山より再び 畿内に 地元
伊勢に 奈良に攻め入り 畿内 和泉に入るが 阪堺線 石津駅
近くで 足利尊氏 家臣 高師直 北朝軍 18000人と激突 北畠軍は
3000人 1338年に死亡 享年 21歳

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北畠顕家が死亡した場所 紀州街道 石津川 太陽橋を紀州側に
渡った場所に 供養碑がありました 阪堺線 石津駅近く

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阿倍野 上町線 北畠駅 北畠公園に北畠顕家の墓 
阿倍野ハルカス 良く見えます 手前 手塚山駅 
奥さんの短大があった場所 そうなんだ 青春です

阪堺電車良く残ったな 都電荒川線とは違い広島の宮島までの路面電車の風景

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阪堺線 天神ノ森駅近く 北畠顕家を祭っている阿倍野神社

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① 鳥羽 伏見の戦い開戦の地
② 城南宮 薩摩軍が滞在していました
③ 新撰組 隊長 近藤勇が襲撃された場所
④ 御香宮神社
⑤ 伏見奉行所跡
⑥ 指月伏見城 
⑦ 木幡山伏見城 明治天皇陵

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鳥羽 伏見の戦い 勃発地 鴨川 小枝橋付近
1868年1月3日夕方 前年 12月16日 大政奉還に続き 王政復古を
発令 徳川家の領地返納命令 徳川慶喜は二条城より大阪城に移る

江戸では薩摩藩屋敷を焼き討ち 幕府軍は淀 伏見方面より 鳥羽街道
を京都を目指す 薩摩をはじめ新政府軍は 鳥羽街道近くの城南宮に布陣
この場所で 両軍による 鳥羽伏見の戦いが勃発 戦力は旧幕府軍は15000人新政府軍は4000-5000人

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鳥羽街道の横に 城南宮 この街道を新政府軍が朝廷から与えられた
錦旗を掲げる 幕府軍は賊軍に
近鉄京都線 竹田駅から歩いて 20分位 久しぶりの歩き疲れる

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伏見駅から北に歩いて10分位 料亭 清和荘 脇に新撰組 隊長 近藤勇
が鉄砲で襲撃された場所の碑

1867年12月18日 新撰組は陣を伏見奉行所に移していました
軍議の為に 近藤勇は二条城に 伏見の帰り 前月 油小路の変で
新撰組により 殺害された伊藤甲子郎一派により襲撃される

怪我をした 近藤勇 供回りを残し 乗馬で伏見奉行所に戻る
鳥羽伏見の戦いでも参加できず その後 結核で療養中の沖田総司と共に
大阪より軍艦で江戸に戻る

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伏見桃山駅近く 伏見奉行所跡 鳥羽伏見の戦い時 前線基地に

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近鉄 伏見御陵駅近くの 御香宮神社 表門は 徳川家光が築いた
伏見城も表門 秀吉が築いた 伏見城とは違います

此処に 薩摩軍が砲台を築き 伏見奉行所を攻撃 新撰組と幕府軍は
奮戦するが 兵器の差 賊軍扱いで 南側 京都競馬場近く 淀城
で体制の立て直しを図るが 入城を断られ 大阪城に逃げ帰る
新政府軍の勝利に 敗戦後 最後の将軍 徳川慶喜 松平容保 松平定敬
と共に 大阪城より隠密裏に 江戸に帰る態度 どうかな

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今回の目的の一つ 豊臣秀吉が亡くなった 1529年に築城した
木幡山伏見城を見に行く 現在は 明治天皇陵になっていますが 二度目
の挑戦で 行くことが出来ました 参道は距離があります 頂上に
明治天皇陵が この場所に 伏見城がありました
秀吉死後 まだ第二次 朝鮮征伐は終わっておらず 隠密で 東山 豊國廟
に埋葬 又 最後の花見 醍醐寺も近くです

明治天皇陵 八王子の武蔵野陵 大正 昭和天皇陵と同じ お椀を伏せた
陵になっていました

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天皇陵から 南側 宇治川近くに 1592年 秀吉最初に建てた 指月伏見城が
ありました 1596年に慶長伏見大地震で崩壊 その頃 朝鮮征伐で不祥事が
あり 加藤清正が伏見で謹慎 崩壊した伏見城に最初に駆け付け 秀吉から
謹慎がとかれました

関ケ原の戦いの前 伏見城は西軍により 徳川家臣 鳥居元忠が籠城
全員 討死 城も消滅 多分 木幡山伏見城だと思います

関ケ原で 東軍勝利後 家康により再建されています

2017011913

京阪 中書島駅は三度目です 寺田屋とか運河 造り酒屋が多く良いところ
です 昔行った記憶があるのですが 一万円札 10円硬貨のデザインになって
いる 関白 藤原道長 頼通 親子 藤原氏最盛期に創建された
世界遺産 宇治平等院 鳳凰堂に行って来ました

二日間 大阪 京都 万歩計で五万歩 疲れました

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