2017.05.18

小樽 永倉新八

ラーメン ジンギスカン食べに 北海道に
ついでに 今までに訪れた事がない 小樽に

新撰組 2番隊 隊長 永倉新八の終焉の地 小樽に

新千歳空港からエアーポート急行で 小樽まで75分で到着

201705182

定番の小樽運河 小樽駅からなだらかな下り坂 雰囲気が
函館ほど険しくない坂 新婚旅行で行った サンフランシスコ
に街の雰囲気と合わせて似ています

駅前 三角市場でビール飲んだので バスで運河に

201705181

永倉新八 松前藩江戸屋敷 家臣 長倉勘次の次男として生まれる
江戸っ子です 神道無念流に入門 その後脱藩 天然理心流 近藤等
の道場 試衛館の食客 新撰組結成は 清河八郎で書きましたが
幕府が募集した 浪士隊に試衛館が参加 その後京都に残ったのが
新撰組に 掟は厳しく 1-10隊長で残ったには2番隊長 永倉新八
3番隊長 斎藤一 9番隊長 鈴木三樹三郎?のみ
他の隊長は戦死 切腹 病死により亡くなっています

9番隊長 鈴木三樹三郎の兄 伊藤甲子太郎 新撰組に入るが
近藤は佐幕 伊藤は尊王思想 意見の違いにより 分裂 新撰組は
伊藤を殺害 死体を 油小路の辻に置き 伊藤のグループが来るのを
待ち 遺体を回収に来た 高台寺派 藤堂平助ら3人が殺害される 事件
新撰組では 永倉新八も参加しており 鈴木三樹三郎にとっては
兄のかたき 明治期になり 江戸 橋の上で永倉新八と鈴木三樹三郎が
はちあわせ 鈴木三樹三郎が手出しできなかった 話が

京都 池田屋では 近藤等 沖田総司と討ち入る その時 左手の
親指欠損しましたが 無事でした 

1868年 鳥羽 伏見の戦いで 幕府軍 新撰組は敗れ 江戸に戻る
幕府から武器 資金をうけ 近藤等 土方歳三 等で甲府城
を奪還に行くが大敗 此処で 永倉新八 近藤等とは袂を分ける
近藤等は 刑死 土方歳三は仙台経由で函館 戦死

新撰組 バイブル本 子母澤 寛さん 新撰組始末記 新撰組が
壬生に住んでいたときの 家を貸していた 八木家 前川家の人々
にインタビューして書かれているので 迫力あります  

明治4年 杉村きねの養子になり北海道 松前に 明治6年には小樽に
その後 東京に住むが 再度 小樽に住む
北海道では 樺戸集治監に四年勤務
そのほか 小樽から北海道大学の剣道部で指導していました

大正4年 小樽で病死 享年77歳 

写真は 大正2年 長男経営の料亭で撮影

201705183

市役所から国道に出る道 右側 マンションが建ってる場所
当時 衛生組合の事務所があり 此処に住んでいました
此処で亡くなり 葬儀も実施
墓は 市役所後方 共同墓地にあります それと東京にも
又 永倉新八が建立した 近藤等の碑が JR板橋駅前にあります

201705184

衛生組合の住居見取り図

小樽駅 手前 南小樽駅より歩き 量徳寺 永倉の菩提寺
寺には 永倉の資料館あり 写真は自由にとっていいとの事
但し 住居 墓等の情報は 親族の意向か教えていないそう
です

201705185

住居近くに唯一あった看板

大正2年 5月22日 新撰組 永倉新八を訪ね 自称 近藤等の娘
山田音羽 (芸名 綱枝大夫)対面の地

近藤等 娘知りませんでした

201705186

市役所より港方向に行った 神社 水天宮 永倉が良く通った
神社 高台にあり 小樽港が良く見えます 孫に剣道の稽古を
した場所

永倉新八 ひ孫 杉村悦郎さんブログ

小樽 永倉新八の足跡あまりありませんでした

同じ 新撰組 函館 土方歳三の足音は多数ありました


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2017.05.10

ヒュースケン 清河八郎 傳通院

20170509

アメリカ大使館員 ハリス 秘書兼通訳 ヒュースケン襲撃場所
清河八郎 暗殺場所を見に 麻布 古川に架かる 中ノ橋 一ノ橋に

201705091

大江戸線 赤羽橋駅に 東京タワーが目の前に 以前 息子の婚約者
の両親と初顔合わせで 東京タワーの下 東京 芝 とうふ屋うかい
に 凄く緊張した記憶が

東京タワー左側に 飯倉公園が

201705092

飯倉公園 幕末に赤羽接遇所(外国人旅宿)ありました 公園には
碑もありませんでした
旅館は 1859年8月に普請 1861年1月14日ヒュースケンは接遇所から 
麻布 善福寺アメリカ大使館が設置に帰る途中 薩摩藩士に 
中ノ橋で襲撃される 

201705093

古川 赤羽橋の次の橋 中ノ橋 攘夷派 浪士組に襲われ ヒュースケン
が死亡 享年28歳 墓は アメリカ大使館が設置されていた 善福寺は
土葬が出来ないので 近くの光林寺に埋葬 伊豆下田で秘書兼通訳と
して採用され その後江戸に移動

201705094

初代アメリカ大使館が設置された 善福寺 後ろには奇妙な高層マンション
が 麻布十番商店街を南に下った場所にあります

初代大使 タウンゼント ハリス 最初は伊豆下田 玉泉寺に領事館
構える 

幕末 幕府は日米和親条約に次いで ハリス 下田から麻布に移り
日米通商条約を締結 条約締結中心人物 大老 井伊直弼が水戸藩士に
暗殺された1860年3月 桜田門外の変が条約締結が原因の一つ
タウンゼント ハリス 生涯独身でタフネゴシエーターとの印象

幕末の外国人襲撃・殺害事件は港区で攘夷の事件が頻発
長州藩 高杉晋作一派により 品川 御殿山の英国公使館を放火
しています

偶発的ですが 横浜 生麦で薩摩藩士による事件が発生しています

その最たる攘夷事件 下関戦争 考明天皇の強い要望で 将軍家茂
1863年6月25日をもって攘夷を実行 長州藩は下関海峡を通過する
外国船に砲撃 その後 イギリス オランダ フランス アメリカに
より 下関 砲台を攻撃 壊滅的被害を受ける 四国の損害賠償は
長州は攘夷の実行しただけと 賠償は幕府が支払う

この様な関係で 現在 港区に各国の大使館が多いのかな

201705095

中ノ橋より麻布十番側に 一ノ橋 1863年4月13日 浪士隊 佐々木只三郎
6名で 一ノ橋で清河八郎が暗殺されました
 
佐々木只三郎は四年後 京都河原町 近江屋で 坂本龍馬 中岡慎太郎が
暗殺された 首謀者とされています

4月13日風邪気味の清河八郎は一ノ橋 松平山城守藩邸に友人金子与三郎
を訪ねました 飲んだ後 一ノ橋を渡った所で 呼び止められる
浪士隊により暗殺される 清河八郎 千葉周作 玄武館で免許皆伝の使い手
でしたが討たれました 享年34歳

同志 石坂周造が駆け付け 放置されていた 清河の遺体から首を討ち取り
又 同志500人の連判状を持ち帰る

首は山岡鉄太郎の家で砂糖漬けされ その後小石川傳通院に埋葬されました

私的には 清河八郎は策士とのイメージがあります

1863年 将軍 徳川家茂 上洛の警備の為に 浪士隊を創る事を 幕臣
松平主税之介に提案 採用 浪士隊234名が 江戸から京都 壬生に中山道
で行く この時 浪士隊にはその後 新撰組になる 近藤等 土方歳三
芹沢鴨が参加 京都 壬生 新徳寺で 清河八郎は突然 尊王の建白書
提出 演説では浪士隊全員の前で 目的は 再び江戸に戻り 尊王攘夷を
実行すると 驚いた幕府は浪士隊 200名を江戸に呼び戻す
その後 新撰組になるメンバーは京都に残る

怒った幕府は 江戸に戻った 清河の暗殺を浪士隊に命ずる

清河 山形 庄内地方出身 出羽山近くだと思います 良く鶴岡には
出張で行きました 

清河八郎 庄内藩士ではありませんが 倒幕の引き金になった
東京都港区芝 薩摩上屋敷焼き討ちを実施したのが 庄内藩でした

201705096

東京ドーム近く 傳通院 徳川家康の母 於大の方 菩提寺
又 浪士隊結成の地で 清河八郎夫婦の墓があります

201705097

傳通院 墓地

於大の方の墓 巨大です 後 境内には 大阪夏の陣で 大阪城より
助け出された 豊臣秀頼 正室 二代将軍 徳川秀忠長女 千姫の墓
三代将軍 徳川家光 正室 孝子の墓 先日 日光輪王寺 家光墓
見ましたが 夫婦で別々です 
増上寺で将軍墓を見ましたが 14代将軍 家茂と皇女和宮はそれぞれ
同じ場所に墓がありました

201705098

清河八郎 妻 お連の墓 お連さん 山形県鶴岡で生まれ
10歳で養女に出され 17歳で遊郭に 庄内 湯田川温泉 この時の客 
八郎が見そめる

江戸に移り住むが 町人無礼斬りで捕まり投獄その後 病死

真ん中が 清河八郎の墓 左側が妻 お連の墓


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2017.03.30

山梨 大月 岩殿山城址

中央線 山梨県 大月駅 北側に岩壁の小山が
武田勝頼家臣 小山田信茂の城 岩殿山城址が
あります 頂上に本丸があり 高さは東京スカイツリー
と同じ 634メートルです

小山田信茂 織田信長による 武田滅亡時 主君 勝頼を
裏切った人物として有名 武田滅亡後 信長により
甲斐善光寺で一家もろとも斬首されました

武田勝頼 長篠の戦いで 織田 徳川連合軍が武田騎馬軍団
に鉄砲の連射で騎馬軍団は壊滅 勝頼 甲府に戻り武田家の
立て直しを図る 韮崎に穴山梅雪の勧めで 新府城を建設

韮崎で新府城址見た帰り 大月 岩殿山に下見していました

新府城完成間際 織田 徳川連合軍が武田領内に攻め込む
この先 何処に逃げるかで 真田昌幸(幸村の父)は上田城
と沼田城の中間 岩櫃城に落ちる事を進めるが 小山田信茂
は 大月の岩殿山城に逃げる事を進める 勝頼一家は岩殿山城
に逃げる事を選ぶ 新府城を焼き 勝沼方面に逃げるが
大月の間にある 笹子峠付近で小和田信繁の裏切りにより
天目山で 勝頼一家自害

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大月駅裏側 岩殿山 無料 丸山公園市営駐車場にとめ 10分で
登山口 頂上まで急な登り

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登山途中 大月市内越しの富士山 午後には雲がかかり見えません
でした 午前のみ

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揚城戸跡 自然石を利用した第二の門 大手門は稚児落とし方向に

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笹子峠方面 天目山は峠を超えた下側 中央高速はすぐ近くを
走り 天井崩壊で死者を出した 笹子トンネルはすぐ近くです

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頂上直下 正面の小山が頂上です 意外と広く 二の丸 三の丸
蔵屋敷跡 馬場跡がありました

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頂上 本丸跡 1582年3月11日 勝頼 自刃後 武田家は滅亡
3月24日に小山田信繁一族も滅亡 岩殿山城も廃城になる 

久しぶり 本格的登山疲れました それにしても 山ガール多い
7割がた女性でした

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登山口を少し登った場所に ふれあいの館 
館内に大月市出身 山岳写真家 白旗史郎さんの 秀麗
富嶽一二景の写真が展示されています

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大月市の隣 都留市 山梨県立リニア見学センターに行きました 
リニア実験線 42.8km 両サイドがトンネルで この部分のみ
が地上に出ています 現在試験走行が行われ 時速500km/hで
走っています 通過時の迫力は想像以上です 現在N700系の2倍の
速度 2027年 品川~名古屋 40分で行けるそうです
生きているか 将来は未定 東京オリンピックは大丈夫?
現在の実験線は開通後も使用され名古屋側は 南アルプスをトンネル
を掘るようです 北陸新幹線 富山まで 立山のトンネルやめ 
上越市から日本海ルート選択 大丈夫 神奈川は横浜線 橋本に駅が
出来る予定

JR北海道 四国が廃線の危機 福井 長崎新幹線 整備が始まっていますが
本当に新幹線必要か?

201703309

富士急ハイランド近く 窓から ジェットコースターが見えます
美也樹に 吉田うどん カレーうどん注文 麺が太くこしが凄く
あります コスパ良く これで430円 まずまず

今月は福岡市で柔らかい 博多うどんを食べ 地方で特色あります

三年前 お遍路で八十八か所 巡り 香川県で5カ所位で食べた
讃岐うどんが 最高だと思います


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2017.03.18

佐賀 柳川 大宰府に

佐賀 柳川 大宰府に行って来ました

201703181

元 龍造寺の家臣 鍋島直茂が領地を継承して藩が成立
佐賀城近くにあった 本丸御殿が復元されています
熊本城の本丸御殿と比べても遜色ありません

三代将軍 家光時 1637年-1638年にかけて 島原の乱が起こる 
初代鍋島藩主 勝茂の時 長崎は幕府領の為に 九州の藩 島原
佐賀(鍋島)久留米 柳川藩が 幕府 板倉重晶で第一次 攻撃
するが 落城出来ませんでした 幕府側の死者 4000人 鍋島藩は
最も犠牲者が多く 3000人近く犠牲になっています
幕府は松平信綱を派遣 二次攻撃では 細川 黒田 鍋島 立花 
有馬藩 12万人を動員攻撃は 鍋島藩が抜け駆けして開始 その後勝利
原城は全ての戦闘員は殺害されました その後幕末まで内乱はありません
でした又その後 幕府は長崎以外は鎖国する

佐賀城前には 長崎街道があり 地理的に長崎に近い場所です

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御殿内 御座間 10代藩主 直正の居室 

9代藩主 斎直 1808年 長崎で入港を禁止されている イギリス海軍
フェートン号が オランダ船にみせかけ入港 オランダ商館員 二人を
拉致 構内警備は 鍋島 福岡藩が担当 鍋島藩は 経費削減で1/10程度
100人しか派遣されず 奉行所は飲料と食料品を提供 その後フェートン号
は出港 逃げ去りました この事件をきっかけに 10代藩主 直正は
藩の近代化に努め 反射炉を建設 鋼鉄製の大砲を製作 船舶の製造
を 薩摩藩の島津斉彬と対比される

幕末時は 薩長土肥となり 薩摩 長州 土佐 肥前 幕府崩壊の雄藩となる

藩士 山本常朝 著書 葉隠 有名な文書 武士道と伝ふは 死ぬ事とは
見つけたり を書いています

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鯱の門 大手口

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門には 新政府 元参議になる 元佐賀藩士 江藤新平 西郷隆盛の
征韓論に同調するが 岩倉 大久保の抵抗にあい 征韓論は否定
されると 後藤新平は佐賀に戻る その後藤を首謀者による 佐賀の乱
が起こる 一時佐賀城は制圧 その時の鉄砲後です

その後 新政府軍との戦いが続き 各地で敗戦 高知で江藤は拘束される
江藤が作った 司法制度で裁かれ 江藤は死刑 斬首される

鹿児島に戻った 西郷隆盛 西南の役が起こり 西郷も自滅します

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佐嘉神社 佐賀鍋島藩 10代 直正 11代 直大を祀っています

佐賀 有明海近く 広大な農地が広がり 北海道の様な風景
秋には インターナショナルバルーンフェスタが開かれます

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福岡県 柳川市に 関ケ原で 西軍 石田三成に味方した 立花宗茂
に代わり 秀吉家臣 田中吉政 東軍に属する 立花が失脚後 柳川城主
に 田中吉政 元は 秀吉の甥 秀次の家老に その時 秀次は近江
八幡山城主 街造り 柳川と似ています 街に水路を創る方法

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三柱神社 戸次(立花)道雪 立花宗茂 立花宗茂の妻 誾千代
道雪 娘 三体の神が祀られている

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福厳寺 柳川城址の近く 立花家 菩提寺

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柳川城址 柳城中学校隣 櫓を組んで 柳川城の看板が

立花宗茂 初代城主 猛将で戦国時代の一人 関ケ原の戦いで
西軍に加担し 改易になるが 徳川二代将軍 秀忠が 元の領地
筑後柳川に10万9200石与えられる 薩摩は改易されませんでしたが
復帰など稀有な事です

親は 大友家臣 高橋招運 同じ家臣 立花道雪 が宗茂の器量に
惚れ 娘 誾千代の養子のもらい 立花宗茂と名乗る
妻 誾千代は 今 大河ドラマ 井伊直虎と同じ様な存在

九州 島津軍の侵略に危機感をもった 大友 宗麟 豊臣秀吉に
援助求める 秀吉の九州平定 

宗茂二度の朝鮮征伐でも大活躍 秀吉死後 関ケ原では西軍に参戦
関ケ原には参戦せず 東軍 京極高次が城主の大津城を攻撃
関ケ原の戦いは短時間で終わったので 参戦できませんでした
歴史に ifはありませが 大津城など攻撃せず 関ケ原に参戦して
いればどうなったか?
その後改易 浪人の身で京都に滞在

戦国時代 好きな武将の一人です

2017031810

柳川川下りの乗合船の降り場 
旧柳川藩主立花家の屋敷 洋館もあり庭園は松濤園になっています
現在 立花家が経営する 旅館 レストラン 結婚式場になっています
逞しい 武家の商法です

2017031811

菅原道真の墓跡に建てられた 大宰府天満宮は3-4回訪れました
今回は 大宰府政庁跡に 西鉄大牟田線 都府楼前駅から10分
位 7世紀後半に建てられた地方行政機関 
660年 朝鮮 百済が滅亡 百済の復興をかけ 天智天皇が派兵
白村江の戦い 唐 新羅 連合軍と戦うが 大敗
唐が攻め込んでくるのに備えた施設 その後 中央から派遣される
貴族の機関場所となる

詳しくは 不明です 広大な広場に 柱の基礎石 石碑のみ 

2017031812

観世音寺 大宰府政庁跡の隣 空海 密教を習得の為に 804年
中国 西安に 2年の修行の後 博多に帰国 朝廷から観世音寺
に留まれとの命令 通常 遣唐使で渡海後20年位 中国に滞在
2年で帰国したためか 此処に1年半留まり 和泉で半年
その後京都に 昔の面影はないそうですが

宝蔵の仏像 巨大な仏像見応えあります 18体が重要文化財です

2017031813

博多駅前通り 博多駅前二丁目交差点 昨年11月8日 地下鉄工事
により 陥没した場所 セブンイレブンも見えます
すっかり陥没の影響みれませんでした 本当に駅前でした

2017031814

豚骨ラーメン 発祥の地 久留米に 宿泊しました
大砲ラーメン本店に 定番 ラーメン注文 スープは美味しい
のですが 麺は細麺 ソーメンみたいです モチモチ感ゼロ
ダメです 名古屋に6年住んでいましたが 味噌カツ 味噌煮込み
うどん食べた事ありませんでした 多分今後も 博多ラーメン
ダメです

若いころ 久留米 石橋美術館で 地元出身 青木繁さんの
海の幸 見た記憶あります 今や世界企業 ブリジストン
久留米が発祥の地 地下足袋からタイヤメーカーに 美術館は
閉鎖 財団は東京に ブリジストン美術館に HP見ると 2年後
開館になりそうですが 石橋美術館は久留米美術館に代わるようです

2017031815

博多駅から10分位 うどん平に 開店15分前到着 30人以上の
行列 人気店とは言え以上です

45分後 座れました ゴボウ天うどん注文 あまりの待ち時間で
つかれました まずまず 430円のうどん食べるには疲れます

博多駅 地下のうどん店で充分です


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2017.02.07

伊豆半島 韮山 修善寺

伊豆半島 何度か訪れていますが 見たい歴史的場所
訪れました 山中城 伊豆の国市韮山 修善寺に

まずは 豊臣秀吉による 北条氏の小田原征伐 支城のみで 相模 伊豆
武蔵 上野 下野 安房 下総 上総 40近くあります 秀吉は小田原城
の周りの支城 落城させていきます

今までに訪れた 後北条支城 箕輪城 厩橋城(前橋城)沼田城 
唐沢山城 忍城 河越城 鉢形城 佐倉城 三崎城 八王子城です
行田の忍城 のぼうの城で映画になりましたが 秀吉の備中高松城
をまねて 石田三成が水責めに見事に失敗しましたが 本陣本当に
古墳の頂上に築いているのですね
今回は伊豆半島の支城 山中城と韮山城を訪れました

鎌倉幕府の執権 北条氏と北条早雲を祖とする 小田原 北条氏と
区別するために 小田原は後北条と呼ばれる たぶん両者には関係性
はないと思います

201702071

箱根峠から三島への国道一号線に 支城の山中城 意外と大きい
空堀などもあり 砦の様に思いましたが 本格的な城です
1590年 秀吉の甥 秀次の率いる7万人 守る北条は3千人 戦闘は
半日で落城 その後廃城

201702072

韮山駅近く 韮山中学の裏山に 韮山城址が これも北条氏の支城
この地にあった 堀越公方の家臣が築城 駿河の初代北条早雲が
上杉家の争いに乗じて介入 伊豆に乱入 堀越公方 茶々丸を滅ぼす

小田原征伐時 北条三代 氏康 四男 氏規が城主 山中城落城させた
秀次が 4万4千人で攻撃 北条軍は3千6百人 百日後 開城

北条四代 五代は小田原城の総10Kmの総構あり 過去 武田信玄 
上杉謙信の攻撃にも籠城で持ちこたえた経験で 秀吉にも耐えられる
と思ったが 作戦面では秀吉の勝ちでした

201702073

次に修善寺に 桂川に沿った温泉街 有馬 湯河原の様な雰囲気の温泉街
此処にも 中国人多い

桂川にある 独鈷の湯 807年 空海が修善寺訪れた時 杖を突きさした
ところ温泉が出た 場所 三年前 四国八十八カ所回りましたが
本当でしょうか 807年は 804年空海 大阪難波より遣唐使船で西安に
恵瓊より教えを受け 806年に帰国 本当かな 空海伝説多いから

201702074

独鈷の湯の前に 修禅寺 空海が創建 頼朝の嫡男 鎌倉幕府 二代将軍 
源頼家 源頼朝の息子 頼朝の弟 範頼が幽閉された場所

上記 山中城 韮崎城を攻めた 豊臣家 二代関白 秀次 秀吉に高野山に
送られ その後切腹 空海が絡んでいるのでしょうか

201702075

指月殿横 源頼家の墓 源頼朝の死後 鎌倉幕府二代将軍に 幕府内の勢力
争いに 頼家の母 北条政子 父親 時政により 修善寺に幽閉 その後
暗殺される 頼家 次男 公暁は 三代将軍 源実朝を 鎌倉 鶴岡八幡宮
の階段で暗殺されています 源家は滅亡し 北条家の支配となります

201702076

指月殿 頼家の母 北条政子が頼家の冥福を祈り 建立
政子の父親 時政は後日 故郷 伊豆国に隠居さられる

201702077

源範頼の墓

源頼朝の六男 源範頼 異母兄弟に義経がいます
兄 頼朝に京都に乱入した 源義仲(木曾義仲)追討の為に 将軍代理で
義経と共に上洛 その後平家追悼で 源平合戦 義経と共に 宇治川の戦い
一ノ谷戦いに参戦 義経は屋島の戦い 壇ノ浦の戦いで勝利 平家は滅亡
頼朝は奥州攻めで 義経 奥州藤原家を滅亡させる

頼朝の不審を受けた 源範頼は源頼家と同じく 伊豆修禅寺に幽閉される
その後 家臣 梶原景時親子に襲撃され殺害される

鎌倉幕府 源家はなぜか呪われている感じがします

201702078

韮山を何回か訪れていますが 歴史的場所が多い場所

平治の乱後 源頼朝が 平清盛により流刑の場所 蛭ヶ小島
頼朝蜂起 最初の襲撃場所 山本判官平兼隆館跡
北条氏のルーツ 北条屋敷 政子の此処が生誕地
堀越公方 御所跡
江川邸 反射炉 最近 世界遺産になりました
北条時政墓 願成就院 

今回 前回訪れた時 茶々丸よく出てくるのですが 良くわからず
再訪 北条屋敷近くに広場 堀越公方 御所跡

室町幕府8代将軍足利義政が 鎌倉より移った 古河公方に対抗策
として 1458年に京都より鎌倉公方として送った 足利政知 鎌倉には
には入れず 伊豆堀越に留まり 堀越御所を建設
足利政知の子 義澄 異母兄 足利茶々丸が殺害 二代目堀越公方に就任
この混乱に乗じた 駿河 興国寺城 早川早雲(北条早雲) 鎌倉時代の北条と
区別する為に 小田原の北条は後北条に名称がつきます 鎌倉時代の北条と
小田原の北条 因果関係は不明 伊豆に攻め入る これが下剋上 
戦国時代の初めになる 堀越公方は消滅 茶々丸も甲斐で自害

201702079

北条時政墓がある 願成就院
この道が 頼朝 政子の散歩道になっていました

蛭ヶ小島と北条屋敷は 多分 一時間もあれば 頼朝 政子は逢引出来ます

久しぶりに伊豆に 伊豆縦貫自動車道が出来ていて便利になりました


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2017.01.20

大阪 阿倍野 京都 伏見に

今回は 大阪 阿倍野 京都 伏見に行って来ました

太平記が好きで 後醍醐天皇を奉じ 建武政権に協力
北畠顕家は 後の後村上天皇と父 親房と共に15歳で 
宮城 多賀城に 移る その後防備の為に 福島
霊山に移る

楠木正成は湊川の戦いで 1336年に自害 新田義貞は
足利尊氏と箱根 足利の戦うが 負け 京都に逃げ帰るが
奥州より 北畠顕家が京都に到着すると 形勢が逆転 その後
顕家は 奥州 霊山に帰る

尊氏は 九州に落ち延びる その後尊氏は 九州で盛り返し
再び 播磨に攻め上る 神戸 湊川の戦いでは 義貞と正成は
連携に失敗 正成は死亡 義貞は 後醍醐天皇の親王2人と共に
北陸に 敦賀 金ヶ﨑城では親王も死亡 追い詰められ 越前に
尊氏勢に攻められ 1338年に死亡

最後に残った 北畠顕家は 霊山より再び 畿内に 地元
伊勢に 奈良に攻め入り 畿内 和泉に入るが 阪堺線 石津駅
近くで 足利尊氏 家臣 高師直 北朝軍 18000人と激突 北畠軍は
3000人 1338年に死亡 享年 21歳

201701192

北畠顕家が死亡した場所 紀州街道 石津川 太陽橋を紀州側に
渡った場所に 供養碑がありました 阪堺線 石津駅近く

201701193

阿倍野 上町線 北畠駅 北畠公園に北畠顕家の墓 
阿倍野ハルカス 良く見えます 手前 手塚山駅 
奥さんの短大があった場所 そうなんだ 青春です

阪堺電車良く残ったな 都電荒川線とは違い広島の宮島までの路面電車の風景

201701194

阪堺線 天神ノ森駅近く 北畠顕家を祭っている阿倍野神社

201701191

① 鳥羽 伏見の戦い開戦の地
② 城南宮 薩摩軍が滞在していました
③ 新撰組 隊長 近藤勇が襲撃された場所
④ 御香宮神社
⑤ 伏見奉行所跡
⑥ 指月伏見城 
⑦ 木幡山伏見城 明治天皇陵

201701195

鳥羽 伏見の戦い 勃発地 鴨川 小枝橋付近
1868年1月3日夕方 前年 12月16日 大政奉還に続き 王政復古を
発令 徳川家の領地返納命令 徳川慶喜は二条城より大阪城に移る

江戸では薩摩藩屋敷を焼き討ち 幕府軍は淀 伏見方面より 鳥羽街道
を京都を目指す 薩摩をはじめ新政府軍は 鳥羽街道近くの城南宮に布陣
この場所で 両軍による 鳥羽伏見の戦いが勃発 戦力は旧幕府軍は15000人新政府軍は4000-5000人

201701196

鳥羽街道の横に 城南宮 この街道を新政府軍が朝廷から与えられた
錦旗を掲げる 幕府軍は賊軍に
近鉄京都線 竹田駅から歩いて 20分位 久しぶりの歩き疲れる

201701197

伏見駅から北に歩いて10分位 料亭 清和荘 脇に新撰組 隊長 近藤勇
が鉄砲で襲撃された場所の碑

1867年12月18日 新撰組は陣を伏見奉行所に移していました
軍議の為に 近藤勇は二条城に 伏見の帰り 前月 油小路の変で
新撰組により 殺害された伊藤甲子郎一派により襲撃される

怪我をした 近藤勇 供回りを残し 乗馬で伏見奉行所に戻る
鳥羽伏見の戦いでも参加できず その後 結核で療養中の沖田総司と共に
大阪より軍艦で江戸に戻る

201701198

伏見桃山駅近く 伏見奉行所跡 鳥羽伏見の戦い時 前線基地に

2017011910

近鉄 伏見御陵駅近くの 御香宮神社 表門は 徳川家光が築いた
伏見城も表門 秀吉が築いた 伏見城とは違います

此処に 薩摩軍が砲台を築き 伏見奉行所を攻撃 新撰組と幕府軍は
奮戦するが 兵器の差 賊軍扱いで 南側 京都競馬場近く 淀城
で体制の立て直しを図るが 入城を断られ 大阪城に逃げ帰る
新政府軍の勝利に 敗戦後 最後の将軍 徳川慶喜 松平容保 松平定敬
と共に 大阪城より隠密裏に 江戸に帰る態度 どうかな

2017011911

今回の目的の一つ 豊臣秀吉が亡くなった 1529年に築城した
木幡山伏見城を見に行く 現在は 明治天皇陵になっていますが 二度目
の挑戦で 行くことが出来ました 参道は距離があります 頂上に
明治天皇陵が この場所に 伏見城がありました
秀吉死後 まだ第二次 朝鮮征伐は終わっておらず 隠密で 東山 豊國廟
に埋葬 又 最後の花見 醍醐寺も近くです

明治天皇陵 八王子の武蔵野陵 大正 昭和天皇陵と同じ お椀を伏せた
陵になっていました

2017011912

天皇陵から 南側 宇治川近くに 1592年 秀吉最初に建てた 指月伏見城が
ありました 1596年に慶長伏見大地震で崩壊 その頃 朝鮮征伐で不祥事が
あり 加藤清正が伏見で謹慎 崩壊した伏見城に最初に駆け付け 秀吉から
謹慎がとかれました

関ケ原の戦いの前 伏見城は西軍により 徳川家臣 鳥居元忠が籠城
全員 討死 城も消滅 多分 木幡山伏見城だと思います

関ケ原で 東軍勝利後 家康により再建されています

2017011913

京阪 中書島駅は三度目です 寺田屋とか運河 造り酒屋が多く良いところ
です 昔行った記憶があるのですが 一万円札 10円硬貨のデザインになって
いる 関白 藤原道長 頼通 親子 藤原氏最盛期に創建された
世界遺産 宇治平等院 鳳凰堂に行って来ました

二日間 大阪 京都 万歩計で五万歩 疲れました

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2016.12.08

下関 門司 小倉 博多に

2016120514

① 白石正一郎旧宅 騎兵隊発祥の地 ② 高杉晋作 終焉の地
③ 本陣 伊藤邸跡 ④ 日清講和記念館 春帆楼
⑤ 赤間神社 安徳天皇阿弥陀寺陵 ⑦ 壇ノ浦古戦場碑
⑧ 壇ノ浦砲台跡 ⑨ 関門トンネル人道 
⑩ 門司 旧大連航路上屋

201612051

高杉晋作終焉の地 下関駅から北に自転車で10分位の場所
新地 庄屋林算九郎宅で肺結核で療養中 27歳と八か月で死亡

坂本龍馬と並ぶ位 幕末の英雄 山口県萩に生まれる 武家屋敷
晋作の実家見ましたが 立派な家でした
その後 吉田松陰の松下村塾で学ぶ 藩命でアヘン戦争後の上海
に渡航 イギリス統治下 上海での植民地の実態を見 影響を受ける
尊王攘夷運動では 品川御殿山の英国公使館の焼き討ちを行う
朝廷から要請されていた 攘夷の実行 長州藩 関門海峡で外国船
の砲撃を実施 その後 三国の連合艦隊により 馬関海峡の砲台
徹底的に破壊される それにより 農民を含んだ 兵隊組織
騎兵隊を組織 第二次長州征伐では 騎兵隊による 小倉城を略奪
周防大島海戦では 海兵隊の坂本龍馬と幕府軍と戦う
この勝利が 徳川幕府の権威低下に 鳥羽伏見の戦いの勝利に

高杉晋作 豪放らいらくで 辞世の歌は
 
おもしろきこともなき世をおもしろく

201612052


下関駅近く 海鮮問屋 白石正一郎旧宅 長州藩の尊王攘夷派を
資金面で支援 晋作 葬儀では白石正一郎が祭主

此処で騎兵隊が結成された

201612053

本陣 伊藤邸跡 伊藤家は鎌倉時代から続く 下関屈指の名家
参勤交代の九州諸大名の本陣 坂本龍馬を支援
京都 四条で 坂本龍馬 中岡慎太郎暗殺された時 龍馬 妻
お龍さんは 此処に預けられていました

201612054

日清講和記念館 春帆楼
日本は朝鮮半島の権益を巡って清国(中国)と対立1894年
に開戦 日本軍が平壌、黄海で勝利し、遼東半島を制圧した
戦況を受け、清国は講和を求める 日本全権弁理大臣は伊藤博文
と陸奥宗光、清国講和全権大臣李鴻章を主軸とする両国代表十一名
が臨みました。講和会議は、当時の春帆楼の二階大広間を会場に
繰り返し開かれ、4月17日、日清講和条約(下関条約)が締結
されました。 

その時獲得した 遼東半島 ロシア フランス ドイツによる
三国干渉により ロシアに返還 これがその後の日露戦争に
つながる

春帆楼 伊藤博文により ふぐ料理 公認された店だそうです
予約のみ食事できるみたいです
建物 近代的だな

ふぐ 近くの 唐戸市場で ふぐちり用 とらふぐ購入
息子夫婦に送りました 高いな

201612055

赤間神社 安徳天皇阿弥陀寺陵

保元の乱 平治の乱で 源氏を滅ぼし 平清盛は絶対な権力者に
清盛 嫡男 重盛 病死 清盛死後 源頼朝 従弟 木曾義仲が
京都に攻め込む 平家一門 居住地 六波羅を焼き 以前遷都した
神戸 福原方面に避難 義仲の京都での治安の悪さに天皇が義仲
討伐の令を出す 頼朝軍 範頼 義経が宇治川の戦い後 摂津
一の谷で平家に勝利 その後 平家は高松 屋島での戦いにも
負け 最後の戦いの場 1185年 壇ノ浦の戦いで 二位殿 清盛
妻と共に 入水した 8歳 安徳天皇 又 安徳天皇の母 清盛
娘 建礼門院はその後助けられました

三種の神器は 草薙の剣は回収できず水没してしまいました

神社には 安徳天皇の陵と壇ノ浦で死亡した 平家一門の墓が
有盛 清経 資盛 教經 經盛 和盛 教盛 祭られていました

201612056

壇ノ浦古戦場址 関門橋があるところが最も狭く 700M位です
潮の流れが良く見えます

源氏 830隻 平家 500隻 1185年4月25日 戦闘
午前中は平家有利でしたが 午後潮の流れが変わり 義経 源氏
の勝利 銅像は平家 大将 知盛 安徳天皇 入水後 後を追って
入水

201612057

壇ノ浦砲台跡 古戦場場址の隣にありました

孝明天皇の要請 攘夷を受け 将軍 家茂は1863年 6月25日を
攘夷実行を約束 長州藩は馬関海峡で アメリカ フランス
イギリス オランダに海峡を通過する 艦船に砲撃を加える
蛤御門の変と言い 無通告で砲撃を加えるのは 長州藩の過激
な行動です

1864年7月には 4国連合艦隊17隻で 砲台を攻撃 全て破損させ
砲台は持ち去られました

講和には とりあえず 長州藩代表で高杉晋作が交渉 (笑)

薩摩藩 生麦事件後 イギリスが鹿児島攻撃 長州藩 下関での
事件 全ての損害賠償は 幕府が支払

201612058

関門橋には 関門トンネル人道が レンタサイクルも使用出来ます
20円払い トンネルに800M 自転車押して15分 対岸 門司に

201612059

門司港駅 中心に 歴史的建物が多数保存されています
港近くに 旧大連航路上屋 戦前の 大連航路の国際線ターミナル
飛行機の無い時代 船舶で海外に 日本海 敦賀 小樽は 
ウラジオストック経由で シベリア鉄道で ヨーロッパに
横浜港はアメリカ 南米航路に 門司は大連に 此処からは
中国内陸 満州鉄道でロシアに

大連に行った時 大連港でターミナル見ましたが その後 なくなった
噂が 終戦間際 ソ連の参戦 満州にいた方 帰国は大変だったと思い
ます

建物 保存状況が良かった

再び下関に 関門連絡船で 下関 唐戸市場に 5分 自転車も船に
載せられました

下関駅近くに 釜山に行く 関釜フェリーが停泊していました

2016120510

翌日 朝一番で小倉城に 開城前 団体が 韓国人か中国人か不明
言葉を聞いていると 中国人?

関ケ原の戦いで功労のあった 丹後国宮津城主 細川忠興が豊後 国東
の城主になり 毛利氏の居城であった小倉の地に 1607年から7年かけ
築城 肥後の城主 加藤清正の子 加藤忠広が改易になり 細川忠興は
肥後に移る その後 小笠原忠真が入封 幕末 第二次長州征伐時
長州藩 高杉晋作の騎兵隊 大村益次郎により 占拠されました
最後は 幕府側は小倉城に放火し 逃亡

2016120512

博多に戻り 多々良浜古戦場に バスセンターから JRバスで
多々良に 但し 1時間に一本 30分待ち タクシーで15分
福岡市東区田の津 流通センターに 多々良浜古戦場碑

足利尊氏 鎌倉幕府 北条氏滅亡させた後 1333年 北条高時の遺児
北条時行と残党が蜂起 鎌倉に留まっていた 尊氏の弟 直義が攻めら
れる 尊氏 関東に出兵 これに敵対する 新田義貞 弟 脇屋義助が
箱根 足柄峠で激突 箱根 竹ノ下の戦い 新田軍敗れ 京都に撤退
追ってきた 足利軍 奥州より下向した 北畠顕家が加わり 新田義貞
楠木正成と戦い 足利尊氏 大敗 九州に逃れる

尊氏 肥後国守護に迎えられが 宮方に味方した 菊池 阿蘇と敵対
足利軍 宮方 九州勢と戦ったのが 多々良浜の戦い
菊池軍 20000人 足利軍 2000人であったが 足利軍勝利
勝利した 足利尊氏 摂津 湊川で楠木正成 新田義貞を破り
室町幕府を創るが 南北朝に それにしても 尊氏 気力半端でない

2016120513

多々良川 菊池軍と足利軍が川を挟んで たいじ 左上が 足利軍本陣
詳細 不明 太平記は面白い

2016120511

博多駅 因幡うどん 博多一番街店

博多豚骨ラーメンより 博多うどんがお気に入り うどん発祥の地
かぎりなく柔らかい麺 甘めの醤油 ゴボウの天ぷら 博多葱
讃岐うどんも美味しいが 博多うどん これも有りです

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2016.11.18

鎌倉 鎌倉公方と関東管領

先日は 伊勢原に扇谷上杉を見に行きましたが 今回は鎌倉に

鎌倉公方と関東管領

室町幕府は関東を統治するために鎌倉府と呼ばれる政庁を設置しました。
その前身となったのは、建武政権が設置した鎌倉将軍府です。足利尊氏は、
建武政権に反旗を翻すと、鎌倉に嫡男の義詮を置いて関東統治に当たら
せます。

貞和五年 1349年、足利尊氏の嫡男義詮の後任として、次男基氏が鎌倉へ
派遣され、以来基氏の子孫が鎌倉府の首長となり、上杉氏が代々補佐役を
務めました。

室町幕府は、鎌倉府の首長を関東管領、補佐役を関東執事として任命し
ましたが、後代になると、関東管領の足利氏が将軍家に擬えて鎌倉公方と
僭称し、関東執事の上杉氏がこれに倣って自らを関東管領と僭称するよう
になりました。近年の慣例では、遡って、足利基氏を初代鎌倉公方、
山内上杉家の祖である上杉憲顕を初代関東管領として数えます。

鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏はやがて対立し、永享の乱 1439年
では関東管領の上杉憲実が幕府方につき、鎌倉公方の足利持氏を敗死
させます。

その後、持氏の遺児の足利成氏が鎌倉公方となりますが、享徳の乱 
1455年 を起こして幕府方の上杉氏や今川氏によって鎌倉を追われ、
下総の古河に逃れます(古河公方)。成氏に対抗する鎌倉公方として
幕府から派遣された足利政知も伊豆の堀越に御所を定めたため
(堀越公方)、鎌倉公方という肩書きは消滅します。

以後、古河公方を頂点とする関東諸豪族の勢力と、幕府方の堀越公方 
関東管領山内上杉家・扇谷上杉家とが、関東を東西に二分して戦い
続けます。

享徳の乱が和解によって終結すると、今度は、争乱の中で勢力を伸ばした
扇谷上杉家が宗家の関東管領山内上杉家と対立し、長享の乱 1487年
が勃発します。

この間に、堀越公方を滅ぼした伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆国から
相模国へ進出し、やがて早雲の孫の北条氏康が古河公方・関東管領
山内上杉家・扇谷上杉家を駆逐して関東を制圧します。

義に応じた 上杉謙信 上越から関東の遠征 13回に
なっています 

北条氏康に敗れた関東管領の上杉憲政は、越後国に入って長尾景虎
(後の上杉謙信)を頼り、氏康の討伐に出陣した景虎に山内上杉家の
家督と関東管領職を譲ります。

201711149

① 長寿寺 ② 太田道灌屋敷跡 ③ 扇谷上杉管領屋敷跡
④ 山内上杉屋敷跡? 北鎌倉 明月院近く
⑤ 浄妙寺 足利貞氏の墓 ⑥ 足利公方邸跡 
⑦ 上杉朝宗 氏憲 邸跡

201711141

足利尊氏 邸跡に創建された 長寿寺 尊氏次男 初代鎌倉公方 
足利基氏によって七堂伽藍を備えた堂を建立

夏頃に鎌倉にも 足利尊氏の墓がある事を知りましたが
公開は 春と秋 金 土 日のみ公開 今回行くことが出来
ました 庭園は手入れされていて 素晴らしい庭です

201711142

観音堂の後方 崖に 足利尊氏の墓 遺髪が納められるそうです
京都での菩提寺 等持寺と此処だけに墓が

201711143

金沢街道沿い 浄妙寺 鎌倉五山 第五位
源頼朝の忠臣 足利義兼が開祖 足利氏の氏寺

訪れたのは二度目 昨年亡くなった 伝説の名女優が
住んでいた自宅を訪ねて

201711144

浄妙寺境内 足利尊氏の父 足利貞氏の墓

201711145

金沢街道 朝夷奈方面に少し進んだ所に 鎌倉(足利)公方屋敷跡
の碑 鎌倉 中心部よりはずれた場所だな

201711146

鎌倉駅 西口から横須賀線 線路沿い 英勝寺前
太田道灌屋敷跡 碑 扇谷上杉 上杉定正の忠臣 太田道灌
伊勢原 糟屋館で 定正で殺害される 伊勢原 扇谷上杉

扇谷上杉屋敷と近い

201711147

扇谷上杉屋敷跡 碑

201711148

上杉 禅秀 氏憲 邸宅跡の碑 相国寺近く
上杉禅秀の乱 この乱が原因で 上杉 4家の犬懸上杉家が滅亡

扇谷上杉管領屋敷跡碑 現在の住所は 扇ガ谷 地名からか
山内上杉屋敷跡は検索しましたが 碑は見つかりませんでした
地名 山ノ内は 北鎌倉 明月院近く 不明です

鎌倉公房が古河に移り 上杉 山内 扇谷が対立 その対立に
つけこんで 後北条 早川早雲が伊豆 堀越公方を攻め勢力
を伸ばすが 後北条も鎌倉には見向きもせず 武蔵 上野 下野
に攻め込む 鎌倉は忘れられた状態に 江戸に徳川家康が幕府
を創るも鎌倉は重要視されませんでした

納骨後 初めて 鎌倉のお墓にまいる事が出来ました


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2016.11.05

伊勢原 扇谷上杉に

鎌倉幕府滅亡後 足利尊氏は京都に室町幕府を創設
鎌倉には鎌倉公方を創設 1445年 第代鎌倉公方 足利
利成が 関東菅領 上杉憲田忠を殺害が原因で享徳の乱
が起こる 戦乱により 足利利成は本拠地を鎌倉から
利根川の北側 古河に公方を移す

対戦相手 上杉家 鎌倉幕府時 将軍の従者として
京都から下向して鎌倉に 上杉憲房の妹が足利尊氏
直義をの母で 足利氏 鎌倉公方の重臣になる

上杉家は鎌倉の地域名から 主家 山内 一族には
扇谷 犬懸 宅間があったが 犬懸と宅間が没落
扇谷上杉家 持朝が家臣 太田道灌に命じて
古河公方に 対抗するために 利根川を挟んだ 江戸
河越 岩槻に城の建築を命ずる

1486年 相模守護 上杉定正が相模 糟屋館で家臣
太田道灌を殺害 定政 古河公方とも和解して 大内
上杉家と戦うが 上杉家内紛につけこんだ 1492年には
早川早雲が伊豆に進行 堀越公方を攻撃 相模 武蔵
に侵入 三代 北条氏康には 河越夜戦で大敗北
関東管領職を上杉謙信に譲る事に

以前 伊豆 韮山 源頼朝が平清盛により流刑地 蛭ヶ小島
に行き 近くにあった 北条の館 小田原城の北条ではなく
鎌倉幕府 執権の方 政子の産湯の井戸などありました
近くに 堀越公方の御所があった様な記憶 茶々丸など知り
ませんでした 戦乱により京都より鎌倉に入れずこの地に公方
を開設

扇谷 上杉家の神奈川 伊勢原に行ってきました

2016110310

① 太田道灌 首塚 大慈寺 ② 太田道灌 胴塚 洞昌院
③ 上杉館 糟屋館? ④ 実蒔原の戦い ⑤ 七沢城祉
⑥ 徳雲寺 ⑦ 丸山城址

Windows 10 対応 PHOTOSHOP ELEMENTS 12で初めて画像
作成しました Ver2から凄い進歩 但し使いずらい

201611031

文武両道に優れた 太田道灌 宗家 大内上杉家 顕定に疎まれ
讒言された主君 上杉定正が暗殺

菩提寺 大慈寺 道灌が鎌倉より移築 再興した

201611032

洞昌院 糟屋館近く? 上杉館 糟屋館で殺害された 享年 54歳

201611033

七人塚 上粕屋神社近く 定正に謀反心があると道灌 殺害
された時 家臣7人が攻撃を引き受けた 家臣の墓

201611034

産業能率大学近くで かながわ考古学財団が 平成27年4月から
29年10月まで 遺跡の発掘しています 糟屋館が場所不明なので
新しい事実が解ればいいが

近くでは 第二東名の御殿場から海老名までの工事が大規模で
やっています それに合わせてでしょうか
東京オリンピック 2020年開通予定

201611035

七沢温泉近く 七沢リハビリテーション病院に七沢城址の碑

1450年(宝徳2)上杉憲忠が鎌倉公方足利成氏と争った際、憲忠が
七沢要害に籠もったという記録が初見

1486年(文明18)太田道灌が糟屋館で扇谷上杉定正に謀殺された
2年後の1488年(長享2)2月、鉢形城から出陣した山内上杉顕定は
1千余の兵を率い七沢を攻めた。これに対し 扇谷上杉定正は
川越城から手兵2百の兵をもって出陣し、5日実蒔原に陣する
顕定と争った。顕定は背後にある七沢城を攻め、その際城主
で定正の兄といわれる朝昌は討死したともされるが、
かろうじて顕定を敗走させた

朝昌の跡は定正の次子である朝寧が継いだが、その後後北条氏
の勢力がこの地方に及ぶと七沢城は放棄されたものと考えられる

201611036

七沢リハビリテーション病院 全体が七沢城址

201611037

七沢温泉 徳雲寺 上杉定正夫婦の墓?
左側に 七沢リハビリテーション病院が良く見えます

201611039

丸山城址 国道246 厚木から秦野方面に行く時 伊勢原付近
東海大学病院隣 城址らしき台地 気になっていたのですが

古文書によると 平安~鎌倉時代 糟谷左衛門尉有季の屋敷跡
発掘調査では 室町から戦国時代の青磁 陶器 瓦が発見
されているので 上杉定正に関連する城の可能性もあるかも

201611038

東丹沢 七沢温泉初めて訪れました のんびりした場所

まず来ない場所に ラーメン屋有名店 車でないとまず無理

ZUND BAR 店名からラーメン屋とは想像できません
醤油ラーメン注文 現在はやりの淡麗系ラーメン 細麺
野菜 水菜 もやしが入っているのは 手抜きだと思います
スープにパンチ力が弱い まずまず リピなし

開店間際に訪れてましたが 並んでいます
その後 客がぞくぞく入ってきます オシャレな内装
バーのようですが カップルも多い

その後 七沢荘で日帰り温泉に

数年前 大山に行く途中 寿雀卵を購入するつもり
でしたが 長蛇の列で すぐに売り切れで 購入出来
ませんでした 残念

今回は 11時頃訪れたのですが すんなり購入できました
後日 卵かけごはん 濃厚なキミ 美味しかった
翌日は すき焼きにしました

来週は 足利 上杉 求め 鎌倉に

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2016.10.27

真田の城 関東7名城

先日 三国街道からの帰路 真田家の城 関東7城
観てきました

201610241

国道17号 三国街道から 沼田の近くに 名胡桃城址
豊臣秀吉 薩摩 島津義久を降伏させ 九州を征服
西日本も統一 天下統一には最後 関東の北条氏のみ
北条氏直を上洛させる為に 真田昌幸の沼田領土問題
1589年7月に 秀吉の仲介で 沼田城を含め昌幸に割譲を
認めさせる 但し 名胡桃城は含まれていなかった

同年11月 北条家臣は名胡桃城を占拠
真田昌幸が秀吉に訴える 秀吉は待ってたと思い
小田原征伐にふみき 秀吉の天下統一が完成

何故 真田昌幸がこの城に固執したか 先祖の墓が
あったか 疑わしい 不明 但し 三国街道沿いにあり
軍事的に重要な場所

現在 整備中 空堀も深い

201610242

名胡桃城址 本丸から 沼田方面 山影で 沼田城址
見れません

タモリが絶賛した 利根川の河岸段丘 福岡で高校時代
地図を見て絶賛 早稲田大学入学後 すぐに沼田に行った
そうです 先日 ブラタモリで沼田訪れていましたが 
楽しそうでした

201610243

沼田城址 河岸段丘に築城 現在は公園になり 城壁に一部
のみ 沼田駅も下の方に見え 丘の上に築城

沼田氏が築城 その後 上杉謙信が奪うが 沼田三人衆が支配
上杉謙信死後 景勝の命で 真田昌幸が凋落して落城
その後 秀吉の命で 北条氏が支配 小田原征伐後は 昌幸
嫡男 信之が支配 その後 上田 松代に移り 真田家は幕末
まで残る

家康 上杉景勝を攻める為 会津に 徳川軍に合流の為に
真田昌幸 信繁(幸村)親子 上田より 真田信之は沼田より
途中 栃木 佐野市の犬伏で 親子三人で話し合い
昌幸 信繁は大阪につくことを選び 信之は家康を選ぶ

真田親子 上田に帰る途中 孫の顔見る為に 沼田城に
留守を守っていた信之の妻 小松姫 (徳川四天王の一人 
本多忠勝の娘)親子で分裂したので 小松姫は城に入る事
を許さず 真田昌幸 信繁は上田に帰る事に

NHK 大河ドラマ 真田丸の影響か 真田信之 小松姫の
新しい銅像が 後方が本丸だそうです 広場のみでした

201610245

真田親子が相談した 犬伏の分かれ 栃木県佐野市 薬師堂です
室内は狭い 近くに 大庵寺があり 此処は広いお寺
です 寺で探しましたが 真田 会合の説明ありませんでした

大河ドラマ 真田丸 夜早く寝るのでほとんど見た事ありません
先日 土曜日 再放送観たら 九度山で14年間 生活後
大阪城 入城でした まもなく 大阪城 冬の陣 真田丸 活躍
します

201610246

高崎市郊外 箕輪城祉 長野尚業が築城 戦国時代 山内上杉氏 
上杉憲政の重臣 戦国時代 長野業政は 関東管領 上杉憲政を
支える 武田の攻略をさしとどめる

北条の小田原征伐後 徳川家康は関東に領地替え 四天王の一人
井伊直政が城主に その後 高崎城に転移 その後 琵琶湖近く
彦根城に

以前 高崎城址に行った時 箕輪城址を見たくて行きました

2016102412

関東7名城

川越城 忍城は以前訪れました 宇都宮城 多岐城は遠いので
今回はパスします

前橋城 古くは 厩橋城と呼ばれました 城の跡はほとんどなく
城址は 群馬県庁です 福井城と同じです

厩橋城は 上杉謙信 越後より三国街道を通り 関東進出の時の城
その後 北条氏の城となるが 武田 織田信長により滅ぼさせると
武田勝頼を死亡させた功績により 信長 家臣 滝川一益に上野国
を与えられ 前橋城に入る その後 信長 本能寺の変で明智光秀
に殺害されると 周りは敵だらけ 滝川一益は中山道を通り伊勢長島
に逃げ帰る その為に 信長死後 後継者の選ぶ 清州会談には
まにあわず 秀吉の思うままに

201610247

郡馬県太田市 新田金山城 

良く保存されています 山城の様子が良くわかります

新田義貞が築いたとの説がありますが 違うようです
世良田 新田荘には城らしいものがなく 此処が新田の城かな
と思いました

小田原征伐で秀吉軍に攻撃をうけ落城 その後廃城

201610248

頂上 本丸跡に 新田神社が

201610249

金山城から 太田駅 富士重工の工場 昔 中島飛行機の工場が
右の方に 利根川近く 世良田 新田荘 鎌倉 北条幕府崩壊が
此処から始まる

2016102410

下野国南部 唐沢山城 越後 上杉謙信 小田原 北条氏 二大勢力
に挟まれた場所 永禄には 10回もの死闘が繰り替えますが 落城
はしませんでした

永禄3年 1560年 2月の戦いでは唯一 佐野昌綱と謙信は手を組んで
北条氏政と戦い 三万人に包囲され落城寸前 越後より応援に駆け付
けた 謙信 40騎ほど従え 中央突破 北条は包囲を解き撤退

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頂上 本丸跡は唐澤山神社になっています
平将門の乱の将門を討ち取った 藤原秀郷が祭られています

歴史上 天皇を名乗ったのは将門だけでしょう
舞台はこのあたりでしょうか?


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