2017.10.26

鎌倉 太平記 見に行く

先日 後醍醐天皇と足利尊氏との戦い 太平記の場所
鳥取に 船上山 後鳥羽上皇 後醍醐天皇が壱岐に流された
港 美保関に結局 壱岐諸島には行きませんでしたが

舞台になった場所 福島から福岡まで行きました
この後 太平記 歴史的場所に行くのは止めました

近場で 再度 鎌倉に 色々な場所があります
神奈川では足柄峠 近くで 新田義貞兄弟と
足利尊氏兄弟が戦った 箱根 竹ノ下の戦いがありました

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① 葛原ヶ岡神社内 日野俊基 最後の場所 ② 日野俊基の墓
③ 護良親王閉じ込められた土牢 ④ 護良親王の墓
⑤ 洲崎古戦場 ⑥ 化粧坂切通し ⑦ 稲村ケ崎
⑧ 極楽坂切通し ⑨ 北条高時腹切りやぐら
⑩ 御霊神社

鎌倉 太平記 年表

1316年 北条高時 14代執権に
1324年 日野俊基 正中の変にて逮捕
1331年 倒幕計画失敗 元弘の変 楠木正成 河内赤坂城で挙兵
    後醍醐天皇 壱岐に流刑
1332年 日野俊基 鎌倉 葛原ヶ岡神社付近で処刑
    後醍醐天皇第三皇子 護良親王 吉野で挙兵
1333年 後醍醐天皇 壱岐より脱出 諸国に倒幕の決起を
    呼びかける
    新田義貞 上野国で挙兵 武蔵分倍河原で北条軍
を破る
新田義貞 鎌倉攻略 北条高時自害 31歳
    建武の新政 後醍醐天皇 天皇が自ら行う政治
1334年 京都で足利尊氏暗殺計画で露見し護良親王 鎌倉に
    送られる
1335年 北条高時 遺児 北条時行 足利尊氏 弟 直義を
    鎌倉にて破る 
足利尊氏 兄弟 箱根 竹ノ下の戦いで 
新田兄弟軍 破る
北条時行 鎌倉乱入の混乱で 足利直義 護良親王を
殺害
1336年 足利尊氏 福岡に逃亡 その後盛り返し 兵庫県湊川
    で 楠木正成 敗北 自害
1337年 後醍醐天皇 吉野で南朝を開き 南北朝に分裂
1338年 新田義貞 斯波高経と越前藤島で戦い 敗死 38歳
    北朝 足利尊氏 室町幕府征夷大将軍となる

1336年 足利尊氏 敗北 原因は 北畠顕家が陸奥下向 霊山より
    攻め上がり これが原因で 尊氏 九州に逃れる

太平記の場所を見る為に鎌倉 源氏山に 麓は寿福寺 頼朝 正室
北条政子 鎌倉幕府第3代征夷大将軍 源実朝の墓があります 
頼朝の父 京都で保元の乱で 平清正に敗れ関東に逃げる途中 
中部 知多半島で家臣の裏切りにより殺害される
のですが 逃げ延びるさきが 寿福寺ではないかと?
源氏山には頼朝の銅像があります

源氏山には 北鎌倉駅より大仏ハイキング コースで行くのですが
今日は スクーターで 銭洗弁天は車が通る道があった記憶 鎌倉駅
西口付近より銭洗弁天に道は狭く 車では厳しいかな
無事 源氏山公園まで行けました 近くに葛原ヶ岡神社が 

201710241

葛原ヶ岡神社内 後醍醐天皇による北条倒幕計画で六波羅探訪に
より露見 計画の罪をかぶり 日野資朝 日野俊基は鎌倉に送られ
日野資朝はその後 佐渡島に流刑 その後殺害される
日野俊基はその後 葛原ヶ岡神社付近で処刑 
神社内には 俊基終焉の地の石がありました

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神社近く 日野俊基の墓

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1333年 新田義貞 足利尊氏 同じ 源氏が祖 新田義貞が群馬県
新田荘 生品神社で倒幕の挙兵 鎌倉に 同じく京都に在住していた
足利尊氏は 京都府
亀岡市 篠村八幡宮で 六波羅探訪を攻める為に
挙兵

自宅近くにも 鎌倉道があります 各地にあり鎌倉詣での為に
出来た道です この道の先に 大船駅があり ひょっとして 新田軍
通ったのかな?

鎌倉攻めでは 足利尊氏 子 二代将軍 義詮 千寿王が参加 
わざとらしい源氏の家筋では 新田家 足利家では 足利家が
位が高い

湘南モノレール 湘南深沢駅から大船駅よりに 洲崎古戦場の碑
左側が 鎌倉方面です
分倍河原の戦いで敗れた 北条軍 鎌倉にもどり この地で
立て直す 北条軍 赤橋守時と新田軍 堀口貞光軍が激突
6万ちかくあった 幕府軍が300人位になる

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鎌倉 中心部 大倉幕府? 鶴岡八幡宮の隣 に入るは
鎌倉7口 切通しを通らなくてはいけないのですが 八幡宮
近く 巨福呂口は突破できず 源氏山公園近くの化粧坂口も
突破できず 激戦に

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幕府内突入方法を 海側 由比ガ浜と七里ガ浜の間にある
稲村ケ崎に変更 伝説では新田義貞が 黄金の太刀を投げ入れると
潮が引き 由比ガ浜方面に新田軍が通過出来た あくまでも
伝説です

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江ノ電 極楽寺駅近く 極楽寺坂切通しより 激戦でしたが
幕府内に侵入が出来た 中心部に攻め込む

以前 極楽寺坂の碑を見ている時 若い人が来て 移動して下さい
との話 何を言っているか不明で スタイルの良い人が坂から
降りて来ました 綾瀬はるかさんでした カメラは見えず
多分 アジサイで有名な 成就院から遠望で撮影していたか
後で調べると 映画 海街diary の撮影でした

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鶴岡八幡宮近く 宝戒寺 奥 東勝寺跡 北条高時腹切りやぐら
鎌倉に新田軍が侵入すると 14代執権 北条高時 一族が
菩提寺 東勝寺に退き 自害 享年 31歳 鎌倉幕府消滅

太平記はその後舞台は 京都に移り 1333年~1338年 
室町幕府が出来るまで 戦いが続く

201710248

鶴岡八幡宮から金沢街道 途中に鎌倉宮

明治2年 明治天皇により護良親王を祭る神社を造営
土牢があった場所に 本殿を造営

1334年 京都で足利尊氏暗殺計画で露見し護良親王 鎌倉に
    送られ 本殿後方にある 土牢に9か月 幽閉

1335年 北条高時 遺児 北条時行 足利尊氏 弟 直義を
    鎌倉にて破る その混乱の中 直義の命で殺害される

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鎌倉宮近く 護良親王の墓 階段が凄い

2017102410

番外 御霊神社に 極楽坂から長谷方面に 途中 京都らしい
力餅家を曲がり 江ノ電の踏切の先にありました

最近 初詣 混雑が嫌で 近場の 中田 御霊神社に
一度 総本山 鎌倉 御霊神社に 鎌倉権五郎景政を祭る

東北 平泉 藤原家が出来るきっかけ 源義家が平定した
後三年の役に 鎌倉権五郎景政 17歳で参戦


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2017.10.20

島根 富田城 三保 鳥取 船上山 鳥取城

島根 鳥取に行って来ました

目的は 尼子氏再興 尼子勝久 中山鹿介の城
月山 富田城 後醍醐天皇 鎌倉幕府討伐計画が露見
過去に 承久の乱で後鳥羽上皇が 隠岐に流罪
後醍醐天皇も 先例に従い 壱岐に流罪 後鳥羽上皇は
壱岐で死亡 不屈の後醍醐天皇は 壱岐を抜け出し
名和長年の助けで 壱岐島を抜け出し 船上山にたてこもり
北条軍に挙兵 打ち破り その後は 太平記の世界
足利尊氏が 京都 六波羅探題を攻撃 東国では 新田義貞
が 鎌倉幕府を攻撃 鎌倉幕府を崩壊させる

鳥取城に 江戸時代は 備前岡山城の分家 池田氏の城
戦国時代は 羽柴秀吉の中国攻めになった城 秀吉 播磨
三木城で兵糧攻め落城後は 秀吉 鳥取城を攻撃
毛利家の家臣 吉川経家を城主に迎え 三木城以上の徹底的な
兵糧攻めを実施 経家は 自決と引き換えに開城

秀吉 兵糧攻め 水攻め 大返し何度か実施しています

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① 月山 富田城址 
② 後鳥羽上皇 後醍醐天皇 壱岐に流罪 汐待の寺 仏谷寺
③ 後醍醐天皇 壱岐を脱出後 上陸した 腰掛岩
④ 名和氏と北条軍が戦った 船上山
⑤ 鳥取城址

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以前 夫婦で 島根に 足立美術館 松江城 出雲神社に皆生温泉
に泊まり 今回 月山富田城 足立美術館で看板見ました 訪れると
すぐ近くでした 尼子氏の歴代の城 毛利に敗れ 尼子が没落
お家再興で 悲運の武将 中山鹿介が有名です
晴久が最後の守護 毛利に滅ぼせられました

月山富田城奪還を目指す 中山鹿介に擁立され尼子勝久は 中国攻め
を目指す 秀吉に援軍を求めるが 信長が秀吉に三木城の攻撃を優先
させ 援助は中止 中山鹿介は捕虜になるが 毛利に移送中に殺害
される

山城甘く見ていました 山全体が富田城址 麓には中山屋敷も
頂上は本丸 後のことを考え 登るのを中止

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中山鹿介の像 富田城 麓

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鳥取県側 境港 島根県側  美保関 境水道を結ぶ
境水道大橋 

壱岐諸島に行こうと思いましたが 美保関側から 高速船で3時間
フェリーで4時間 行くのを諦めました

今回で 鎌倉幕府崩壊から室町幕府誕生 皇室の南北朝分裂
この様なストーリーを描いた 太平記

北は福島県から福岡県まで 訪れました 壱岐はいけませんでしたが

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後鳥羽上皇 北条氏を倒すべき 挙兵 その後敗れ 1221年に
壱岐に流刑 1332年 後醍醐天皇 鎌倉幕府に反逆し壱岐に流刑
京都から此処まで来て 壱岐に 上皇と天皇は流された島は
違うようです 出発まで潮待ちした 寺 仏谷寺

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美保関漁港 多分此処から 上皇 天皇は壱岐に

以前泊った 皆生温泉から 美保湾沿いに 漁火が見え 島が見え
あの付近から 後醍醐天皇 壱岐に流されたかなと感傷的に
此処から 複雑な 室町幕府誕生の 太平記が始まるのです

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1333年 流罪一年後 名和一族を頼って 壱岐より脱出
山陰線 名和駅 大山町役場近くの漁港に上陸 後醍醐天皇
腰掛岩 名和長年などが出迎えたのでしょうか?
凄い精神力です

最後は 京都に戻れず 北側 京都を向いた 
吉野の後醍醐天皇陵

残念ながら 後鳥羽上皇は京都に戻れず 壱岐で死亡

似たような話 ナポレオンは二度島流しになっています
最初は地元近くの エルバ島 脱出し復活 二度目は
アフリカ セントヘレナ島 二度と脱出出来ませんでした

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名和神社 名和駅近く 名和長年を初め 一族42名をまつる神社
後醍醐天皇を 船上山に迎え鎌倉幕府軍を破る
鳥居の先は 壱岐島を向いているそうです

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日本海から 大山方面 途中に 後醍醐天皇を船上山迎えた
凄く奇妙な山 まるで南米のミニ ギアナ高地風の山
良くこの様な場所見つけたな 名和一族 その後の 楠木正成の
戦い 千早城より 防御は良い

2017101910

此処でも 登山は中止 頂上には 船上神社 後醍醐天皇上宮跡
があります 登山口から 往復で三時間位かかるようです

2017101911

往路は 米子鬼太郎空港 米子は 退職前多分 10回以上宿泊して
います 泊りは何時も ANAクラウンプラザ 米子でした
隣には 米子城址があり 部屋からもライトアップされた城址が
良く見えます

米子城 築城は 応仁の乱後滅亡した 山名氏?
改築は 毛利三本の矢の一つ 吉川広家 城址のみ残っていますが
不明です

吉川経家像 鳥取城 秀吉による食料攻めにあい 開城を条件に
自害した 経家像

2017101912

鳥取県庁裏 久松山に本丸 戦国時代は 天正9年 織田信長の
中国攻めで 羽柴秀吉による 鳥取城攻め 以前 大正6年から8年
兵庫県三木市 三木城で食料攻め 城主 別所長治は 家来の開放
を条件で自害 同じ様な方法 地元の米を買い占め 鳥取城側が
毛利家臣 岩見吉川 城主 吉川経安 嫡男 吉川経家を向える
やはり 三木城と同じ様に食料攻め 経家が自害で 鳥取城を秀吉
勝利 その後 秀吉は 備中高松城 水責めに 途中 明智光秀
が 本能寺の変が起こり 信長は自害

江戸時代は 池田の城

久松山 263M 頂上が 鳥取城の本丸

本丸まで行きましたが 途中棄権 今回 山城 富田城 船上山
全て棄権 歳と共に 山城がきつい

2017101913

鳥取城より 鳥取駅方向の風景 下の洋風の建物は 明治40年
皇太子 後の大正天皇の山陰行啓で 藩主 池田仲博が命じ
宿泊場所として建設 仁風閣

鳥取は 資格の関係で訪れたのは何十年ぶり 米子より少し都会
但し 米子では使えた JR系 ICカード 鳥取は 福井と同様に
使えませんでした すなば珈琲がありスターバックスも
駅の隅にありました

復路は 鳥取砂漠コナン空港から羽田に 時間があるので
山陰線で 1時間に1本 鳥取大学前駅まで 空港まで歩いて 20分
鳥取駅から二つ目次の駅で 電車待ちで6分停車 やはり地方は車で
ないと移動が困難


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2017.09.22

明智光秀 本能寺の変 から 山崎の戦い

先月行く予定でしたが 京都の夏の暑さに負け
今月 明智光秀の本能寺の変 その後 豊臣秀吉が
備中高松城よりの 中国大返しで 京都 天王山での
山崎の戦いの場所 見に行きました

9月12日の朝日新聞 本能寺の変 何故 光秀が起こしたか
所説あり 決定的な手紙が発見? 三重大学の教授が 岐阜
美濃加茂市の資料より発見

1582年 天正10年6月2日に本能寺の変が起こるのですが
10日後に光秀から紀州 雑賀党 土橋重治 宛に送られた
手紙を発見 内容は 織田信長により京都より追放された
15代室町幕府 将軍 足利義昭の入京を承認した内容
足利幕府復権の承認した手紙 納得できる内容でした 
ますます 光秀の行動が気になります

201709211

① 亀山城 ② 愛宕神社 ③ 老ノ坂 ④ 山崎の戦い
⑤ 恵解山古墳(明智光秀 本陣) ⑥ 勝竜寺城
⑦ 岩清水八幡宮 ⑧ 洞ヶ峠 ⑨ 天王山 ⑩ 明智藪
⑪ 桂川 ⑭ 篠村八幡宮(足利尊氏 旗揚げの地)
⑮ 六波羅探訪 鎌倉幕府 京都での監視場所) 

201709231

関ケ原の戦いの翌年1601年 徳川家康が築城 現在の二条城
1611年には 秀吉の跡取り 秀頼と家康の会談が行われましたが
三年後 大阪の陣が起こっています
1867年には最後の将軍 徳川慶喜が諸侯の大名を集め大政奉還
を発表が 二条城で行われました

本能寺の変~山崎の戦まで 明智光秀の足取り

天正10年5月17日

武田家に勝利後 安土城で徳川家康の接待役を途中解任されて
居城  坂本城に帰され、羽柴秀吉援護の出陣を命ぜられる

201709213

亀山城祉 内堀 現在は敷地は宗教団体の土地になり 敷地内
は見学は自由ですが 宗教施設の建物があり 面影ありません

天正10年5月26日

亀山城に移り、出陣の準備を進める。

天正10年5月28・29日 愛宕神社に

愛宕百韻で有名な連歌会を催す 神社では信長討伐のおみくじ
凶が出たので 三回繰り返す 光秀の発句は 有名な

ときはいま天(あめ)が下(した)知る五月(さつき)かな 

この句を見てると 主人筋 美濃土岐氏の復興を読んでいる
様に思われるのですが 上記 の新発見に似ているのですが?

愛宕山は亀岡駅の北側 保津川の先 高尾の西側 麓から登山
2時間半ぐらいかかります 行くのを辞めました

201709214

天正10年6月1日の夕方

1万3,000人の手勢を率いて亀山城を出陣
現在の国道9号線 途中 老ノ峠 本能寺まで20km位
 
翌2日未明 桂川で 敵は本能寺にありと叫び兵士に知らせる

亀山城から備中高松城に行くには 国道9号 京都方面では
なく 丹波・篠山方面は西側に行くとおもうのですが 兵士は
気が付かなかったかな

201709212

① 本能寺 ② 妙覚寺 ③ 二条御所
⑤ 15代将軍義昭 二条城 ⑥ 13代将軍義輝 二条城
⑦ 徳川 二条城 ⑧ 御所 ⑨ 足利尊氏 邸宅
⑩ 現 本能寺 ⑪ 現 妙覚寺 ⑫ 秀吉 秀次 聚楽第

201709215

13代将軍 足利義輝 二条城 松永久秀 三好三人衆に襲われ
討死 邸宅も燃える

御所 西側 平安女子学院に碑

201709216

15代将軍 足利義昭 二条城 足利義輝 二条城の跡に
三好三人衆襲撃に備え 短期間に 織田信長が建設

その後 信長と義昭の関係は悪くなり 義昭は京都を追放
されています

201709217

御所内にも 当時の石垣が残っています

2日早朝 本能寺に宿泊していた 織田信長を明智軍が襲撃
織田軍は60名ほど その後寺から火が出て本能寺は消滅
信長の遺体は明智軍は捜索したが発見されませんでした

201709218

2日早朝 本能寺に宿泊していた 織田信長を明智軍が襲撃
織田軍は60名ほど その後寺から火が出て本能寺は消滅
信長の遺体は明智軍は捜索したが発見されませんでした

次に 明智軍 信長嫡男 信忠が滞在する 信長護衛でつれて
来た 信忠軍が駐留した 妙覚寺 1500名 東側には 二条新造
此処は 信長 正親町天皇の皇子の為に造営 信忠は皇子を御所
に避難させ 此処に立てこもりその後 自害

場所は烏丸通り 烏丸御池交差点 左側 京都国際マンガ
ミュージアムがある場所 二条新造と西側に妙覚寺が

秀吉の京都大改造で 妙覚寺は御所の北側に 本能寺は
寺町通に移転

天正10年(1582年)6月5日

この日、明智光秀はようやく織田信長の居城だった「安土城」に入ります。
信長の親族も 蒲生賢秀が 別の場所に避難させられていた
その後 明智軍退去後 安土城に来た 信長 次男 信雄が明智軍 残党を
あぶりだす為に火をつけたとか 真相は不明 安土城は炎上

天正10年(1582年)6月7日

政務を行ったのはこの頃を含めて3日だけなので、一般に光秀の天下は
「三日天下」と呼ばれています

この間、明智光秀は寺院への金銀の献上や、禁制(禁止事項)
と税金免除の告知、朝廷工作などを積極的に行っています。

この期間に明智光秀は朝廷から、最も権威のある最上位の官位
「正一位・征夷大将軍」に任ぜられたという説もあります。

天正10年(1582年)6月10日

あまりにも 羽柴秀吉の行動が早いので 光秀軍は慌てて布陣した
様に思う

光秀・秀吉、天王山へ

2日に本能寺の変 秀吉が備中高松城で 本能寺の変を知った
のは 6月3日~4日頃 軍師 黒田 官兵衛の提案で毛利軍と和議
城主 清水宗治 切腹 堤をきり 明智光秀と対決の為に 4日には
姫路城に 中国大返し 9日には姫路を出る 12日には山崎に布陣
山崎の戦い

山崎の地は 木津川 宇治川 桂川が合流 淀川に
西側は 天王山があり 川と山に挟まれた狭い地

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天王山 旗立松展望台から 山崎の戦いの場所

山崎の戦い 明智 秀吉 布陣

明智軍の 16000 人に対し、秀吉軍は 35000~40000 人

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明智軍 本陣を置いた 恵解山古墳 名神 大山崎Jctの北側

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秀吉が本陣を置いた 宝積寺 天王山登山道途中

2017092112

恵解山古墳の北  細川藤孝の城 細川 藤孝の嫡男 細川忠興と
明智光秀 三女 玉 ガラシャが結婚式をあげた城

本能寺の変起こした 秀光 一番頼りにしていた 細川藤孝
13代将軍 足利義輝 松永久秀と三好三人衆に攻められ 殺害
その後 義輝の兄弟 義昭は 三好三人衆に奈良 興国時に
幽閉されていたが 細川藤孝が助け出し その後 越前 朝倉景勝
に世話になる その頃 明智光秀は浪人後 朝倉景勝の家臣に 
細川藤孝と相談の上で 光秀は織田信長に紹介 そのような関係で
細川家と婚姻関係に 本能寺の変後 協力のてがみを書くが
突然 引退 協力を断る 光秀にとってはショックだと思う

2017092116

山崎の戦い敗戦後 勝竜寺城に逃げ籠城 その後 琵琶湖 坂本城
に逃げる途中 伏見の東 秀吉 死亡前 醍醐の花見で
有名な 醍醐寺近くで 落武者狩りにより討ち取られる 明智藪

2017092115

光秀のミスは さらに 久しぶりに聞いた言葉

洞ヶ峠を決め込む 洞ヶ峠は 戦いの場所 山崎の東 岩清水
八幡宮の南側 京都と大阪 枚方の国道1号線の峠

大和の筒井順慶 順慶が織田信長 傘下になる際 光秀が仲介を
当然賛同してもらえると思ったが 戦い時 洞ヶ峠まで出兵したが
様子見で この時の様子が 洞ヶ峠を決め込むとなった

2017092113

羽柴秀吉 山崎の戦い勝利後 清州会談 柴田勝家との 賤ケ岳の
戦いに勝利 天下人に昇り詰めて行きます

山崎城 天王山頂上 本丸跡 山崎の戦い後 秀吉 城を築き
大阪城が出来るまで此処に

2017092114

17烈士の墓 天王山 頂上近く

幕末 長州藩 京都から追放 長州藩による 禁門の変 主戦派に
参加 敗戦後 天王山に立てこもり 17名 真木和泉ら戦死

2017092118

烏丸通り 烏丸駅から 東側に 初代 室町幕府 将軍
足利尊氏 邸宅跡 此処が 最初の幕府 南北朝に別れ
尊氏 後醍醐天皇との闘い 関東には帰れず 京都に
幕府を創設したイメージ その後 三代将軍義満の頃は 
御所 北側 同志社大学 西側に花の御所 邸宅に

2017092117

篠村八幡宮 足利尊氏 旗揚げの地 京都縦貫自動車道 篠ICの北側
亀岡市内 最初は 北条軍に従い 後醍醐天皇に従う 反討幕軍に
討伐の為に 山陰道 伯耆に 途中 篠村八幡宮で 反北条軍が
2万人以上集まり 反転 討幕軍に参加 京都の鎌倉幕府 監視役所
以前は 平家の屋敷跡 六波羅探題を襲う 反北条の旗揚げになった
場所 関東では 新田義貞が 群馬 生品神社で 反北条の軍を
あげ 鎌倉幕府が崩壊 その後の後醍醐 新田 楠木 対 足利尊氏
の戦いは 続きます 詳しくは 太平記で

2017092119

洞ヶ峠途中 食べログ 京都ラーメンで高評価 麺屋 たけ井 R1号店
に ログでは 千葉 松戸 とみ田で修行したようで期待
していました とみ田同様濃厚なスープ 太麺 とみ田とは違う味
半分以上残しました

やはり つけ麺は関東が良い 大勝軒発祥の地ですから

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2017.01.12

府中 調布に

律令時代に 武蔵国に国府が置かれた 府中に
府中駅には 源 義家像 分倍河原駅には新田義貞像
横浜から町田経由 鎌倉街道で府中に

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駅前 ケヤキ並木沿いに 源 義家像が
父・頼義と共に前9年の役で敵対勢力と戦い 又後3年の役
を戦い 奥州藤原氏の成立に貢献 後に 源頼朝が滅ぼし
ますが 戦勝を祈願した大國魂神社に平定の報告し
けやきの苗木1000本を寄進したことに由来し 銅像があります

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南武線 京王線 分倍河原の駅前に 新田義貞像が
鎌倉幕府崩壊に上野国新田荘で兵を挙げ 鎌倉までの途中
分倍河原の戦いがあった場所

南北朝時 後醍醐天皇に協力するが 最後は福井で死亡

考えれば後醍醐天皇に協力した 楠木正成 北畠 顕家 新田義貞 全て 殉職
来週 北畠 顕家 戦死した 大阪 堺に行ってきます

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分倍河原の戦いの碑 中央高速横の 公園に 近くに多摩川があり
この付近で 北条軍と激突 勝利に

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昼は ハンバーグ カロリーハウスで 人気あります 開店前
に行列が 前の道沿いに 塀が 昔 三億円事件があった現場
府中刑務所が 道の横に JR南武線 その隣が東芝の工場が
確か 奪われた現金は 東芝のボーナス用のお金

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近くに 調布飛行場があるので初めて訪れました
街中にある空港とのイメージ 2015年 7月に空港南側に
軽飛行機が住宅街に墜落 住民1人と操縦士 同乗者に二人が
死亡する事故が起こっています

201701126_2

スポットには新中央航空 19人乗りのドルニエ228が伊豆諸島に飛んで
います 現役時代 出張泊りで10数回 大島空港に行きました

当時は羽田空港よりジェット機で 大島に 横風時は着陸のアプローチ
スピードが速く 着陸出来ない事が多々ありました
ドルニエはプロペラでアプローチスピード遅いので 欠航はほぼありま
せんでした

大島路線 2015年10月に撤退 現在は 新中央航空が 調布より3便/日
運航しています 飛行時間25分は早いですね 

調布空港 大島空港よりきれいですね 大島にはなかったバスの便は
定期バスが 調布駅より結構な便数で運行されていました


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2016.12.08

下関 門司 小倉 博多に

2016120514

① 白石正一郎旧宅 騎兵隊発祥の地 ② 高杉晋作 終焉の地
③ 本陣 伊藤邸跡 ④ 日清講和記念館 春帆楼
⑤ 赤間神社 安徳天皇阿弥陀寺陵 ⑦ 壇ノ浦古戦場碑
⑧ 壇ノ浦砲台跡 ⑨ 関門トンネル人道 
⑩ 門司 旧大連航路上屋

201612051

高杉晋作終焉の地 下関駅から北に自転車で10分位の場所
新地 庄屋林算九郎宅で肺結核で療養中 27歳と八か月で死亡

坂本龍馬と並ぶ位 幕末の英雄 山口県萩に生まれる 武家屋敷
晋作の実家見ましたが 立派な家でした
その後 吉田松陰の松下村塾で学ぶ 藩命でアヘン戦争後の上海
に渡航 イギリス統治下 上海での植民地の実態を見 影響を受ける
尊王攘夷運動では 品川御殿山の英国公使館の焼き討ちを行う
朝廷から要請されていた 攘夷の実行 長州藩 関門海峡で外国船
の砲撃を実施 その後 三国の連合艦隊により 馬関海峡の砲台
徹底的に破壊される それにより 農民を含んだ 兵隊組織
騎兵隊を組織 第二次長州征伐では 騎兵隊による 小倉城を略奪
周防大島海戦では 海兵隊の坂本龍馬と幕府軍と戦う
この勝利が 徳川幕府の権威低下に 鳥羽伏見の戦いの勝利に

高杉晋作 豪放らいらくで 辞世の歌は
 
おもしろきこともなき世をおもしろく

201612052


下関駅近く 海鮮問屋 白石正一郎旧宅 長州藩の尊王攘夷派を
資金面で支援 晋作 葬儀では白石正一郎が祭主

此処で騎兵隊が結成された

201612053

本陣 伊藤邸跡 伊藤家は鎌倉時代から続く 下関屈指の名家
参勤交代の九州諸大名の本陣 坂本龍馬を支援
京都 四条で 坂本龍馬 中岡慎太郎暗殺された時 龍馬 妻
お龍さんは 此処に預けられていました

201612054

日清講和記念館 春帆楼
日本は朝鮮半島の権益を巡って清国(中国)と対立1894年
に開戦 日本軍が平壌、黄海で勝利し、遼東半島を制圧した
戦況を受け、清国は講和を求める 日本全権弁理大臣は伊藤博文
と陸奥宗光、清国講和全権大臣李鴻章を主軸とする両国代表十一名
が臨みました。講和会議は、当時の春帆楼の二階大広間を会場に
繰り返し開かれ、4月17日、日清講和条約(下関条約)が締結
されました。 

その時獲得した 遼東半島 ロシア フランス ドイツによる
三国干渉により ロシアに返還 これがその後の日露戦争に
つながる

春帆楼 伊藤博文により ふぐ料理 公認された店だそうです
予約のみ食事できるみたいです
建物 近代的だな

ふぐ 近くの 唐戸市場で ふぐちり用 とらふぐ購入
息子夫婦に送りました 高いな

201612055

赤間神社 安徳天皇阿弥陀寺陵

保元の乱 平治の乱で 源氏を滅ぼし 平清盛は絶対な権力者に
清盛 嫡男 重盛 病死 清盛死後 源頼朝 従弟 木曾義仲が
京都に攻め込む 平家一門 居住地 六波羅を焼き 以前遷都した
神戸 福原方面に避難 義仲の京都での治安の悪さに天皇が義仲
討伐の令を出す 頼朝軍 範頼 義経が宇治川の戦い後 摂津
一の谷で平家に勝利 その後 平家は高松 屋島での戦いにも
負け 最後の戦いの場 1185年 壇ノ浦の戦いで 二位殿 清盛
妻と共に 入水した 8歳 安徳天皇 又 安徳天皇の母 清盛
娘 建礼門院はその後助けられました

三種の神器は 草薙の剣は回収できず水没してしまいました

神社には 安徳天皇の陵と壇ノ浦で死亡した 平家一門の墓が
有盛 清経 資盛 教經 經盛 和盛 教盛 祭られていました

201612056

壇ノ浦古戦場址 関門橋があるところが最も狭く 700M位です
潮の流れが良く見えます

源氏 830隻 平家 500隻 1185年4月25日 戦闘
午前中は平家有利でしたが 午後潮の流れが変わり 義経 源氏
の勝利 銅像は平家 大将 知盛 安徳天皇 入水後 後を追って
入水

201612057

壇ノ浦砲台跡 古戦場場址の隣にありました

孝明天皇の要請 攘夷を受け 将軍 家茂は1863年 6月25日を
攘夷実行を約束 長州藩は馬関海峡で アメリカ フランス
イギリス オランダに海峡を通過する 艦船に砲撃を加える
蛤御門の変と言い 無通告で砲撃を加えるのは 長州藩の過激
な行動です

1864年7月には 4国連合艦隊17隻で 砲台を攻撃 全て破損させ
砲台は持ち去られました

講和には とりあえず 長州藩代表で高杉晋作が交渉 (笑)

薩摩藩 生麦事件後 イギリスが鹿児島攻撃 長州藩 下関での
事件 全ての損害賠償は 幕府が支払

201612058

関門橋には 関門トンネル人道が レンタサイクルも使用出来ます
20円払い トンネルに800M 自転車押して15分 対岸 門司に

201612059

門司港駅 中心に 歴史的建物が多数保存されています
港近くに 旧大連航路上屋 戦前の 大連航路の国際線ターミナル
飛行機の無い時代 船舶で海外に 日本海 敦賀 小樽は 
ウラジオストック経由で シベリア鉄道で ヨーロッパに
横浜港はアメリカ 南米航路に 門司は大連に 此処からは
中国内陸 満州鉄道でロシアに

大連に行った時 大連港でターミナル見ましたが その後 なくなった
噂が 終戦間際 ソ連の参戦 満州にいた方 帰国は大変だったと思い
ます

建物 保存状況が良かった

再び下関に 関門連絡船で 下関 唐戸市場に 5分 自転車も船に
載せられました

下関駅近くに 釜山に行く 関釜フェリーが停泊していました

2016120510

翌日 朝一番で小倉城に 開城前 団体が 韓国人か中国人か不明
言葉を聞いていると 中国人?

関ケ原の戦いで功労のあった 丹後国宮津城主 細川忠興が豊後 国東
の城主になり 毛利氏の居城であった小倉の地に 1607年から7年かけ
築城 肥後の城主 加藤清正の子 加藤忠広が改易になり 細川忠興は
肥後に移る その後 小笠原忠真が入封 幕末 第二次長州征伐時
長州藩 高杉晋作の騎兵隊 大村益次郎により 占拠されました
最後は 幕府側は小倉城に放火し 逃亡

2016120512

博多に戻り 多々良浜古戦場に バスセンターから JRバスで
多々良に 但し 1時間に一本 30分待ち タクシーで15分
福岡市東区田の津 流通センターに 多々良浜古戦場碑

足利尊氏 鎌倉幕府 北条氏滅亡させた後 1333年 北条高時の遺児
北条時行と残党が蜂起 鎌倉に留まっていた 尊氏の弟 直義が攻めら
れる 尊氏 関東に出兵 これに敵対する 新田義貞 弟 脇屋義助が
箱根 足柄峠で激突 箱根 竹ノ下の戦い 新田軍敗れ 京都に撤退
追ってきた 足利軍 奥州より下向した 北畠顕家が加わり 新田義貞
楠木正成と戦い 足利尊氏 大敗 九州に逃れる

尊氏 肥後国守護に迎えられが 宮方に味方した 菊池 阿蘇と敵対
足利軍 宮方 九州勢と戦ったのが 多々良浜の戦い
菊池軍 20000人 足利軍 2000人であったが 足利軍勝利
勝利した 足利尊氏 摂津 湊川で楠木正成 新田義貞を破り
室町幕府を創るが 南北朝に それにしても 尊氏 気力半端でない

2016120513

多々良川 菊池軍と足利軍が川を挟んで たいじ 左上が 足利軍本陣
詳細 不明 太平記は面白い

2016120511

博多駅 因幡うどん 博多一番街店

博多豚骨ラーメンより 博多うどんがお気に入り うどん発祥の地
かぎりなく柔らかい麺 甘めの醤油 ゴボウの天ぷら 博多葱
讃岐うどんも美味しいが 博多うどん これも有りです

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2016.11.18

鎌倉 鎌倉公方と関東管領

先日は 伊勢原に扇谷上杉を見に行きましたが 今回は鎌倉に

鎌倉公方と関東管領

室町幕府は関東を統治するために鎌倉府と呼ばれる政庁を設置しました。
その前身となったのは、建武政権が設置した鎌倉将軍府です。足利尊氏は、
建武政権に反旗を翻すと、鎌倉に嫡男の義詮を置いて関東統治に当たら
せます。

貞和五年 1349年、足利尊氏の嫡男義詮の後任として、次男基氏が鎌倉へ
派遣され、以来基氏の子孫が鎌倉府の首長となり、上杉氏が代々補佐役を
務めました。

室町幕府は、鎌倉府の首長を関東管領、補佐役を関東執事として任命し
ましたが、後代になると、関東管領の足利氏が将軍家に擬えて鎌倉公方と
僭称し、関東執事の上杉氏がこれに倣って自らを関東管領と僭称するよう
になりました。近年の慣例では、遡って、足利基氏を初代鎌倉公方、
山内上杉家の祖である上杉憲顕を初代関東管領として数えます。

鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏はやがて対立し、永享の乱 1439年
では関東管領の上杉憲実が幕府方につき、鎌倉公方の足利持氏を敗死
させます。

その後、持氏の遺児の足利成氏が鎌倉公方となりますが、享徳の乱 
1455年 を起こして幕府方の上杉氏や今川氏によって鎌倉を追われ、
下総の古河に逃れます(古河公方)。成氏に対抗する鎌倉公方として
幕府から派遣された足利政知も伊豆の堀越に御所を定めたため
(堀越公方)、鎌倉公方という肩書きは消滅します。

以後、古河公方を頂点とする関東諸豪族の勢力と、幕府方の堀越公方 
関東管領山内上杉家・扇谷上杉家とが、関東を東西に二分して戦い
続けます。

享徳の乱が和解によって終結すると、今度は、争乱の中で勢力を伸ばした
扇谷上杉家が宗家の関東管領山内上杉家と対立し、長享の乱 1487年
が勃発します。

この間に、堀越公方を滅ぼした伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆国から
相模国へ進出し、やがて早雲の孫の北条氏康が古河公方・関東管領
山内上杉家・扇谷上杉家を駆逐して関東を制圧します。

義に応じた 上杉謙信 上越から関東の遠征 13回に
なっています 

北条氏康に敗れた関東管領の上杉憲政は、越後国に入って長尾景虎
(後の上杉謙信)を頼り、氏康の討伐に出陣した景虎に山内上杉家の
家督と関東管領職を譲ります。

201711149

① 長寿寺 ② 太田道灌屋敷跡 ③ 扇谷上杉管領屋敷跡
④ 山内上杉屋敷跡? 北鎌倉 明月院近く
⑤ 浄妙寺 足利貞氏の墓 ⑥ 足利公方邸跡 
⑦ 上杉朝宗 氏憲 邸跡

201711141

足利尊氏 邸跡に創建された 長寿寺 尊氏次男 初代鎌倉公方 
足利基氏によって七堂伽藍を備えた堂を建立

夏頃に鎌倉にも 足利尊氏の墓がある事を知りましたが
公開は 春と秋 金 土 日のみ公開 今回行くことが出来
ました 庭園は手入れされていて 素晴らしい庭です

201711142

観音堂の後方 崖に 足利尊氏の墓 遺髪が納められるそうです
京都での菩提寺 等持寺と此処だけに墓が

201711143

金沢街道沿い 浄妙寺 鎌倉五山 第五位
源頼朝の忠臣 足利義兼が開祖 足利氏の氏寺

訪れたのは二度目 昨年亡くなった 伝説の名女優が
住んでいた自宅を訪ねて

201711144

浄妙寺境内 足利尊氏の父 足利貞氏の墓

201711145

金沢街道 朝夷奈方面に少し進んだ所に 鎌倉(足利)公方屋敷跡
の碑 鎌倉 中心部よりはずれた場所だな

201711146

鎌倉駅 西口から横須賀線 線路沿い 英勝寺前
太田道灌屋敷跡 碑 扇谷上杉 上杉定正の忠臣 太田道灌
伊勢原 糟屋館で 定正で殺害される 伊勢原 扇谷上杉

扇谷上杉屋敷と近い

201711147

扇谷上杉屋敷跡 碑

201711148

上杉 禅秀 氏憲 邸宅跡の碑 相国寺近く
上杉禅秀の乱 この乱が原因で 上杉 4家の犬懸上杉家が滅亡

扇谷上杉管領屋敷跡碑 現在の住所は 扇ガ谷 地名からか
山内上杉屋敷跡は検索しましたが 碑は見つかりませんでした
地名 山ノ内は 北鎌倉 明月院近く 不明です

鎌倉公房が古河に移り 上杉 山内 扇谷が対立 その対立に
つけこんで 後北条 早川早雲が伊豆 堀越公方を攻め勢力
を伸ばすが 後北条も鎌倉には見向きもせず 武蔵 上野 下野
に攻め込む 鎌倉は忘れられた状態に 江戸に徳川家康が幕府
を創るも鎌倉は重要視されませんでした

納骨後 初めて 鎌倉のお墓にまいる事が出来ました


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2016.07.25

京都 天龍寺 大覚寺 等持院に

太平記で舞台となった場所 大和吉野 河内 千早赤坂
足利市 太田市 京都 室町幕府跡 鎌倉 神戸 湊川
福井 福島 霊山に行きました 今回 京都 嵐山を
中心に行って来ました

福岡 多々良の戦い 島根 壱岐島 鳥取 船上山が
ありますが 又機会があれば行きたいと思います

201607221

阪急嵐山線で 嵐山駅に 渡月橋を南側から見たのは
初めてです 嵐山の地は 平安貴族の別荘地だった場所
近年では 往年の映画スター 大河内伝次郎が30年の歳月
をかけて造園した 大河内山荘が天龍寺近くにあります

201607222

足利尊氏 後醍醐天皇 新田義貞 楠木政成 北畠顕家が
鎌倉から九州までかけて戦う 1335年 朝廷軍 新田義貞
弟 脇屋義治と箱根 竹ノ下で足利軍と激突

勝利した足利尊氏 朝廷軍を追って京都に行くか 鎌倉に
戻り 幕府をつくるか 尊氏は新田義貞を追って京都を選ぶ

これで 源頼朝に次いで 京都 武家政権 室町幕府が出来る

1336年 足利尊氏 京都を制圧 後醍醐天皇に代わり 北朝
光明天皇を立てる 1338年には尊氏は 征夷大将軍に
1339年 大和吉野に移った 南朝 後醍醐天皇 崩御

吉野 後醍醐天皇陵 方位は北側 京都を向いています

足利尊氏が菩提を弔う為に 建立したのが 渡月橋近く
京都五山 一位 天龍寺です

尊氏 弟直義が天龍寺建立の資金の為に 中国 元との貿易
の為に 天龍寺船を造る 室町幕府 三代 義満が貿易の利益
により 御所の隣に 花の御所 造営 引退後 金閣寺建立

201607223

この場所は嵯峨天皇の皇后が開いた寺があり その後亀山天皇が
離宮を造営 後醍醐天皇が幼年期勉学された場所 聖廟多寶殿 
吉野紫宸殿と同じ造り

201607224

嵯峨の竹林 天龍寺の裏側でした

201607225

大覚寺 正式名称 旧嵯峨御所大覚寺門跡 後醍醐天皇が
属した大覚寺統 北朝は持明院統 天龍寺で聞いた所 歩いて
30分 関西梅雨明け 京都特に暑い バスで

201607226

宸殿 江戸時代 後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物
御所と同じ様な造り 勅使門もあります

元は 嵯峨天皇の離宮 高尾 神護寺に弘法大師が修行に入る
時 嵯峨天皇の御所に近いので選んだと書いていましたが

現在は 真言宗大覚寺派 本山です

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正寝殿 南北に3列の部屋 南北朝講和会議が開かれた場所

201607228

等持院 足利家菩提寺 衣笠山の懐に 但し 立命館大学の校舎
裏にあり 風景はいまいち

大覚寺から嵐山に戻り 嵐電嵐山本線 途中で乗り換え 等持院駅に
江ノ電の様な電車です

201607229

霊光殿 歴代 室町幕府将軍 15代 但し 5代 義量 14代
義栄を除く 義量は 4代将軍 義持が38歳で退位 5代 義量に
17歳で即位 但し生活態度が悪く 酒におぼれ19歳で死亡
14代 義栄は 12代将軍 義晴の弟の子 松永久秀により13代
将軍 義輝は襲われ殺害される 松永久秀は三好に養子に行って
いた 義栄を阿波より呼び寄せ 14代将軍に据えるが 京都には
織田信長が上洛 三好三人衆と義栄は阿波に逃亡 義栄はその後
死亡 この様な事情で二人の木像はないのでしょうか

初代 尊氏の像 最近話題になった教科書に載っている 画像が
落ち武者の画像ではないかの疑念 確かに顔が違う様に思う

3代 義満の木像 髭を生やし裕福そうな顔です

8代将軍 義政 日野富子と別居 東山に銀閣寺を作り
引退 確か応仁の乱が始まっていたのに

しかし 室町幕府 15代 江戸 徳川幕府 15代
鎌倉幕府 源氏3代 北条執権 16代 この位が
権力の限界ですか

室内 内部は撮影禁止でした

幕末 1863年 等持寺の木像 1代 尊氏 2代 義詮 3代 義満の
像の首と位牌が盗まれ 賀茂川の河原に晒される事件が 勤王の浪士
が実施 倒幕の為に実施 やはり 尊氏は朝敵なのでしょうか?

2016072210

等持院境内に初代 尊氏の墓 幕府を造った人物の墓としては質素
源頼朝の墓も質素ですが 尊氏の墓は鎌倉 長寿寺にもあります

鎌倉幕府に比べ 室町幕府 後半は 応仁の乱で京都は壊滅的打撃を
うけるのですが 朝廷と武家が同居したおかげで 文化的には発展
生け花 茶道 能などは室町時代に生まれました

2016072211

祇園祭 巡航の次の日に行きました 四条烏丸付近 鉾 解体中
でした

2016072212

等持院より 嵐電で四条大宮に 前回宿泊したホテル近くの
立ち飲み居酒屋 庶民に 再訪 居酒屋ですが料理はおいしく
格安です やはり夏の京都はハモ 淡路島産 これで400円 満

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2016.04.16

福井県 歴史的な場所 五カ所

柴田勝家の心境 昨年から福井に行きたかったの
ですが 雪の影響で 先日やっと行って来ました
今年二月 新東名 浜松いさなICから豊田ICまで
開通 御殿場から名古屋まで快適に移動出来る様に
なりました 御殿場から神奈川 何年先の開通か

見たかったのは 1)賤ヶ岳の戦いの福井側 2)新田義貞 福井での
戦いと最後 3)大谷吉継の敦賀城址 4)織田信長 金ヶ崎退き口
5)水戸 天狗党の最後 五か所を二泊三日で福井に行って来ました

福井市近辺

2016041321

① 一乗谷 朝倉義景居城 ② 藤島城 新田義貞 攻略為に向かった城
③ 新田塚 新田義貞死亡した場所 ④ 称念寺 新田義貞御墓所
⑤ 柴田勝家 お市の方と自害した 北ノ庄城

福井 滋賀 広域図

2016041322

① 前田利家 居城 府中城 ② 木ノ本 秀吉本陣
③ 賤ヶ岳 ④ 余呉湖 ⑤ 柳ケ瀬 柴田利家 玄番尾城
⑥ 杣山城 新田義貞 金ケ崎脱出後 入城
⑦ 木の芽峠 義貞 金ヶ崎に攻め込む為に迂回 天狗党も通過
⑧ 浅井 長政の居城 小谷城 ⑨ 熊川宿 ⑩ 朽木 
⑪ 敦賀 (金ヶ崎城 敦賀城 天狗党処刑場所)

賤ヶ岳の戦い

201604131

信長死後 羽柴秀吉 山崎の戦いで 明智光秀破り その後
清州で 柴田勝家らと会談 信長の後継者は嫡男 信忠の子 三法師に
1583年 勝家の同盟者 滝川一益の亀山城を攻める 勝家は雪の為に
動けなかったが 三月に福井 北ノ庄より近江 柳ケ瀬に布陣 秀吉も
木之本 余呉湖東岸に布陣 木之本 地蔵寺が秀吉本陣 寺の前は
北国街道 4月 信長三男 信孝攻める為に 岐阜城に 大雨の為に
揖斐川が氾濫 秀吉軍が大垣で足止め 秀吉が戦場から離れたので
勝家の従弟 佐久間盛政が秀吉軍 大岩山砦の中川清秀戦死

秀吉軍 山崎の戦い中国大返しと同じく 大垣から木之本 56Kmを
5時間で戻る その後賤ヶ岳の戦い

201604132

余呉湖北岸 左側の山は 大岩山砦付近 右側の尾根は佐久間盛政が
攻め込んだ所 正面は 賤ヶ岳 賤ヶ岳戦い 布陣図
以前訪れた 賤ヶ岳山頂より

201604133

近江柳ケ瀬 柴田勝家が築いた 玄番尾城 本格的にな山城
後方 内中尾山 頂上に建築 本格的に準備していました

柳ケ瀬と聞き 岐阜の柳ケ瀬と勘違い 山の中でした

201604134

当時の 前田利家の居城 府中城 利家は柴田勝家の家臣
賤ヶ岳戦いの途中で戦線離脱 府中城に戻る 利家 戦いの前年
休戦の為に 勝家の使いで秀吉を訪ねています 密約でのあったか
お互い夫婦 若いころから顔なじみでした

戦いに敗れ 秀吉は勝家を追っかけ北ノ庄城に行く途中立ち寄り
又逃げる勝家も訪れています 北ノ庄城 現在はほとんどが福井城

府中城 武生駅前 越前市役所が城址

201604135

隣に正覚寺 府中城の門が残っています

正覚寺は南北朝時代、越前国守護の斯波高経が建てた新善光寺城跡
新田義貞と日野川での戦闘で高経が大敗し新善光寺城は落城

新田義貞の最後

201604136

新田義貞 新田氏 8代目棟梁 後醍醐天皇より 鎌倉幕府討伐の
綸旨を受け 群馬 太田市 生品神社で兵を挙げる
鎌倉幕府 北条執権を破り 鎌倉幕府は消滅
尊氏討伐と敗退
京都での抗争
正成との合流・湊川の合戦

天皇の裏切りと北陸落ち 義貞の提言の結果、宮方は北国へ向かう義貞 後醍醐天皇 子息
恒良親王、尊良親王 軍勢は 1336年 7000人で 越前に下向 敦賀 金ヶ崎城に
入城しようとするが 足利軍守護 斯波高経が軍勢が固めており 敦賀には 栃の木峠経由
木の芽峠を経て 敦賀に峠は当時 現在の歴では 11月15日で降雪で 300人の凍死者を出す

木の芽峠は 水戸 天狗党もここを経由して 敦賀に入っています

201604137

新田軍は気比神宮 宮司に迎えられ城敦賀 金ヶ崎城入城 

201604138

翌年 3月 足利軍に金ヶ崎城囲まれる 新田義貞&義助の兄弟
は落城前に脱出 義貞 嫡男 義顕は自害
尊良親王は自害 恒良親王は捕らえられるが その後毒殺

201604139

新田義貞 金ヶ崎城 脱出後 杣山城に逃れる
越前市 新善光寺城の斯波高経を攻め落とす

2016041310

義貞は北朝に寝返った 平泉寺衆徒が籠る 藤島城に攻めの加勢に
行く途中 燈明寺畷で討死 燈明寺畷付近の新田塚
1657年 農民が水田より鉄製の兜を掘り出す 当時の藩学者 井原番右衛門
が1338年に戦死した 新田義貞の兜と鑑定 1660年福井藩主 松平光通が碑
を立て 新田塚とした

2016041311

坂井市 丸岡城近く 新田義貞公御墓所 称念寺
燈明寺畷で戦死した 義貞の遺体 僧8人で此処まで運び埋葬
太平記に記載されているようです

浪人中の明智光秀が門前に寺子屋を建て生活 その後 一乗谷の
朝倉義景に仕えが見限り 落ち延びて来た室町幕府 最後の将軍
足利義昭を織田信長に紹介する

太平記 後醍醐天皇 足利尊氏 新田義貞 楠木正成 北畠顕家の戦い
足利尊氏 めげず最後は京都で幕府 義貞 鎌倉攻めみにで弱い

司馬遼太郎さん 歴史小説多数出しているのですが
南北朝 太平記について美意識がないとの事で 書かれなかった
のだそうです 確かに疲れる時代

大谷吉継 敦賀城

2016041312

敦賀 敦賀城の碑 敦賀市西小学校 前に 気比の松原付近に
大谷吉継の居城 敦賀城 徳川家康 上杉討伐軍に参加する
途中 彦根城近く 佐和山城 石田三成に呼ばれ 西軍に参加を
要望されるが 最初は断っていたが 友情で西軍参加 関ケ原の戦い
では 裏切り 小早川秀秋の抑えを受けもつが 秀秋の裏切りで
戦死

金ヶ崎城 信長の退き口

2016041313

足利将軍 一乗谷 朝倉氏上洛命令に従わず 陰では織田信長の
指示 朝倉氏 斯波氏の家臣 織田家はそれ以下家臣なので
朝倉氏従うはずもなく 信長は 一乗谷の朝倉を攻める事を決意

琵琶湖西岸より 敦賀に 金ヶ崎城には 手筒山城を経由して
攻める 気比神社より 右側の高い山が手筒山 左側が金ヶ崎城

2016041314

信長が本陣を置いた 妙顕寺 後方に手筒山が見えます
二日間で 両方の城を攻略 二つの城を 羽柴秀吉 明智光秀に
任せ 信長軍は 一乗谷に 

2016041315


手筒山より金ヶ崎城 良く見えます 三方が海 守りやすい城
新田義貞も入城したのが解る

信長軍 途中で 浅井長政の謀反を知る 長政 信長の妹 お市
と結婚時の条件として 朝倉は攻めない約束破られた為に 離反
長政の城 小谷城 木之本の近く 琵琶湖北部より敦賀に行けば
北の一乗谷の朝倉と挟み撃ちです

信長すぐに撤退を決意 羽柴秀吉を殿軍にして 来たとは違い
若狭路(鯖街道)で

2016041316

若狭路の途中 熊川宿 攻め込む時は此処で信長一泊
逃げる時は そんな余裕はなかったと思います

2016041317

朽木手前まで来た時 領主 朽木元綱が甲冑姿なので 怪しんだ
信長 松永秀久と森可成を事情聴くために派遣 その後 元綱は平服に
着替え信長を迎える その間 隠れたのが信長の隠れ岩 松永秀久に
任せて大丈夫 二度まで信長に背き三度目に滅ぼされましたが

1570年 4月20日 京都を出発 4月30日に京都に戻る
京都から岐阜城に戻る途中 南近江で 六角の家臣 善住坊に狙撃
されましたが 無傷で帰っています 運が良い

6月には 小谷城南側 姉川で 織田 徳川連合軍と浅井 朝倉連合軍
が激突 信長勝利しています

水戸 天狗党 敦賀 処刑

2016041318

処刑が行われた 来迎寺 5回の処刑で353人
島流し 137人 水戸藩渡し 130人

門は 敦賀城の中門です

水戸は 幕末 尊王攘夷思想 水戸学が盛んにになる 攘夷は
井伊直弼が天皇の許しがないまま 日米通商条約を締結 水戸藩主
斎昭は安政の大獄で処分 水戸藩士が桜田門外の変で 井伊直弼を
殺害しています 水戸学の藤田東湖が地震で死亡 四男 小四朗が
幕府に即時閉港を要求して筑波山で挙兵 当時 京都に在住していた
斎昭の七男 一橋慶喜 最後の将軍 に力を借り,朝廷に尊王攘夷を
訴えることを決めた 京都を目指し 元家老の武田耕雲斎を総大将と
し1000人で西行 ルート

天狗党の首脳は,ついに,先に進むことをあきらめ,新保のすぐ近く
に陣をしいていた加賀藩に降伏した。京都へ向けて出発してから50日余り
最初は処分は楽看的で 加賀藩は優遇し 気比神社近くの寺に留め置き
されましたが

2016041320

幕府の若年寄の田沼意尊による取り調べが行われ と扱いは一変
天狗党一行に対する刑が決められた

海岸近くの ニシン小屋 16棟 823名が閉じ込められました
松原神社に 1凍が保存されていました

2016041319

来迎寺の隣 処刑された353人の墓 武田耕雲斎の像

水戸藩はその後 幕末 保守派と天狗党に分かれ 政変ごとに
対立 新政府からは 忘れられた藩になりました

熊本地震 驚きました 若狭地方 原発の宝庫 金ヶ崎からは
敦賀原発が見えます 小浜方面に 美浜原発 高浜原発 
地震時大丈夫?

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2015.10.23

京都 石清水八幡宮 東山南部に

201510212

まず最初に 京阪電車 八幡市駅に 此処より男山ケーブルで
頂上に 石清水八幡宮に 源氏と八幡宮信仰は強く 此処で
源頼家が元服 その後 頼家は八幡太郎と呼ばれる
源平合戦後 鎌倉幕府を開き 頼朝は鶴岡八幡宮を創建

今年 国宝に指定するように 文科省に答申
今まで 国宝に指定されていなかったのが不思議です

201510213

男山頂上展望台からは 京都方面が 3方は山で 南側のみ平地
その方向に男山があり 下側には木津川 桂川 宇治川が合流
遠くには 比叡山も見れます

八幡市は エジソンが白熱電灯 発明時 付近の竹を使用
してフィラメントを作成 記念碑が又 日本飛行機のパイオニア
二宮忠八が創建した 飛行神社がありました
以前の仕事の縁でお参りに

2015102114

展望台左側には 天下分け目の戦いで有名な 1582年6月13日
山崎の戦いの場所 本能寺の変は 6月2日なので 11日後

天王山 本能寺の変で信長を倒した 明智光秀
と 中国攻めの最中 備中高松城より大返した 羽柴秀吉の
山崎の戦いの場所です
敗戦した 光秀は勝竜寺城に その後琵琶湖近くの 坂本城
に逃げ帰る途中 伏見付近で 土民に殺される

秀吉は 天王山に城を築き 大阪城が完成するまで 留まる

201510211

① 建仁寺 ② 西大谷本廟 ③ 方広寺 ④ 豊国神社
⑤ 耳塚 ⑥ 豊国廟 ⑦ 三十三間堂 ⑧ 智積院
⑨ 六波羅蜜寺

201510214

再び 京阪電車に乗り 京都 祇園四条駅に 南座に出ました

此処から 東山 南側に まずは建仁寺に 勅使門
平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものと
いわれている 敷地が広大で見る事は出来ませんでした

201510215

六波羅蜜寺 空也上人が此処に西光寺を創建 その後 中信が
六波羅蜜寺と改名 付近は鴨川東岸 5条から7条は 六波羅と
呼ばれる

寺には平清盛座像があり 見ごたえあります

201510216

寺内の 六波羅の碑 平安後期 平清盛の父 忠盛がこの付近に
軍勢を留め その後 清盛の時代になると 平家一門の邸宅が
5200邸近く立ち並ぶ 保元 平治の乱後 平家の時代に
清盛死後 源氏は 義仲軍が京都に乱入 平家一族は六波羅の
邸宅を焼き 西側に逃げる

京都は 源頼朝軍 義経が義仲を攻め 滅亡させる

鎌倉幕府が出来るが 1221年 京都で 後鳥羽上皇が鎌倉幕府
に討伐の兵を挙げる 承久の乱 北条政子の演説で 上皇挙兵
板東武士が京都に攻め上がり 滅ぼす 後鳥羽上皇は壱岐に
流される 後醍醐天皇の様に京都には帰れず 現地で死亡

鎌倉幕府 朝廷監視の為に 北条執権は 六波羅に北と南に
六波羅探題を置く

1333年 元弘の乱時 新田義貞が鎌倉を攻め 足利尊氏
佐々木道誉などが 京都 六波羅を攻め 鎌倉幕府は消滅
する 平家の栄華 鎌倉幕府の監視場所があった場所

201510217


方広寺に行く途中 西大谷本廟に 母の三回忌 法事後
分骨しました お参りに

坂上田村麻呂が関係した 清水寺 全て歩きなので パス
観光客が凄い数です

201510218

此処からは 豊臣秀吉に関した場所
方広寺 大阪冬の陣の原因になった 鐘
元々は此処に 秀吉 木造で東大寺より大きな大仏建立 その後
地震で倒壊 秀吉死後 家康の勧めで供養になるので 秀頼は再び
大仏建立 開眼供養時 梵鐘の銘文に家康が異議を唱え それが原因で
大阪の陣に 実際見ると大きい 70tonあるそうです
大仏は放置されたが その後又地震で崩壊

現在の方広寺小さい 隣が豊国神社

201510219

豊国神社 豊国廟 秀吉の死後 徳川家康により破壊
明治になり 明治天皇により再建された 勝者の原理か

門は伏見城から移築された 西本願寺の門も
伏見城は 現在 明治天皇陵になり 場所も不明です

2015102115

豊国神社前の耳塚 朝鮮出兵時 首ではなく
二万人の耳 鼻を埋めた塚です

秀吉 老害で最後は 朝鮮 明に攻めこみ
此れがもとで 秀吉家臣 石田光成と加藤清正
福島正則が対立 関ケ原の戦いも変わっていたかも

2015102110

智積院 真言宗智山派総本山 秀吉死後 秀吉が最初の嫡男
鶴丸の菩提を伴う為に建立した祥雲寺 家康の命により寄進
された

2015102111

阿弥陀ヶ峰山頂 豊国廟 階段 直登 約500段
女子大を過ぎた 駐車場の先にありました 徳川により
破壊されたので閑散としています 現在は整備されていますが

2015102112

豊国廟 1598年8月18日 伏見城で享年62歳で死亡
死に先だて 5月15日 5大老5奉行に起請文の提出を求め 7月4日には
家康に秀頼の御家人になるように要請

秀吉 辞世の句が好きです

露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

名古屋 中村区の百姓の子?で生まれ天下人となった秀吉の
人生観が表れている 

死後みじめだったのは 武田信玄 秦の始皇帝

秀吉の死は秘密にされ この時は 二度目の慶長の役の最中で
朝鮮よりの引き上げの為に秘密にする必要があった

1599年4月13日に伏見城より阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬
4月19日には 皇室より 正一位が贈られ 神になる
その為に 特に葬儀は行われませんでした

同じ神になった 家康は久能山東照宮 日光東照宮に祭られ
それと比べ寂しい死後でした

疲れの為に 平清盛が寄進した三十三間堂はいけません
でした 紅葉にはまだ早いですが 来月になると観光客で
混むのでしょうね

気になっていた 東山南側に


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2015.09.22

福島 伊達市 白河市 山形 米沢市に

201509201

霊山 場所   MAP 中央部 下側

国道115号の途中 伊達市 相馬市の境に
霊山が 山城で頂上付近には霊山城跡が 南北朝時 北畠顕家
御醍醐天皇の子 義良親王を奉じて 父 親房と共に 奥州 多賀城
に下向 当時は 北朝 足利尊氏の斯波家長が 多賀城の北側に
には 北朝 足利尊氏 配下の斯波家長が 多賀城の北側に布陣

1335年 北条執権 高時の子 時行が鎌倉に攻め込む 一時支配
(中先代の乱) その後 足利軍が鎌倉を取り戻す 
朝廷が尊氏・直義追討の宣旨を発する

新田義貞 直義が鎌倉を攻めるが 箱根・竹ノ下の戦いで敗北
新田軍は京都に向けて逃げ帰る

北畠顕家 奥州軍が足利尊氏を攻撃するために 仙台市近くの
多賀城より京都に向けて遠征 この時 伊達行朝 北畠軍に従軍
新田 楠正成 北畠軍により京都で勝利 足利尊氏 九州に追いやる

北畠顕家はその後 再び奥州多賀城に帰るのですが 
その後 足利尊氏は 九州より舞い戻り 湊川で楠正成が戦死
新田義貞 後醍醐天皇は比叡山に避難

奥州に戻った北畠顕家 多賀城の北 北朝の斯波家長が脅威
南朝軍立て直しの為に 国府を宮城 福島の県境の霊山に移す
準備を整え 1337年 再び 上洛 京都では 新田義貞との
連携に失敗 顕家 石津の戦い 大阪 堺市で戦死 享年20歳
その前に 義良親王 (後村上天皇)を南朝の吉野に返す
顕家の墓は阿倍野神宮にあります

顕家死後 霊山城は9年持ちこたえるが 北朝軍により落城

二度の東北~京都 遠征凄い 

何故 北畠顕家が国府を 多賀城より霊山に移したか
伊達家をはじめ南朝軍が立てこもる霊山を選択

201509202

霊山城方面 右側の山頂付近 朝5時に自宅出たので 山頂
までいけませんでした 大阪 河内長野の楠正成の赤坂千早城より
厳しい

201509203

阿津賀志山の戦い 防塁の場所が解らず 国見町役場に
受付の方が資料出して来て教えていただきました

阿津賀志山防塁 阿津賀志山より阿武隈川まで3Kmの防塁
福島 宮城の県境で 交通の要所 山により平野が狭く
防御の為の堀 土塁 1189年 8月8日源頼朝による奥州藤原氏
攻め 10日には藤原軍は敗走 9月3日 秋田比内郡で四代泰衡は討ち取ら
れ 奥州藤原氏滅亡

合戦には 伊達家 祖 伊達朝宗も頼朝軍に参戦 
石那坂の戦いで功績を上げ伊達郡を与えられている

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正面は東北道 JR東北本線 国道4号 左側が阿津賀志山
この付近 防塁が良く残っています

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阿武隈急行線 高子駅近く

奥州合戦により 戦功により 始祖 伊達朝宗が築いた居城 高子岡城跡
360年この地にいたのですが 15代晴宗の時 室町幕府将軍足利義輝の命
で 山形県 米沢に 17代 伊達正宗は米沢で誕生

北畠顕家が奥州に来た時 その後 顕家による京都攻めに伊達家は
南朝軍に従軍しています

場所は 福島ですが 伊達市

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梁川八幡宮 阿武隈急行 やながわ希望の森公園前駅

1587年4月1日 伊達正宗 16歳 父 輝宗と共に 初陣 祈願で
訪れ 6月3日には金山城を陥落させています

6月2日には 織田信長が本能寺で明智光秀が攻撃 信長が死亡
その後 豊臣秀吉の時代に

秀吉の小田原(北条)征伐後 1590年 奥州仕置 伊達政宗には
会津 米沢を没収 会津は 蒲生氏郷に 正宗は1951年宮城 
岩出山城 1603年仙台城に

201509207

伊達市より山越えで 山形 米沢市に 郊外の小野小町ゆかりの
小野川温泉泊 源泉かけ流しの良い温泉でした

近くの田んぼ 田んぼアートに 今年は 花の慶次 前田慶次
パチンコでしか知りませんでしたが 金沢藩 前田利家の義理の甥

米沢 上杉景勝に仕官 供養塔は米沢に

201509208

201509209


旅館の主人と話していると 伊達氏が福島伊達市より米沢に移った
時 築城した 館山城が現在 発掘中 米沢より会津に行く街道
の途中 館山水力発電所 付近に

伊達正宗誕生地の看板
登り切った所に 本丸の看板 

詳しくは不明です 道路には案内書もなく 迷いました

2015092010

上杉家廟所 中央が 初代 謙信 左側が 二代目 景勝から一二代
斉定まで十代 治憲(上杉鷹山)から屋根が質素に 
初代 上杉謙信 墓 上越 春日山林泉寺にありましたが
改葬されたのでしょうか

2015092011

上杉神社 元米沢城址 会津 蒲生氏郷 嫡男 秀行時改易になり
会津には 上杉景勝が上越 春日山城より入封 米沢城には
重臣 直江兼続が城主となるが 秀吉死後 徳川家康との対立
関ケ原の戦いで西軍が負戦 会津は保科正之 父は二代将軍秀忠
その後 幕末 京都守護職 松平容保に 戊辰戦争で会津攻めに

上杉景勝は関ケ原後 米沢の城主に

関ケ原の戦いの前 東北では 伊達政宗と上杉景勝の戦いが

上杉神社には 伊達政宗誕生の地の碑 館山城ではないのか不明です

2015092012

上杉神社前 上杉博物館 是非見たかった 上杉本洛中洛外図屏風
先月までは 本物でしたが 今月は複製品 狩野永徳作 国宝

上杉謙信の偉大さを象徴する屏風 送り主は織田信長です
いかに 謙信を恐れていたか 上越 会津 米沢と運ばれの
でしょうか 見たかった 家康に見栄をきった 直江兼続の直江状
なかった

2015092015

上杉神社 近く 山形大学の隣に春日山林泉寺 
直江兼続夫婦 上杉家奥方の墓が 変わった所では
忠臣蔵 吉良上野介の子が上杉家に養子 5代藩主 綱憲
本所 吉良屋敷に討ち入り時 上杉家臣 新貝弥七郎の墓
堀部保兵衛に槍で刺され死亡 

2015092013

奥州三関の一つ 福島 白河の関 他は いわき市 山形 鶴岡
なので 白河は東山道の関 奥の細道で芭蕉も訪れています
源頼朝が奥州藤原氏を攻める時 家臣 梶原景季歌を読み
源義家が前9年の役 後3年の役時 又 義経が平泉に行くとき
に此処を通過しています

内部は白河神社ですが 周りには堀があり 山城の様な作りです

2015092014

米沢より喜多方は遠回り 以前喜多方ラーメンは食べた事あり
今回は 同じ福島の白河ラーメン とら食堂に

ラーメン屋などあるのかと思う のどかな場所にありました
駐車場は広いのですが 満車 ほぼ福島ナンバー
40分待ちで食べられました 端麗 鳥ガラ 醤油ラーメン
麺は 平打ち ちじれ麺 スープは上品な味 味は 神奈川
湯河原の飯田商店に似ている

今後 東北 秋田 横手 岩手に行く予定
雪が降る前に行けるか?


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